嘘吐きの目

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 あの日から、三日が経った。  奉行所にも行かずぼんやりしている柴崎の元に、駒野屋の跡取り息子・徳一郎が死んだという報せが届いた。高良川の河口付近に打ち上げられているのを、今朝、魚河岸(うおがし)の水夫らが見つけたのだという。徳一郎はあの夜から行方がわからなくなっていたから、おそらく狂乱して走っているうちに高良川へ落ちたのだろう、ということだった。  報せを持って来たのは、耕助と平八――実のところ、耕助はあの翌日に訪ねてきてくれていたのだが、柴崎がとても話の出来る状態ではなかったから、何も知らぬ松五郎が追い返すような形になってしまっていたのだ。  半端仕事を致しまして、申し訳御座いません――耕助は、まずそう()びた。  あの日、徳兵衛と徳一郎を連れてきたのは耕助だった。あれは耕助としても苦肉の策で、そうせざるを得なかったのは、猪兵衛のせいなのだという。  順を追って、お話し致します――耕助は、膝を正してそう言った。  柴崎の依頼を受けて、耕助はまず駒野屋の周囲を調べ始めた。というのも、柴崎の話を聞いたときから、孝之の死の直後の駒野屋の行動が妙に引っ掛かっていたからだった。 「まあ、他に取っ掛かりもなさそうでしたしねえ――」  些細(ささい)なことでも、何か一つ出れば万々歳だ――そう思っているところに、猪兵衛が徳一郎と会っているのを見つけた。  これが、耕助の中のわずかな疑念を掻き立てた。  猪兵衛は目明しの中でも一番低いところにいるような(やから)で、まかり間違っても駒野屋のような大店の跡取りが頼りにするような男ではない。そして、猪兵衛と別れた後の、徳一郎の苦々(にがにが)しい表情――これは、何かある。  そこで、耕助は猪兵衛について調べてみた。すると、猪兵衛はただふらふら遊び歩いているだけのくせに妙に羽振りがよく、周囲には『いい金蔓(かねづる)がいる』と漏らしていた。しかも、その暮らし振りは今今に始まったことではなく、詳しい時期は残念ながらわからなかったが、とにかくずっと前からだということだった。  金蔓とは、間違いなく徳一郎のことだ。そして、その暮らしから察するに、猪兵衛は長いこと徳一郎を強請(ゆす)っている――ならば、徳一郎はずっと昔の出来事で猪兵衛に弱みを握られているということになる。  孝之の件は、十年前の出来事だ。もしも、これに徳一郎が関わっていたとしたら。その真相を、猪兵衛が知っていたとしたら――辻褄(つじつま)は合うといえば合うが、どうも根拠に欠ける。  そこで、耕助は少々悩んだ末、猪兵衛と徳一郎との不自然な繋がりの元を確かめるべく、揺さぶりをかけた。 「揺さぶり?」  柴崎の問いに、耕助は事も無げに答えた。 「羽織、で御座いますよ」  そこで、柴崎はようやく思い出す。そういえば、耕助はいつぞや柴崎から孝之の形見の羽織を借りていったのだ。 「ちぃっと、気になることがありましてね」  耕助は、孝之の死の十日後に、徳一郎が孝之の羽織を見付けて届けに来たというのが妙に引っ掛かっていた。印籠(いんろう)根付(ねつけ)などの小さな物なら兎も角も、羽織のように目立つものが、それほど時間が経ってから見付かるものだろうか、と。それも、すでに散々探された川原から。  それに、いくら激しく暴行されたからといって、羽織などそう容易(たやす)く脱げるものではない。ならば、暴行した相手が意図的に剥ぎ取ったと考えるのが普通だろう。たとえ捨てるにしても、現場である川原には戻らないはず――となれば、やはり徳一郎が川原で羽織を見付けて持って来たというのは不自然なのだ。  徳一郎は、羽織を見付けたのではなく、奪って隠し持っていたのではないか。それが恐くなって、急ぎ柴崎に返しに行ったのではないか。耕助は、そう推測した――徳一郎には、孝之に対して後ろ暗いところがあるはずだ、と。  だから、試した。 「――平八」  (うなが)されて、耕助の後ろに控えていた平八が進み出る。平八が柴崎に差し出したのは、孝之の羽織だった。 「ご依頼のうちとはいえ、断りなく孝之様のお姿を拝借しました――申し訳御座いません」  そう言って、平八はぺこりと頭を下げた。  それで、柴崎もようやく合点がいった。孝之の羽織を借りて、平八が孝之になりすましたのだ。 「これが、まあ――てきめんに効いちまいましてね」  平八は、ほんの少し後ろ姿を見せただけだった。だが、それだけで徳一郎は青くなった。  この反応に、耕助は次の手を打った。噂を流したのだ――十年前、高良川に流された子供が奇跡的に生きていて、この町に帰ってきたらしい、と。  孝之の名は出していない。それでも、徳一郎は目に見えて狼狽(ろうばい)していた。そこに、柴崎家に見慣れない男子が出入りしているという情報が入り――(とど)めを刺した。  もはや、徳一郎が孝之の死に深く関わっているのは明らかだった。しかし、それでなお柴崎家の養子に入ろうとしていた徳一郎のことだ、一筋縄ではいかないだろう――耕助はそう思ったものの、これまでの単純な策に対する徳一郎の狼狽振りに、このまま観念して自ら真実を話すのではないかという思いも少なからずあったのだという。それならば、そのほうがいいのだと。  しかし、そのせいで次の手が遅れた。そして――あの日の混乱に繋がる。 「……ひとつ、誤算がありましてね」  それが、あの日の徳一郎と猪兵衛の行動だった。  徳一郎は、猪兵衛を始末しようとしていた。十年も脅され続けていたのに、何故今になってその気になったのか――それは、柴崎家への養子話があったからだった。  徳一郎は、ずっと柴崎家の養子となることを願っていた。それを叶えるため、猪兵衛の脅しに耐えてきた――孝之のときに猪兵衛に目を付けられたことで、徳一郎は慎重になっていたのだ。しかし、長年の夢がついに叶いかけ――徳一郎は、気を緩めた。 「もう大丈夫だ、俺は町奉行所の与力になるんだから」  万一のことがあっても、。  猪兵衛の始末を頼む際、徳一郎はそう言ったのだという。 しかしその直後、平八が孝之の振りをして徳一郎の前に姿を現した。徳一郎は数々の噂と孝之の幻に惑わされ、孝之が帰ってきていると思い込んで心身ともに参ってしまっていた。そして、いつものように金を(むし)りに来た猪兵衛にこうぶちまけた。  もう、終わりだ。あいつが生きてたんだ。  今まで黙ってたお前も、俺と同じだ。  死罪だ。打ち首だ。  ざまあみろ。  この言葉に、さすがの猪兵衛も青くなった。 「それで――全てをぶちまけて、己だけ助かろうと柴崎様のお屋敷に乗り込んだんでさあ」  これが、耕助らにとっては予想外の動きだった。策を練る間もなく、急ぎ猪兵衛を止めなければならなくなった。 「それで、仕方なく徳一郎を――」 「何故、だ」  話を(さえぎ)って問うた柴崎に、耕助は一瞬言葉を止める。 「何故、猪兵衛を止めようと思ったのだ? 私が、十年前のことを知るのは、お主らには何の不都合もなかろうに」  これに、耕助はほんのわずか笑った。その笑みの中には、柴崎を気遣(きづか)う色が見えた。  それだけで、柴崎には答えがわかってしまった。 「――それは、手前どもの手落ちに御座いますんで」  そうとだけ言って、耕助は先を続けた。  耕助は、駒野屋を正面から訪ねた。そして、何も知らない振りをしてこう告げた。東町奉行所例繰方与力・柴崎栄之助宅の前で、猪兵衛と名乗る破落戸(ごろつき)が駒野屋の名前を出して騒いでいる、このままでは全ての責は駒野屋が負うこととなるがどうするか、と。  これに徳一郎は青くなった。その尋常ではない狼狽振りに、徳兵衛も何か察するものがあったのだろう、すぐに二人で伺うと答えた。 「……知らなかった、のだな」  徳兵衛は、己の息子のしたことを。  柴崎の(つぶや)きに、耕助はちょっと眉を上げた。そして、でしょうかね、と曖昧な答えを返した。それはもしかしたら、耕助は――柴崎と違う考えだからかもしれない。 「これで、徳一郎が猪兵衛の思惑を潰すだろうと考えたんですがね――」  また、誤算があった。  一つは、耕助があの場から追い返されてしまったこと。  そして、もう一つは――高、だった。 「――奥方様の、ご様子は?」  耕助の問いに、柴崎は黙って首を横に振った。  高は、今この屋敷にはいない。柴崎が腑抜(ふぬ)けていたせいもあって、実家の離れでしばらく静養させると高の兄から連絡があった。どうしているのかは知らない。が、おしまが世話役として付いていったから、きっと大丈夫だろうと思う。 「……高は、知っていたのだろう、な」  あの日、どうしてあんなことが起こったのか。それは、高が全てを知っていたのでなければ、どうしても説明がつかない。  耕助が言うことには、孝之の足跡とされた地面の筋も、七人目の人影も、濡れたものを引き摺るような音も、すべて右近が池掃除の後始末をしていた際の偶然の産物だったらしい。でも、それをあそこまでうまく利用するなど――あのときの高に、できるはずがない。  そう言うと、耕助はしばし黙った。表情は変わらなかったが――柴崎には、その沈黙が耕助の迷いのように思えた。 「初めのお約束どおり、掘り起こしたものは全て包み隠さずお話し致しやすが――こいつは、うちの右近が勝手に思っただけのこと……真実(ほんとう)かは、わかりやせん」  そう前置きして、耕助は右近の言葉を借りて話し始めた。  高様は、嘘を()いておられたのではないでしょうか。  もう随分前から、高様は全てを知っておられたのです。  しかし、暴き立てても何もならないと思い決めて、黙っておられたのでしょう。  けれど、柴崎様が彼の者を養子に迎えるつもりだと聞いて――  どうしていいか、わからなくなった。  だから、嘘を吐いた。  皆にも、己にも。  全てを騙して、嘘の世に逃げ込んだ。  でも、己を騙しきれずに――苦しんでおられた。  だから、助けて差し上げたかったのです。 「高が――嘘、を…?」  そんな、馬鹿な。 「何故、そんなことを……」  どうして右近はそんなことを思ったのだ。高が、嘘を吐いているだなんて。  柴崎の問いを受けて、耕助は視線を庭へと転じた。それを追うと、散り始めた藤の花が目に映る。 「あの藤を、右近が見ていたとき――高様が、いらして」  お好きなのですか、と問うた。  ええ、と右近が頷くと、高は嬉しそうに微笑(ほほえ)んだ。  そう、で御座いますか――孝之も、藤の花がの。 「――それだけ、で?」  思わず問うた柴崎に、耕助は頷いてみせた。  今も傍にいるはずの孝之のことを、『藤の花が好きだった』と過去の言い方をした――たったそれだけのことで、右近は高が嘘を吐いていると判じたのだ。 「ですんで、本当のところはわからねえんですよ」  ただ、右近はそう思った。だから、あの日の出来事は、右近が高に合わせた形になるのだ、と耕助は言った。  そして、両手をついて頭を下げた。 「申し訳御座いませんでした。うちの不始末で、柴崎様にはとんだご迷惑を」 「いや――よいのだ。頭を上げてくれ」  耕助の言葉の途中で、柴崎は首を横に振った。 「お主らは、よくやってくれた……本当に、よくやってくれたのだ」  目を伏せて、柴崎はそう呟いた。  柴崎の心は、不思議なほど凪いでいた。少し前までは、辛かった。苦しかった。でも、今こうして穏やかでいられるのはきっと――徳一郎が、死んだからなのだろう。  そうでなければ、収まりがつかなかった。あのとき高が戻ってこなかったら、柴崎は迷わず徳一郎を斬っていた。今も、徳一郎が生きていたら斬りに行くつもりだった。そしてその後、死んでしまおうと思っていた。  耕助は、それを見抜いていたように思うのだ。徳一郎が孝之を殺したと確信した時点で、この結末でなければ柴崎を救えない、そう耕助は考えていたのでは、と。  でも、それは口に出来なかった。それを確かめるということは、耕助が意図的に徳一郎を死に追いやったのかと問うのに等しいことだったから。  もちろん、耕助がそのようなことをする男ではないのは、短い付き合いながら柴崎もわかっている。でも、あの場に徳一郎を連れて行こうと思った時点で――予見は、していたかもしれない。だから、問えばきっと耕助は頷くだろう。柴崎は、そうやって耕助を悪者にはしたくなかった。  悪いのは――どうしようもなく弱い、柴崎自身なのだから。 「――自害、なのでしょうか」  ぽつり、と平八が呟いた。 「徳一郎の、ことか?」  柴崎が問うと、はい、と頷いて平八は目を伏せた。 「私が孝之様のお姿を借りたのは、一度きりでした。ですが、彼の者は――幾度も幾度も、孝之様のお姿を見たと」  そう言われて、柴崎はふと思い出す。あの日、徳一郎が柴崎らには見えない何かに脅えて走り去ったのを。  その幻に追われて、徳一郎は高良川に落ちた。 「嘘吐きの目には、世間が歪んで見えるのだろうな」  柴崎の声が暗くなったのを感じたのか、平八は表情を曇らせる。 「あ――ご気分を害して、申し訳ありません。いえ、その……少しでも、孝之様のことに、罪悪感があったのでは、と。だから、あんなふうに」  平八の言いたいことはわかる。  でも。 『卯月の水は、冷とう御座いますね。徳一郎殿』  最後の一押しとなった高の言葉。それは、まともな心の持ち主であれば、途方も無い慙愧(ざんき)の念を思い起こすものであったろう。そうして少しでも徳一郎に悔いる気持ちがあったなら、その果てに高良川に身を投げたのだとしたら、せめてもの救いとなるのではないか――平八は、そうして柴崎を慰めようとしているのだろう。  でも、それは――柴崎にとっては、どうでもいい事なのだ。  徳一郎の本心がどうあれ、柴崎にとってはあのときの勝ち誇ったような笑みが全てだ。あれが、柴崎にとっての徳一郎だ。  そして、徳一郎はもう死んだ。だから、もうそれでいい。  ただ。 「何故、徳一郎は、孝之を?」  あの日、徳一郎は何度も叫んだ。あいつが悪いんだ、と。それが、柴崎の胸にずっと引っ掛かって、鈍い痛みを(もたら)している。  この問いに耕助はほんの寸の間口(つぐ)をんだが、すぐに話し始めた。 「――勘違い、で御座いますよ」  柴崎は、目を瞬かせた。それを見て、耕助は少し言葉を足す。 「徳一郎は、馬鹿な勘違いをしちまったんですよ――孝之様のいる場所は、本当は自分のいるべき場所だと」  徳一郎は、父・徳兵衛が柴崎栄之助の双子の弟だと聞かされて育った。そして、それにもかかわらずいとも簡単に下級武士に頭を下げる父を見て、疑問を持った。  本来ならば、父はあんな奴らに頭を下げるような身分ではないはずだ。それなのに、一体どうしてこんなことになったのだろう。  ただ、生まれた順が違うだけだ。それが、こんな差を生むものなのか。  徳一郎の胸で日増しに大きくなる疑問。そしてその頃、徳一郎は柴崎と会うことになった。あの、駒野屋と初めて会合を持った日――柴崎も徳兵衛も、一家を連れての宴会だった。だから、徳一郎と孝之も、顔を合わせていた。  その席で、徳一郎の疑問はどうしようもない怒りへと姿を変えた。  同じ顔、瓜二つの背格好。それなのに、一方は敬われ、一方は頭を下げて気を遣う――ただ、生まれた順が違うだけで。それは、徳一郎の胸に途方も無い嫌悪感を齎した。柴崎に頭を下げる父の姿が、この先の己の姿と重なった。  そして、この先何の苦労もなく柴崎の地位を手に入れるであろう孝之に対して、憎しみにも似た感情が沸いた。そこは俺の席だ、ほんの少し順番が違えば、そこに座っているのは俺だったんだ。必ず、いつか必ず、  俺がそこに座ってやる。 「……その思いに、孝之様は気付いてしまったんで」  そして、あの日――孝之は、徳一郎を訪ねた。  どうか、父を恨まないでください。  どうか、徳兵衛殿を(さげす)まないでください。  どうか、 「父のものを欲しがらないでください、あなたには、徳兵衛殿が守り育てた、駒野屋があるではないですか――孝之様は、そう(おっしゃ)った」  それが、引き金となった。  そこで、耕助が急に言葉を止めた。それを疑問に思った柴崎は、いつの間にか己が涙を流していることに気付く。  己の顔を慌てて袖で拭い、柴崎は――笑った。 「柴崎様――」 「いや、お主のせいではないさ」  柴崎は、否定の意味で耕助に向けて手を振る。 「ただ――孝之は、高に似ていたのだなあと思ってなあ…」  そう言う側から、また涙が溢れそうになった。  なんと、真っ直ぐな言葉だったのだろう。なんと、剥き出しの言葉だったのだろう。当たり前のことを当たり前に、正直に口にするその言葉が、あまりにも残酷に、徳一郎の胸を突いたから。  だから、孝之は――。 「――ひでえ、話で御座いますね」  ぽつり、と耕助が呟いた。それが、耕助からの何よりの労いに思えて――柴崎は、頷いた。 「…ああ、酷い、話だ」  本当に、新介の言うとおりだ。耕助は、心根の優しい鬼だった。  柴崎は、そっと目を伏せた。  それが、話の終わりの合図と見て取って、耕助と平八が柴崎の部屋を辞そうと立ち上がった。その背中に、柴崎は声を掛ける。 「最後に、一つだけ頼まれてくれんか」  耕助は振り返り、目を細めて少し笑った。ああ――耕助はきっとわかっている、柴崎が何を頼もうとしているのかを。  だから、柴崎も笑った。 「徳兵衛に、伝えてほしい。……柴崎が、話がしたいと言っていると」
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