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二、湯屋にて
翌日、黒田は朝から湯屋に行った。こんな時間に湯につかっているのはたいてい枯れ枝のような爺さんばかりだが、珍しく若い客がいた。
「よう、黒田じゃないか」
「沢村か。久しいな」
黒田と同い年で同郷出身の沢村は、帝大の漕艇部で日々オールを漕いでいる。互いの下宿が近いので湯屋でもしばしば一緒になるが、この一年は黒田が堕落しきった生活を送っているので、顔を合わせるのは久しぶりだった。
「どうだ黒田、そろそろレガッタをやる気になったんじゃないか」
「ならないよ。なるわけないだろ」
「残念だな。その体格なら今すぐにでも選手になれるのに」
沢村は精悍な顔立ちの好青年だが、会えば漕艇部に勧誘しようと追い回すので困る。今日も黒田の顔をみるなり湯船からざばりと立ち上がり、どこを隠すでもなく堂々と歩いてきて、黒田の背後に腰を下ろす。背中を流すふりをして、ためらいもなく体に触れてきた。
「この胸筋、オールを持たせたらさぞ似合うだろうになあ」
「俺は音楽家だ」
「どうせ、もう声楽の勉強には身が入ってないんだろ」
「そんなつもりはない」
「彼が亡くなってもうずいぶん経つじゃないか」
「……誰が死んだって」
「君の念弟」
沢村は黒田の背筋に触れながら、愚にもつかないことを言う。黒田は沢村の手を振り払って湯船に向かう。沢村もついてきて、並んで湯につかることになる。
「貴船とは別に、そういう関係じゃなかった」
「そうか。じゃあ俺の弟になったらいい」
「なんでそうなる。女を抱けよ。お前なら女のほうから寄ってくるだろ」
「男を知るとなあ……女じゃ物足りなくてな」
戯言の相手も馬鹿々々しくなって湯を出ようと思ったが、ふと湯の中の沢村の体つきが気になった。筋骨たくましい堂々たる体躯だ。腰のものも、平常時においてさえ雄々しい。
――貴船の唇は温かかった。貴船は、男に抱かれたことがあるのだろうか。
「……黒田、もしかして俺に抱かれるのを想像したか」
「え」
「腰のものが」
沢村に指摘されて黒田はうろたえた。抱かれるのを想像したのではない。貴船を抱いている自分の姿を想像していた。
――そういえば。
やかましく笑う沢村を置いて湯屋を出る。あんなに酒に灼けて枯れていた喉が、今朝はすっきり治っているのに気づいた。ずっと続いていた宿酔も引いている。
――歌いたい。というよりも、貴船に会いたい。
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