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どさりと応接室のソファに身体を沈める。
兄と話をしていたのは時間にしたら一時間にも満たない。だが、厄介な事件で法廷に立った時以上に心身を消耗した感覚だった。
それでも……これでようやく、決着を付けられた。
今まで碌に主張したことのない慧が、あそこまではっきりと言い切ったのだ。いくら自己中心的な兄とはいえ、同じ頼みをしないだけの分別は流石にあるだろう。
「……」
白い天井をぼうっと見つめる。
『前に言っていた、父さんのこと……あれは、本当だからね』
最後に兄が言っていた言葉が過る。
思い出の中の父はやはり自信に満ちていて、自分のために悩んでいる姿など想像すらできなかった。
今になって、全く勝手なものだと改めて思う。
だが、彼を恨み切れない自分もいるのだった。
『僕は、父さんのような立派な弁護士になりたいです』
作文にそう書いた通り……父は、自分にとって憧れそのものだった。
だからこそ、どんなに期待されなくても、無視されても、嫌いになれるはずがなかったのだ。
『父さんのそばで、困っている人をいっしょに助けたいです』
兄の提案にきっぱりとノーを突き付けた以上、それは二度と叶わない夢となった。
でも、後悔はない。
この事務所と共に、この地で骨を埋める――その覚悟が今は出来る。
司法修習生時代から付き合ってくれている友人達。弁護士としてのいろはを教えてくれた以前の事務所の先生方。人生の困難を共に乗り越えた依頼人。常に慧を支え、一緒に働いてくれている美晴と奈穂子――彼らがいたからこそ、この事務所があり、今の自分がある。
そして。
『先生』
記憶の中の、自分を呼ぶタクヤの声。それを思い出すだけで、どうしてこんなに力が湧くのだろう。
いや、どうして、だなんて。理由はとうに分かっている。
彼との関係が、あの頃とは違う。
彼が、自分と同じ気持ちであるのだと信じられるから。
「タクヤさん」
実際に口に出してみると、ずっと抑えていた思いが溢れてしまいそうになる。まさか、こんなに長く会えなくなるとは思わなかった。
でも、そんな日々とももう少しでお別れだ。
彼の店のスタッフ数名が受けるというコンテストも無事終了したと数日前に連絡があった。しかも狙っていた賞を獲れたとのことで、文面から彼の弾むような声が聞こえてきそうだった。
「……」
慧は浮かんだ考えを、首を振って振り払う。
今日は流石に無理な話だ――彼に会おうだなんて。仕事の後に祝勝会があると言っていたじゃないか。
「…………」
(いやいや、無理だって言ってるだろ!)
慧は自分の頬を両手でばしんと叩くと、勢いを付けてソファから立ち上がる。
きっと今頃、タクヤは仲間たちと勝利の美酒に酔いしれていることだろう。慧もマンションで、そんな彼の努力が報われたことをひっそりと祝おう。そう、彼がずっと前に置いていったウイスキーでも拝借しながら。
……と、シンと静まり返った事務所に、バイブレーションの音が大きく響き渡る。
慧は急いで事務室の方へと戻り、机に投げ置いたスマホを手に取る。
画面に表示された名前を見たその瞬間、慧は思わずひゅっと息を飲んだ。
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