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「先生、本当にありがとうございました」
前野は丸まった背をさらに丸め、慧に頭を下げる。
裁判所の廊下は今日は一段と静まり返っていて、彼の弱々しい声も難なく聞き取ることができた。
「いえ、まだ終わったわけではないですから」
慧が淡々とそう答えると、男はよろよろとその頭を持ち上げた。
その顔には深いしわが幾重にも刻まれ、目は落ちくぼみ、皮膚は浅黒く細かなしみが無数に散らばっている。長年の肉体労働で酷使され尽くした膝を支える杖を持つ手は、薄い皮膚だけがその骨の上に張り付いているだけだった。
実年齢よりゆうに十歳以上は上に見られそうな彼もまた、自己破産で依頼を受けた顧客の一人だった。
慧が当番の日の無料相談会に彼がやってきたのは、今から半年ほど前のことだった。
「これまで何とか返しきろうと頑張ってきたのですが……もう、身体もこのようになってしまい……」
擦り切れた鞄から取り出した、古びた借用書。
その『連帯保証人』の欄には、彼の氏名が淀みのない筆跡でサインされていた。
「このご本人は、今は」
その問いかけに、前野は力なく首を振る。
「もう何十年も前に夜逃げしたようで、それきりです」
彼は虚ろな目で、『借主』の欄を眺めていた。
「昔、世話になった人だったんです。でも、その時は、まさかこんなことになるとは思わず……」
彼はそこまで言って、声を詰まらせる。
その強い責任感だけを支えに、背負わされた重荷を下ろさず、たった一人でここまで生きてきたのだろう。そんな彼が今日ここに来る決意をしたその心中は、いくらこのような話に慣れている慧とはいえ、そう容易く推し量れるものではなかった。
慧は彼の不幸な人生の始まりとなったそれをそっと脇へと除けると、いつもの債務整理のパンフレットを机上に広げたのだった。
慧の言葉に一層小さくなってしまった前野に、慧はこれ以上怖がらせないよう抑え目な咳ばらいをする。
そして、威圧感を与えかねない眼光を緩めると、男へと静かに語り掛けた。
「でも、しっかり練習通りには出来ていましたから、印象は決して悪くなかったと思いますよ」
その言葉に、前野はまた「ありがとうございます」とさらに深々と頭を下げた。
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