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一、春彼岸
明治3X年3月、東京府下谷区――
教員宿舎からくすねてきた火酒の瓶が一本、空になったところで楽譜が読めなくなった。黒田は練習室の窓を開け、桟にだらしなく頬を乗せて目をつむる。
――ああ、いい心地だ。
今年は彼岸の入りを待たずに桜が咲き始めた。練習室の外は雑木林である。けぶるような桜の大樹がちらほら見えていた。
「おい、なんだそのピアノの音は」
入口から不機嫌な声がしたので黒田はのろのろと振り返る。練習室の戸口に、姿のいい男が腕を組んで寄りかかっていた。
「……なんだ、貴船かあ」
「なんてザマだよ、黒田」
「いまどきの幽霊は戸口から入ってくるんだな」
「俺は幽霊じゃない」
「じゃあ、幻影かなあ」
――幻影を見るほど、俺は貴船に惹かれていたのか。
去年の春、胸を病んで貴船は逝った。生きていればこの音楽学校を首席で卒業していたはずだった。才気煥発、天才にして孤高、友と呼べるものを寄せつけない存在だったが、彼に憧れない学生はいなかったし、嫉妬しない学生もまたいなかった。
――初めて貴船を見たときから、俺は彼に惹かれていた。
いま、貴船(の幽霊または幻影)は、透きとおった白皙の頬を朱鷺色に染めて黒田を睨みつけている。仕立てのよい学生服に身を包み、生前と何ひとつ変わらないように見える。
「何か怒っているのか」
「当たり前だ」
そういいながらズカズカと近づいてくる。襟首をつかまれ、乱暴に突き飛ばされた。
――細い体のどこにこんな膂力があるのか。いや、俺がへべれけなのか。はは。
黒田は埃じみた床に頬をべたりとつけて貴船を見上げる。蔑んだ目つきで見下す貴船の顔を、ごろりと仰向けになって眺めた。
「怒った顔も綺麗だなあ」
貴船は怒った顔のまま、黒田に馬乗りになる。
「ぐえ」
「君は、こんなに」
言いながら貴船は、形の良い細い指で黒田の腕を掴む。
「こんなに恵まれた体を持っているのに、あのピアノの音は何だ」
ぎりぎりと、黒田の指を開く。黒田の指は長く、手のひらも厚い。10度の鍵盤は楽に押さえることができたし、専修科の誰よりも豊かな音量を出すことができた。
「こんなに恵まれた胸郭を持っているのに、なぜドイツリートを勉強しないんだ」
貴船はそう言いながら、乱暴に黒田のシャツのボタンを外していく。はだけた胸に指を這わせる。胸郭の厚みを確かめるようにゆっくり肌を撫ぜる。黒田は貴船の手の冷たさに、かすかに身震いした。
「君のこの胸郭は、ドイツリートを歌うための骨格なんだ」
「あいにく俺はもう放校寸前なんでね」
「知っている。馬鹿が」
貴船は黒田の裸の胸を撫ぜながら、しきりに骨格と筋肉の在り処を探っている。意に反して腰のものが疼き、黒田は自分の浅ましさに動揺した。
「……あんまりそんなふうに触らないでくれ」
「なぜ」
「……何やら妙な心持ちになる」
いきなり貴船に平手打ちされた。口の中に血の味が広がる。貴船はさらに、力任せに黒田の腹に手をついて立ち上がった。
「ぐお」
「これをやるから、明日までに喉を整えてこい」
貴船が何かを投げて寄越すので、あわてて体を起こして受け取った。小さな硝子瓶だった。琥珀色をした粘度の高い液体が入っている。
「……蜂蜜か」
「兄が西洋蜜蜂の輸入に参画していてな。くすねてきた」
「高価だと聞くが」
「そうでもない」
貴船の実家は横浜の富裕な商家である。彼の長兄が家業を継いでからは業容拡大して飛ぶ鳥を落とす勢いと聞く。
「蜂蜜は喉の炎症にいいぞ。口内の傷にも効くだろう」
「……誰に殴られて口を切ったのかな、俺は」
「黒田が歯を食いしばらないのが悪い」
「これは、飲めばいいのか」
「飲むというよりは、舐めるんだな」
貴船はぞんざいに黒田の手から硝子瓶を奪い返すと、蓋を開けて傾け、自分の舌に垂らす。琥珀色の蜂蜜は細く瓶から零れ落ち、やがて貴船の舌に溜まっていく。
「……こんなふうに」
そういいながら、立ったままの高い位置から黒田の顔面に蜂蜜を垂らしはじめる。
「おい」
慌てて口を開けたが、口でうまく受け止めることなどできるはずもなく、唇の端にタラリとひと筋の蜂蜜が零れた。指で拭おうとしたところを、貴船の温かい舌に絡めとられる。そのまま口づけしてきた。不意打ちに次ぐ不意打ちに、黒田はあからさまに動揺した。
「……やめてくれ」
「俺がこんなことをするのは嫌か」
「嫌、と、いうわけではない。動揺しているんだ」
「さっきは俺の愛撫に欲情していたようだったから、脈ありだと思ったんだが」
「誰が欲情したって」
むきになる黒田を、貴船は微笑んで眺めている。今度は静かに顔を近づけてきた。唇が重なり、そっと舌が滑り込んでくる。貴船の舌の温度と蜂蜜の甘味が心地よかった。黒田は拒まずに受け入れた。
「貴船は男が好きなのか」
「さあ。あまり男とか女とかには関心はない。だが君にはずっと興味があった」
「……貴船」
「いや、違うな。君に興味があったんじゃない。君の才能に興味があったんだ」
そういって貴船は身のこなし軽く立ち上がった。
「じゃあ、また明日。君にぜひ歌ってほしい作品がある。喉を治しておけよ」
戸口に向かって歩きかけ、ふいに笑いながら振り返る。
「あと、風呂にも行ってこい。野良犬みたいな臭いがする」
「そんなに臭うか」
「せっかくの男前が、かたなしだ」
――今どきの幽霊(または幻影)は、律儀に戸口から出ていくんだな。
桜の花片が数枚、黒田の頬をかすめて板張りの床に落ちた。
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