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明け六つの鐘が、辺りに響き始めた。
仄青い夜明けの空気に溶けていくその音に脅えるように、柴崎栄之助はびくりと首を竦めた。屋敷を出たのが七ツで、此処に辿り着いたのが六ツ半くらいだから、柴崎はもう半刻ほどもこの辺りをうろついていることになる。
(もう、夜が明けるのか…)
こんなところに来るのは、誰にも見られたくなかった。だから、夜が明ける前にと思って屋敷を出た。しかし、いざこうして目の前にすると――どうしていいのか、わからなくなる。
もう何度目になるかわからないため息を吐いて、柴崎は目線を上げた。その先には、高良川を跨ぐ町一番の名橋・丹本橋がある。
丹本橋は弐本橋とも書かれ、読んで字の如く丹塗りの橋が二本ぴたりと寄り添うように架けられている。これは人の流れが滞らないようにするためで、橋を渡るものは必ず向かって右の橋を使うという決まりごとがある。そうすると、一つの橋の上で人と人とが擦れ違うことがなくなり、混雑が多少緩和されるというわけだ。
とはいえ、今は夜が明けたばかりで人通りもまばらだ。丹本橋の本領発揮にはまだまだ時が早い。それでもそんなことに考えが行くのは――やはり、己が胸の内に抱えるものから目を逸らしたいからなのだろう。
柴崎は、いつの間にか足元を向いていた視線を再び上げる。そこに見えるのは、丹本橋から真っ直ぐ東へ伸びる燕通りと、高良川沿いに燕通りと垂直に交わる四条通り――その角、丹本橋の目の前に、柴崎の目指す建物があった。
間口は二間、奥行きは四間ほどだろうか。店ではないから暖簾や看板は出ていないが、軒先から古びた提灯が下がっている。そこには、上手いのか下手なのかわからない太い字で『用聞き 耕助』と書かれていた。
用聞き。そう、柴崎はこれから耕助という目明しの詰所を訪ねようとしている。
目明しというのは普通、同心の手下となって働く者を指すのだが、耕助は他の目明しとは少々毛色が違う。耕助はお上の御用も務めるが、町で起こる様々な厄介事を請け負うのを主な生業としており、その腕の確かさはこの丹本橋の目の前に己の詰所を構えていることからも容易に窺える――らしい。
なぜ『らしい』なのかというと、柴崎は耕助に会ったことがないしその仕事振りも目にしたことはないからで、更に言うと耕助については噂でしか聞いたことがない。つまり、誰か信頼できる人物から耕助を紹介されたとか、そういった縁すらないのだ。それなのに、柴崎はその噂だけを恃みに耕助を頼ろうとしている――
そう、こうして冷静に考えれば考えるほど、ここに来たのは間違いではないかと思えてくる。見ず知らずの、しかも目明しで何でも屋という胡散臭い肩書きの男を頼るだなんて――それほどまでに、己は窮しているのだろうか。
胸に広がる苦い思いに、柴崎は俯いた。頭に被った笠が、足元に影を落とす。身分を悟られないよう、今日は袴も大小も、供の者まで置いてきた。そのことが何故だか急に惨めに思えて、柴崎は奥歯を噛み締める。
帰ろう。やはり、間違っている。これは気の迷いなのだ。己はそれほど窮してなどいない。
最後にもう一度だけあの提灯を見て、柴崎は踵を返そうと顔を上げた。
そのときだった。
がらり、と詰所の表戸が開いて、柄杓と手桶を持った男が出てきた。いや、男というよりは少年といったほうがしっくりくるだろうか。
年の頃なら十六、七だろう。ねずみ色の地に黒の棒縞の小袖を尻端折りにして、白い股引に紺色の足袋を履いている。肩幅が狭いせいか些か頭が大きく見えるのだが、くるりとした目になかなか愛嬌があって、彼の者を少年らしく見せていた。
まあいずれにせよ、あの詰所には似つかわしくない人物である。彼は何者なのだろう。まさか彼が耕助であるはずはないだろうから、耕助の所縁の者なのだろうか。
そんなことを考えていると、柄杓で水を撒いていた少年がふと顔を上げた。
目が、合った。
慌てて踵を返そうとする柴崎の目に、少年が大きく目を見開くのが映った。驚いている――もしかして、彼の者は柴崎のことを知っているのだろうか。
あり得ない話ではない。耕助の詰所に居るのだから、彼も町方役人の末端に連なる者だ。ならば、柴崎の顔を知っていてもおかしくはない――いや、知っているのだ。そうに違いない。
そう思った瞬間、血の気が引いた。柴崎は急ぎ足を進め、その場から離れようとする。
が。
「――ちょいと!」
背後から肩をつかまれ、柴崎はびくりと身を竦めた。足が止まる。全身から冷汗が噴出す。どうする、どうやってここを切り抜ける?
柴崎が固まっていると、背後からまた同じ声が語りかけてくる。
「困りますよう、旦那ぁ。言ったじゃないですか、ここには来ないでくだせえって」
今にも泣き出しそうな声に、柴崎は戸惑った。その言葉の意味もわからない。彼の者は一体何を言っているのだ?
ぎこちなく振り返ると、先程の少年が心底困ったという表情で柴崎を見ていた。ということは、先程の言葉は間違いなく柴崎に向けられたものだ。しかし、これだけ近くで見ても柴崎は少年の顔に覚えがないし、あのような言葉を投げかけられる理由も思い当たらない――だって、柴崎は今このとき初めて此処を訪れたのだから。
ならば、少年が人違いをしているのだろうか。しかし、一体何故? 誰と?
と、そこまで考えたところで、柴崎は少しずつ増え始めた人通りと己らに向けられる好奇の視線を感じ取った。このままではまずい。
騒ぎになるのは困る。かといって、今ここで己の身分を明らかにするのは得策ではない。これは一体どうしたものか――冷汗がだらだらと流れ、柴崎の背中をしとどに濡らしていく。そうして考えあぐねていると、少年が素早く言った。
「――厄介事で御座いましょう」
囁くような、それでいて鋭い声だった。その言葉の意味を俄には理解できなかった柴崎に、少年は小さく笑った。
「――裏に回ってくだせえ。お迎えいたします」
呆気に取られている柴崎にそう囁くと、少年はまた弱りきった表情を作った。
「ちゃあんと払いますから、ね? ね? 早く帰ってくださいよう」
泣き声を出す少年に、通り掛かった男たちが「お、新さんまたこれかい?」と小指を立てる。それにあっかんべえと舌を出し、新さんと呼ばれた少年は柴崎に向き直る。
「兎にも角にも、こんなところ親分に見られたらあっしは高良の川底に沈められちまいますよう。さあさ帰りましょ帰りましょ」
そう言って、少年は柴崎の背をぐいぐいと押した。そしてさりげなく、柴崎の手に小さな紙切れを握らせる。
「今は、これでご勘弁を」
そう言って、少年はぺこりと頭を下げた。そしてひょいひょいと詰所の前まで戻ると、放り出したのであろう柄杓と手桶を持ってそそくさと中へ戻っていった。
ぴしゃりと閉められた戸を、柴崎は呆然と見つめていた。先程の少年が起こした嵐の余韻が、まだ柴崎の胸に残っている。
どうやら、彼の者が耕助の詰所で働く者であることは間違いないようだ。しかし、どうして柴崎が耕助に用があると――
そこではっとして、柴崎は歩き始めた。せっかくあの少年が此処を離れる口実をくれたのだ、それを無駄にしてはいけない。
詰所の前を通り過ぎ、しばらく歩いたところで柴崎はふと思い出す。そういえば、少年に握らされた紙切れには何が書いてあるのだろう。
辺りをそれとなく窺って人目がないことを確かめると、柴崎は少々皺になった紙切れをそっと開く。そこには、詰所の裏口までの簡単な絵地図と註釈らしきものが書かれていた。それを読んで、柴崎の口元に今日初めての笑みが浮かぶ。まあ、その笑みのほとんどは苦いものではあったが。
『用聞き、耕助。顔は鬼のようですが、心はやさしいです。どなたでもお気軽においでください。おいしいお菓子、お茶もございます』
なんとまあ、ふざけた文句だろう。お茶やお菓子に釣られて、気軽になど訪ねられるわけがないではないか。耕助の詰所の戸を叩く者は皆、行き場を失くし、窮しに窮してようようそこへ辿り着くはずなのだから。
(…ああ、そうだ)
柴崎は、地図に従って小さな路地を右に折れた。
己は、窮している。ここで屋敷に引き返したところで、この胸の苦しみに行き場などない――だから、此処を訪れることにしたのだ。
誘い込むかのような路地を行き、ひとつふたつと角を曲がり、柴崎はぴたりと足を止めた。目の前には簡素な板戸――地図を何度か見返して、柴崎は小さく息を吸い込んだ。
御免ください、そう声を上げようとしたところで、戸ががらりと開いた。
驚く柴崎の目の前で、先程の少年が笑っていた。そして、少年は人差し指を己の口唇にあてて、お静かに、と目配せをした。
それに従って柴崎が口を噤むと、少年は柴崎を詰所の中へと招き入れた。そしてぴしりと戸を閉めると、柴崎に向き直ってまた笑う。その笑みは、先程とは打って変わった、悪戯小僧のように楽しげな笑みだった。
「お待ち申しておりましたよ、ようこそ鬼の詰所へ」
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