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四、彼岸会
彼岸の中日である。昼下がり、黒田は貴船の自宅に向かう腕車に乗っていた。車夫のたくましい背中を見ながら、黒田は音楽学校の練習室で交わした会話を思い出していた。
「俺の葬式に来なかったんだから、命日には手を合わせに来いよ」
「そうすると、君はやはり幽霊なんだな」
「俺は幽霊じゃない」
「命日ならば、君のための法要があるんじゃないのか」
「母と姉たちは寺に泊まりこんで法要だと言っていたな」
「君がそこにいなくていいのか」
「いなくていいさ」
もはや会話がおかしいが、二人ともどうでもよくなっていた。
これから訪うのは東京市内にある貴船の兄の邸宅である。横浜の本家とは別に、彼の兄が構えた新しい屋敷で、敷地内には音楽学校に通う弟のために離れもこしらえたというから豪勢な話だ。もちろんピアノの練習室付きである。
車はほどなくして閑静な屋敷町に入り、真新しい漆喰壁の続く一画で停まった。切妻破風造りの門をくぐると母屋に続く砂利道がある。その脇に、庭園を通って離れに向かうらしい小路が伸びていた。黒田は小路を進んだ。
回遊式庭園の池には錦鯉がいて、ほとりを歩む黒田を追い越すようにすうっと泳いでいく。赤と白の鮮やかな鯉に交じって白金色、黄金色、墨色のもいた。墨色の鯉は光の具合で澄んだ藍色にも見え、見とれるような見事さである。
玄関を開けると涼しげな火箸風鈴の音が響き、貴船が姿を現した。
簡素な紺紬の和服を身に着けている。貴船の白皙がよく映える。黒田は目をそらした。
――目のやり場に困る。
「ピアノを見るかい」
「……ああ、」
玄関脇の洋間が練習室になっていた。
庭に面した総ガラス張りの窓から明るい午後の陽が差し込んでいる。
中央に艶やかな黒檀のピアノがあった。
「……驚いたな。ブリュートナー社のピアノか」
「贅沢だよなあ。本場もののピアノは学校にあるからいらないと言ったんだが、兄が見栄っ張りで困る」
「いや、君の才能になら釣り合う代物だろう」
ピアノに近づこうとした黒田の腕を、貴船が軽く引いて止める。
「今日はピアノは弾かない」
「え、あ、そうか」
「君も歌わなくていい。こっちに来て」
そういって黒田の手を引いて二階に上がっていく。二階は貴船の居室になっているようだった。引戸を開けて中に入るなり、黒田は息を飲んだ。
「これは、」
調度品の趣味もよい和洋折衷の居室である。
磨りガラスの嵌まった格子窓が明るい。
しかし何よりも黒田の目をくぎ付けにしたのは、畳に敷かれた漆黒の羽二重布団である。それがとんでもない贅沢品で、睡眠のための寝具でないことはひと目でわかった。
――これは、情事のための寝具か。
黒田がどぎまぎしていると、貴船がさっそくするすると帯を解いている。紺紬を脱いで襦袢姿になった。孔雀の羽根模様かと思ってよく見れば、薄墨色の鯉を無数に染め抜いたどぎつい意匠の襦袢なのだった。無数の目玉と鱗が異様でもあり、しかし奇妙に貴船に似合う意匠でもあった。
「黒田の体が忘れられなくてね、」
冗談めかして言いながら、貴船は手際よく黒田の服を脱がしていく。あっというまに身ぐるみはがされ、黒羽二重の布団に二人してなだれ込んだ。黒田は貴船の襦袢の紐をほどきにかかる。
貴船はひっそりと笑みを浮かべて黒田の所作を眺めている。
「驚かないでほしいんだが」
もはや見境も分別もなくなっている黒田に、思わせぶりなことをいう。その理由はすぐに分かった。
「君……これは、」
「君じゃなくて、お前、だよ。黒田」
貴船の襦袢の裾をめくった黒田は、彼の白い臀部から目が離せなくなった。
「お前は……狐の化身だったのか」
「あ?」
「俺は、狐に化かされていたのか」
貴船はしばし呆気にとられ、それから弾けるように笑い出した。
「違うよ黒田。これは」
ひとしきり笑って目尻の涙を拭ったあと、貴船は自分の臀部にある、ふさふさとした純白の尻尾を面白そうに撫でた。
「これは張形だよ。陰間の玩具だ」
「え?」
「面白いよな、まさに珍品だ」
そう言いながら貴船は身をかがめ、黒田の腰のものに舌を這わせる。それから口に含んだ。黒田は身震いした。今すぐにでも絶頂に達してしまいそうになる。
――俺ももう、獣になってもいいのか。なってしまうぞ。獣に。
黒田の煩悶を見透かすかのように、貴船がつっと口を離した。
「ねえ、これ、抜いて」
「……貴船」
「黒田、お前が欲しい」
狐または獣よろしく荒い息を吐きながら急かされ、黒田は貴船の尻尾をつかんでゆっくりと抜いた。菊門からずるりと出てきた張形は、鮮やかな朱色の瑪瑙でできていた。これもまた、おいそれと手に入る品ではないだろう。
「張形にな、丁字油を塗っておいたんだ。ほぐす必要もないし、きっとお前も痛くない」
こんな知恵をいったいどこで得るのか。あきれながら、黒田は貴船の腰をうしろから掴んだ。そろそろと体を沈める。貴船が布団に顔をうずめて長い息を吐いた。
「ああッ……もうっ、早く突けよ」
「痛くないのか」
「痛くない。今すぐにでもいきそうだ」
黒田はゆっくりと動き始める。
「前も……しごけよ」
貴船の望むとおりにしてやった。ほどなく貴船が精を零した気配がして驚く。貴船の中に収めた腰のものがぐうっと締め付けられて黒田もどうにかなりそうだった。
「貴船……、少し休むか」
「まだおさまらないんだよ、馬鹿」
「じゃあ、上に乗るか。そっちのほうが楽じゃないか」
「……うん」
仰向けになった黒田に、息を弾ませた貴船が体を乗せる。ひとひらの贅肉もない貴船の体は綺麗だった。そしてひどく欲情に満ちていた。
「生きている間に、お前としたかった」
貴船がうわごとのように呟く。
「生きている間に、思いを伝えればよかった」
「俺はやっぱり幽霊を抱いているのか」
「幽霊じゃない」
「でも、お前は去年の春、死んでしまった」
「葬式にも来なかったくせに。俺のことなど、見ていなかったくせに」
首を絞められ、黒田は朦朧としてきた。
「違う。俺は」
体をよじって貴船の手を払う。
「俺は馬鹿だ。失って初めて気づいた」
「……馬鹿なのは俺だよ、黒田」
貴船が笑みを浮かべる。
「黒田がこうして俺の気持ちに応えてくれるとわかっていたなら、言えばよかった。でも、怖くて言えなかった。墓場まで持っていった俺は馬鹿だ」
「貴船……」
「お前と、もっと音楽の勉強をしたかった。もっとまぐわいたかった」
「もうできないのか」
「できるわけないだろう。だって」
そこで貴船は言葉を切って体を震わせる。
黒田の腹の上に精が零れた。黒田も耐えきれずに貴船の中で果てた。
きつく目を閉じた貴船が大きなため息を吐く。
「だって……俺は」
貴船がゆっくりと上体を倒し、黒田の胸に頬を付けた。
やわらかい髪が喉にかかる。緊張の波が引いていく。それがどこまでも心地よくて、黒田は貴船の言葉の続きを聞かないまま意識を失った。
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