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「ちなみに、奥さんは何て?」
そう尋ねたのは最終確認のためだ。
もしここで、彼女がまだ同居を諦めていないなどと言うようなら、彼女を溺愛している兄のことだ、また話を振り出しに戻すことも十分考えられた。
「それだけどね……」
恒は突然顔を曇らせる。
「いくらお義母さんの体調が良くなったからって、心配なことは変わらないだろう? だから、妻も最初はやっぱりこっちに戻りたい、って譲らなかったんだよ。でもこの間一緒にお義母さんに会いに行ったとき、二人の会話が聞こえてきちゃってね。お義母さん、『いくら元気になったからって、もう一回赤ちゃんを育てる余裕は無いわよ』って笑っていたよ。それからはもう、妻もそういうことは言わなくなったね」
きっとそれもまた、お義母さんの本音なのだろう。ただ一方で、そこには彼女なりの心配も隠れている気がした。
ここでもし、自分の娘が泣き落としでもして兄にこちらに来る選択をさせてしまえば、おそらく父は兄を許さないだろうし、彼らは実家と縁を切ることになるはずだ。
そうなれば確かに、兄が以前言っていた『プレッシャーのない環境での子育て』は叶うだろう。だが、長期的に見たとき……果たしてこの絶縁状態が、彼らや、これから生まれてくる子供にとって良いと言えるだろうか――そう考えたのかもしれない。
(……まともな人がいてくれて良かった)
内心でそう彼女に感謝しながら、慧はまた適当な相槌を返したのだった。
「……ということで」
その後、しばらくぺらぺらと自分の子育てプランを語っていた恒は、間もなく一周しそうな長針に気付くなりそう言って話を締めくくりだした。
「あの話は、無しということになったからね」
「……」
(なったからね、じゃないんだよ)
散々人を振り回しておいてそれか、と腹立たしい気持ちが沸き上がる。が、どうにか抑え込んで、慧は一言「分かったよ」とだけ返した。もうこれ以上、この件で余計な労力を使いたくはなかった。
「邪魔したね」
「いいや、俺が呼んだんだから」
「それもそうだね」
恒はふふっと笑うと、有名な子供服ブランドの紙袋を両手いっぱいに提げて玄関へと向かった。
「子供が生まれたら連絡するよ。そうしたらぜひ、実家に直接会いに来てほしい。父さんたちも喜ぶだろう」
「……考えておく」
「慧」
「何?」
扉に手を掛けた兄は、くるりと慧の方を振り返る。
「前に言っていた、父さんのこと……あれは、本当だからね」
「……後悔している、ってやつ?」
「そうだよ」
兄はさっきまでの浮かれた表情を消し去ると、慧の目をまっすぐに見据えた。
「父さんと正おじさんは上手くいかなかったけれど……きっと僕たちなら、そんなことにはならないはずだ。だから、もし、戻ってきたくなったら――」
「それはないよ」
慧はぴしゃりと恒の言葉を遮った。
「実家に戻ることも、この事務所を手放すことも……絶対にない。それを今日、言うつもりでいたんだ」
「……そうか」
恒は一言だけ返すと、またすぐにさっきまでの表情に戻る。
そして、「生まれたら写真、送るからね」とにっこりと微笑むと、革靴の音を揚々と響かせながら去っていったのだった。
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