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三、詩人の恋
「おう、遅かったな」
音楽学校の練習室に入ると、ピアノの前に座った貴船がこちらを見ていた。
昨日の怒った顔とは対照的な穏やかな笑顔である。腕まくりをした白シャツがまぶしい。
「おはよう、貴船」
「声、治ったな」
「ああ」
昨日の蜂蜜の味と同時に、貴船の唇の感触も思い出して内心で慌てた。貴船はピアノの譜面台に1冊の楽譜を開いていた。
「黒田に歌ってほしい作品を持ってきた」
「どれ」
「清野先生が昨年、ドイツからお持ち帰りになった楽譜だ」
「シューマンか」
「素晴らしいんだ。ハインリヒ・ハイネの詩に曲がついている。俺もこんなふうに、我が国の言葉を歌詞として優れた曲を作りたいものだ」
かねて貴船はドイツ音楽に強く傾倒していた。よくある翻訳唱歌ではなく、日本語に基づいた独自の作品を作曲したいと試行錯誤していた彼の姿が思い出される。
――本当に、目の前にいる貴船は幽霊なのだろうか。
「黒田は初見でいけるだろう」
「ああ」
「ドイツ語の歌詞もお手の物だろうしな」
「まあ」
そういいながらピアノを弾き始める。
華奢な体つきの割に、打鍵はかなり明確で強い。肘までまくったシャツから見える腕には強靭な筋肉が見て取れた。硬質で澄んだピアノの音が響く。
――本当に、これは幽霊の演奏だろうか。
そう思いながら黒田は貴船の背後に立ち、彼の頭越しに楽譜を見ながら歌い始めた。まともに発声するのはほとんど1年ぶりである。しかしシューマンの歌曲は穏やかで歌いやすく、黒田にしみじみとドイツリートの良さを思い出させた。
「この声だよ、黒田。君の歌を聞きたかった。……もっとこっちに来て」
ピアノを弾きながら貴船が黒田に声をかける。貴船の意図を汲みかねていると、焦れた声で急かされた。
「もっと俺に近づいて」
黒田はためらいながらも貴船の背後に近づいた。
「もっとだよ。……歌うのをやめないでよ」
貴船の口調が微妙に変化したのに気づく。夢中でピアノを弾きながら、甘ったれるような声で要求する。
「俺の背中に胸を付けて歌って」
「……えっ」
「君の胸郭の振動を感じたい」
黒田は歌いながら、図らずも貴船を後ろから抱きすくめるような恰好になる。前かがみになって呼吸すると、胸郭の開閉が貴船の背中に伝わった。
「そう、それがいい。……いいね」
ピアノを弾く貴船の細い髪が黒田の頬に触れる。そのまま貴船の首筋に顔をうずめたい衝動に駆られた。鼓動が早くなったのを悟られたくなくて、黒田は体を放しかけた。
「……もう駄目だっ」
喘ぐように呟いたのは貴船だった。体をひねって両腕で黒田の頭を抱え、慌ただしく唇を重ねてくる。黒田にも、もはや拒む理由がなかった。椅子から立ち上がった貴船の体を抱きかかえ、貴船の欲求に応えた。
「……君は、俺とこういうことがしたかったのか」
「君じゃなくて、お前、と呼んでほしい」
「……お前は、俺とこういうことが」
「したかった。ずっとしたかった」
ピアノの天蓋に上半身を伏せた貴船が、黒田に小さな紙片を手渡す。
「これは」
「俺はなくても構わないけど、黒田はこれがないと痛いだろうから」
そういって紙片を口に含むよう促す。紙片は唾液を含むとぬめりを帯びる。それをどのように使うのかについては心得ているが、男相手に使うのは初めてだった。
「……貴船は男に抱かれたことがあるのか」
「その質問には答えないとダメか」
「あ、いや、別に」
「早く、入れてほしい」
貴船は荒い呼吸を繰り返しながら黒田を急かす。黒田はピアノの天蓋に伏せた貴船を押さえつけながら、腰のものをそっと貴船の体内に沈めた。ぬるりと奥まで入っていく。
「はぁっ……」
二人の気息はすぐに合う。黒田は夢中で貴船の体を抱いた。眉間をきつく寄せて喘ぐ貴船の横顔を見ていると、衝動がこみ上げてくる。
――溺れてしまいたい。どうなってもいい。
鍛錬を重ねた一流の運動選手や芸術家は、試合や稽古の過集中が解けたのち、激しい性的衝動に駆られると聞いたことがある。
――貴船も溺れたいのか。無念だったろう。
彼は昨年の春、志半ばにして逝った。だから黒田がこのとき抱いたのは、幽霊なのか、あるいは貴船の無念の凝りだったのかもしれなかった。
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