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柴崎は急ぎ表口へと向かうと、上がり框に腰掛けて足を洗っている人物の広い背中を見て――目を剥いた。
「き、き、」
清正様。
やっとそれだけを言うと、柴崎は廊下にへたり込んだ。
立花清正。春川流之介の父などとふざけた事を言って訪ねてきたのは、なんと東町奉行・立花清正その人だった。
清正は、柴崎の方を振り返って笑った。
「おや、私は春川捨之介と名乗ったはずだったのだがな」
何を馬鹿な、と思いながらも、柴崎は口をぱくぱくさせるしか出来なくて、何一つ言うことが出来なかった。
そのうちに、清正は手拭いで足を拭いて立ち上がる。
「さて柴崎。少し、話は出来るか?」
清正の問いに、柴崎は腰を抜かしたままこくこくと頷いた。すると清正は、そうか、と満足げに言い、柴崎の腕を取って立たせる。
「悪いが、案内してくれるか? お主の屋敷に来るのは初めてなのでな」
与力の役宅など、誰の屋敷でも造りは同じだろうに――そんなどうでもいい事を考えるほど、柴崎の頭は混乱していた。
それでもなんとか柴崎の部屋に清正を案内し、柴崎は身を硬くして清正の言葉を待った。
動揺してすっかり忘れていたのだが、柴崎はここ三日ほど奉行所への出向をしていない。それも、清正に無断で、だ。それに、先程清正が名乗った、春川捨之介という名――清正は、知っているのだ。柴崎が、私事のために清正の名を持ち出したことを。
なんということをしてしまったのだろう。清正から受けた恩を、仇で返すような真似だ。
柴崎の人生で失くしたくない数少ないもの――清正からの信頼も、これでは、もう。
「――此度は、大変だったな」
思いも寄らぬ清正の言葉に、柴崎は、え、と口を開けて清正を見る。その視線を真っ直ぐに受け止めて、清正は言った。
「……辛い、であろうな」
短い言葉だった。真っ直ぐな言葉だった。だから、それだけで――箍が外れた。
見る見るうちに視界が涙で溢れ、喉の奥から嗚咽が漏れる。
柴崎は、蹲るようにして泣いた。つい先程、徳兵衛がそうしていたように。そうだ、柴崎だって、突然に己の立っていた地面が突き崩されて奈落に沈んだ、哀れな父親なのだから。
辛い。辛いのだ。苦しいのだ。だって、
孝之が死んだのも、
徳一郎が死んだのも、
高が遠くに行ってしまったのも、
全部、全部、全部。
柴崎のせいではないか。
徳兵衛と会おうなどと思わなければ、
耕助に十年前のことを調べてほしいと頼まなければ、
徳一郎を養子にしようなどと軽々しく言わなければ、
こんなことにはならなかったのだ。
柴崎の目に、もっと、ちゃんと、世間が見えていれば。
いくらでも気付くことが出来たのに。
嗚咽の中で切れ切れに柴崎が口にする言葉を、清正は黙って聞いていた。そして、柴崎の言葉が涸れ果てた頃――清正が、そっと口を開いた。
「――我らが見ている世間は、果たして同じものであろうか」
謎掛けのような言葉に、柴崎は顔を上げた。すると、清正は少し微笑んで、先を続ける。
「柴崎、お主はお主の目を通して世間を見ている。そして、私は私の目を通して世間を見ている――それが同じかどうかは、わからぬであろう?」
我らは、己の目を通してしか世間を見られない。
「ならば、もしも己の目に嘘を吐かれたとき――我らは、どうするべきなのだろうな」
清正の問いに、柴崎は首を横に振った。柴崎にはわからない。清正の話を鵜呑みにするならば、柴崎の目は嘘吐きで、柴崎がそれを見抜けなかったから――今、こんなことになっている。
これを聞いて、清正は笑みの中にほんのわずか憂いを混ぜた。
「お主はもうわかっているはずだ。それは、ずっと高殿がしてきたことだからな」
柴崎は目を瞬かせた。
高がしてきたこと。それは、一体。
まだ理解していない様子の柴崎に、清正は苦笑する。
「語り合えばよいのだ。違うものは違う、良いものは良い、綺麗なものは美しい、嫌なものは嫌――当たり前のことを当たり前のように、正直に、な」
ただ、それだけのことだ――
「……それだけのことが、難しいのだがな」
そう言って、清正は庭へと目を転じた。
(語り、合う…)
柴崎は、ぼんやりと考えていた。
あのとき――高が、孝之が帰ってきたと言ったとき、高が、高の目が、嘘を吐いていたなら。
柴崎のすべきことは、ひとつだった。
見えない、と。あんなところに孝之はいない、と、そう正直に言ってやることだった。
何故、そうしてやれなかったのだろう。
また滲み出した視界を、柴崎は庭へと移す。そこには、池があって、藤棚があって。
――父上。
孝之が、いた。風に揺れる、藤の花の下に。笑みを浮かべて。
――今年も、藤が綺麗でございますね。
そんな声が、聞こえた気がした。
柴崎は、清正を見た。清正の視線は、あの藤棚の方を向いている。でも、清正は何も言わない。
だから。
「――清正様、あれは」
柴崎は、孝之を指差した。それに気付いてか、清正が応える。
「ん? ああ――小さいが、立派な藤棚だな。よく手入れが行き届いておる」
それだけだった。やっぱり――柴崎の目は、嘘吐きだ。
柴崎は、ひとつ瞬きをした。涙の滴が散って、次の瞬間にはもう孝之はいなかった。
(なんだ)
簡単なことだ。これだけのことだ。
明日、高を迎えに行こう。たくさん話をしよう。
当たり前のことを当たり前のように、正直に。
そうすればきっと、高は戻ってくる。かつて柴崎が高の言葉を頼りに歩いてきたように、柴崎の言葉を頼りにして。必ず、戻って来られる。
たとえ、その目に嘘を吐かれても。
「――清正様」
柴崎の呼びかけに、清正がこちらを向いた。どうした、と問う清正に、柴崎は軽く首を振る。
「いえ。藤が、綺麗で御座いますね」
当たり前の言葉に、清正は目を細めて笑った。
「ああ、そうだな」
柔らかな風が吹いて、藤が花弁を二、三こぼした。
「――旦那様、旦那様!お客様が――」
ゆるりと目を閉じた柴崎の耳に、松五郎の呼ぶ声が届いた。
(嘘吐きの目――了)
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