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終章、彼岸過迄
彼岸が明ける頃には桜が満開になった。
黒田は貴船に誘われて小石川の帝大付属植物園に来ている。
ひとしきり広い園内を回遊した後、歩き疲れて長椅子に腰を落ち着けた。若い桜の樹がしきりに花片を降らせている。そのさまを二人で眺めた。
「黒田、五線紙は持っているか」
「いちおう。少しだが」
「山ほど持ち歩けよ。いい旋律を思いついたら書きつけておくんだ」
「俺は作曲はしないんだ」
そう言いながら黒田が五線紙を取り出すと、
「今から俺が言うとおり、書きとれ」
「自分で書いたほうが早くないか。俺は聴音はあまり得意じゃないんだ」
「じゃあ、いい練習になるな」
貴船は笑って、早口で旋律を口ずさんでいく。黒田は急いでそれを五線紙に書きつける。
貴船の発想は尽きることがなかった。
あっという間に五線紙が尽き、黒田が持ち合わせた使いかけの帳面に五線を引きながら音符を書きとめる。それも尽きると、乱雑に鞄に押し込んでいた広告紙の裏面に書き続けた。
単旋律の歌唱曲もあれば、和声の複雑な合唱曲もある。ピアノ曲、管弦楽曲、果ては交響曲の総譜にまで及んだ。
「貴船、待て、スコアは無理だ」
「じゃあ主旋律だけ書き留めておけ。それ以外はだいたい覚えておいて、後で書き起こせばいい」
「簡単に言うがなあ……」
貴船は黒田の戸惑いに構うことなく早口で口述を続けた。観念して筆を走らせ続ける。
どのくらい没頭していたのか、手元が見えなくなったことに気づいた。
「貴船、もう駄目だ。暗くて手元が見えない」
顔を上げると、あたりは夕闇である。いつのまにか人影もなくなった。ずいぶん長い間、夢中になっていたらしい。しきりに降りそそぐ桜の花片だけが妙に白々と浮き上がって見えた。
「……貴船?」
隣を見ると貴船の姿がなかった。
長椅子から立ち上がると、足元に五線紙がバサバサと落ちた。
――それ、お前の名前で発表しろ。
貴船の姿は見えないが、声が聞こえた。
黒田は呟くように答える。
「貴船、もう会えないのか」
「またいつか、な」
「いつだよ」
「お前が望むなら、いつでも」
「嘘はつくな」
「嘘じゃないさ」
「ひとりだけ成仏する気か」
「成仏なんかできるか。黒田のせいで未練たらたらだ」
「お互いにな」
貴船が笑ってくれるかと思ったが、もう声は聞こえなかった。
夕闇が濃闇に移ろっていく。ざあっと風が吹いて白い桜が一斉に散っていく。黒田は身をかがめて足元の五線紙を拾い集めて鞄に収め、植物園を後にした。
<完>
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