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「で、話ってのは何だい?」
応接室のソファに深く腰掛けた恒は、足を組むと慧の方を気怠げに見つめた。
奥さんの出産予定日まで間もなくとのことで、しばらくはこちらに来ることはないという。
ということは今頃、居るだけで息の詰まるようなあの実家も、新生児を迎える準備やらなんやらで多少は賑やかしくなっているのだろうか。想像がつかない。
慧は上体を屈めて足の間で手を組むと、下からじっと男を睨みつける。
そして、淀みなく一息でこう言い切った。
「あの日、兄さんが押し付けてきた『提案』の返事だよ」
兄は最初、何のことやらという顔をしていた。
慧は呆れて一つ息を吐く。
「この前、言っていただろ。兄さんが、こっちに事務所を構えるっていう話。というか、実家の方を俺に譲る代わりに、何ならこの事務所を自分が引き継いでもいい、って」
……改めて口に出すと、実にとんでもない提案だったのが分かる。
慧は組んだ手を握り直すと、「その返事だけど……」と続けようとした。
が、それより先に。
「ああ、そのことだけどね」
兄は突然、さっきまでのやる気のない表情を一変させると、いきなりこちらへと身を乗り出してきた。
「実は、彼女のお母さんの体調が回復したんだよ」
「……え?」
今度は慧があ然とする番だった。
以前聞いていた話では、命に係わるようなものではないにせよ、その病弱な体質もあって決して楽観できないという状況のはずだった。それが、こんなに短い期間でどうにかなるものだろうか。
そんな慧の疑問を察したのだろう、恒は「僕も最初は驚いたんだけれどね……」としみじみと続けた。
「前に一度、僕の方からおすすめしておいた医者がいてね。でも、どうせどこに行ったって変わらないって思っていたのか、なかなか渋っていたんだけど……ついこの間、とうとう彼の病院に行ってくれてね。で、そこで出された薬が凄く身体に合ったらしくてさ。そのお陰で、むしろ倒れる前よりも元気になったんじゃないかってぐらい良くなったんだよ。奇跡ってまさにこういうことを言うんだろうね」
「……」
色々とおかしな点ばかりだったが……慧はあえてそれを突くことはしなかった。
(そういうことか)
きっとそのお義母さんも、まさか自分のためだけに、家業を捨ててこちらへ来るなどという提案に腰を抜かした一人なのだろう。彼女の本当の体調が心配ではあるけれども、どうにかしなければ……と知恵を振り絞った結果がこれならば、乗らない手はなかった。
「それで、もうこっちの心配はしないで、あの子だけ見ていて頂戴って頼まれちゃったんだよ。もうすぐパパになるんだから、ってね」
兄はそう捲し立てると、にこにこと――いや、でれでれと、と言ったほうが正しいかもしれない。まさにそんな顔で笑っていた。
「それに今日なんて、子供を育てるなら自然の多いところが一番よって言われちゃったしね。そうなるとやっぱり、ここより断然、実家だろ?」
「そうだね」
慧の気のない相槌も気にならないらしく、兄は全身から幸せオーラを発しながら喋り続けていた。
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