嘘吐きの目

2/12
24人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ
「いやあ、慣れない道でお疲れでしょう。ここいらはよく火事で焼けるもんで、一本裏に入ればもう迷路みてえなんです。あの地図、あっしが描いたんですよう。あんまり迷う人が多いんでさあ――あ、あっしは新介(しんすけ)って言いまして――」  そんなことを言いながら、少年――新介は、せっせと立ち回って茶を()れている。その後姿を尻目に、柴崎はそっと辺りを見回した。  柴崎が通されたのは、詰所の奥の座敷だ。どうやらここは新介らが寝起きする部屋であるらしく、裏口から上がってすぐのところに屏風(びょうぶ)が立ててあり、その陰には三組の布団が重ねて畳んであった。  そして反対側へ目を転じると、表通りに面した部屋がちらりと見える。そちらは仕事をする場所なのだろう、文机(ふづくえ)や帳面棚が置かれていて、一人の少年がこちらに背中を向けて帳面を(めく)っている。こちらの少年は静かなもので、柴崎の方はちらりとも見ない。  今は詰所の表戸は開け放たれていて、すっかり明けてしまった朝の陽と、(せわ)しなく行き来する人影が目に痛い――まあ、柴崎のいる座敷の(ふすま)は半分ほど閉じられているから、柴崎の姿は表からは見えないのだけれど。 「まあ、いくら四条通りに面してるって言いましても、裏は人目がねえもんで、こっちも色々と都合がいいんですが――よっと」  ようやっと茶を入れたのか、新介が盆を持ってこちらへやってくる。その話が切れたのを見て取って、柴崎は新介に声を掛けた。 「その――新介殿。先程は……あー、その、面倒を、お掛けして」  我ながら歯切れが悪い。どうも、初対面の者と話をするのは苦手だ。  すると、新介は大きな目をぱちくりさせて柴崎を見た。そしてまた悪戯(いたずら)っ子のように笑うと、柴崎の左側に膝をついて盆を畳の上に置いた。 「ああ、あんなの気になすっちゃいけませんや。あのまんまなら、そちら様がお困りになるかと思っての余計なお節介で御座いますから。お役に立ちましたなら、それで良しとしてくだせえ」  新介の言葉を聞いて、柴崎の胸の内は暗く沈んでいく。あのときは気が付かなかったが、やはり柴崎は目立っていたのだろう。なにせ、通りの反対側から半刻もじっとこの詰所を見つめていたのだし――だから、それを不自然にしないよう柴崎を借金取りに仕立て、泥を被ってくれた新介には本当に申し訳ないと思う。  なんとか()びようと柴崎が口を開きかけると、また新介がぽんと膝を打つ。 「あ、それとあっしのことは新介とお呼びくだせえ。新介殿、なんて堅苦しくっていけませんや」  この言葉を聞いて、柴崎ははたと思い直す。そういえば、柴崎はまだ名乗っていない。本当に、朝からどれほど気が()いていたのだろうと思うと情けなくなる。 「これは失礼(つかまつ)った。申し遅れたが、私は――」 「あい、ちょいとお待ちを」  右手をちょっと前に出して、新介は柴崎の言葉を止めた。柴崎が驚いたように新介を見ると、新介は少し目を細めて笑う。こうすると、妙に大人びて見えるのは何故なのだろう。 「あっしは、そちら様のお名前をお伺い出来るような者では御座いませんので。親分にお話しするときまで、お名前はどうぞ胸の内にお納めくだせえ」  新介の言葉に、柴崎は言いかけた己の名をごくりと飲み込んだ。少しばかり(ほぐ)れてきていた心持ちが、またぎゅっと引き締まる。  そうだ、柴崎は名乗ることすら躊躇(ためら)われるような重苦しい事を相談しに来たのだ。  が、そんな柴崎の胸の内を知ってか知らずか、新介はまたへらりと人好きのする笑みを浮かべる。 「なあんて、それらしいこと言いましたが――申し訳御座いませんねえ、親分はまだ来てねえもんで。一服して、ちょいとお待ちになっててくだせえ」  柴崎の前に茶を置きつつ、新介はそう言った。その言葉に、柴崎は目を(しばた)かせる。 「来ていない、とは――その、耕助殿は、ここで寝起きしているのではないのか?」  確かに、先程から耕助らしき人物の姿がないのは気に掛かっていたのだ。が、布団は三組あるし、新介ともう一人の少年の姿は見えるから、残る一つが耕助のものだと思っていたのだけれど。  柴崎の問いに新介は寸の間きょとんとしたが、すぐにまた笑顔を作る。 「ああ、うちの親分は通いなんですよ。いつもならまだ来ない時分なんで、今うちの旦那に呼びに行かしてまさあ」  この答えに、柴崎の疑問はますます深くなる。耕助が通いなら、この詰所で寝起きしている人物がもう一人いることになる。となれば、その『うちの旦那』とやらが残る一人なのだろうが――うちの旦那、といえば大抵は己らを抱えている同心のことを指すはずだ。だが、屋敷を持つ同心がこんなところで寝起きするはずはないし、それに『呼びに行かせる』という言い方もおかしい。  妙だ。どうやら、耕助という男は噂以上に目明しらしくない目明しのようだ。 (やはり、ここに来たのは間違いであったのか……?)  柴崎の胸に、むくむくと不安が芽生える。そういえば、つい先頃あった大捕り物でも耕助とその配下の者たちが独断で動き、探査の足並みを著しく乱したという話もある。それはつまり、己が思ったことは周りがどうであろうと貫き通すということで――たとえ依頼人であろうと、彼の者の敵に回ることはあり得るのだ。  黙り込んでしまった柴崎に、新介はほんのわずかに怪訝(けげん)な顔をする。そして、あ、と気付いたように口を開いた。 「……あの、そういえばうちの旦那ってえのは――」 「あ、親分。お早う御座います」  新介の言葉を(さえぎ)ったのは、もう一人の少年の声だった。柴崎はびくりと背筋を伸ばし、ぎこちなく首を(めぐ)らせて詰所の表の方を見る。が、耕助の姿は襖の陰になって見えない。  耕助と顔を合わせれば引っ込みがつかなくなる。帰るならば今しかないのだが、しかしここで立ち上がるのも――柴崎が逡巡しているうちに、新介がひょいと立ち上がってぱたぱたと耕助を迎えに出る。 「待ちくたびれましたよう、親分。お客様の首が伸びて伸びて、もう天井にくっ付いちまうんじゃねえかって――あれ、旦那は? 一緒じゃねえんですかい?」 「朝からうるっせえな。ちったあ落ち着け、そうごちゃごちゃ言われりゃあ俺だって何が何やらわかりゃしねえだろうが。一丁前の口利く前に、まず手前の頭で考えろ。俺に()くのはそれからだ」  ざらざらと()び付いた、それでいて触れればずっぱりと切れてしまいそうな鋭い声だった。これは耕助の声だ――初めて聞いたのに、何故だか確信が持てる。 「親分、そんなおっそろしい声ださないでくだせえよう。お客様が恐がっちまうじゃあねえですかい」 「だから――あ? お(めえ)今、客っ()ったか?」 「さっきから何回も言ってるじゃあねえですか。親分ったら、幸せ惚けして耳まで遠くなっちまったんですかい? そんなんじゃあ、あっという間に(じじ)ぃになって腰が曲がっちまいますよう」 「手前(てめえ)、新の字この、言わせて置きゃあ――」  二人の丁々発止の遣り取りに、柴崎はいつの間にか聞き入っていた。ぼんやりと胸の内に浮かんだのは、ある一つの問いだった。  父子(おやこ)、というのはこういうものなのだろうか、と。  無論、柴崎とて耕助と新介が父子であると思ったわけではない。ただ、二人の遣り取りの中に、なんというのだろうか、ある種の信頼のようなものが感じられたというのか。同じ月日を過ごしてきた者達の間だけにある何かが、あるように思われたのだ。  柴崎にも、もし、孝之(たかゆき)が―― (――いかん)  柴崎は、立ち上がった。脇に置いていた笠を被る手間さえ惜しんで、柴崎は詰所の裏口へ向かった。帰ろう。今なら、今屋敷に帰れば、もしかすれば柴崎にも、  。  柴崎が忙しく草履に足を突っ込み、戸に手をかけようとしたそのとき。  がらりと戸が開いた。  呆気に取られる柴崎の目にまず飛び込んできたのは、貝紫(かいむらさき)の着物の胸座(むなぐら)だった。(えり)は黒だが、傷んできているのか洗いざらしなのか、白っぽく毛羽立ってよれよれだ。そして少しずつ視線を上げていって、柴崎は目を剥いた。  大男。大男が、柴崎を見下ろしている。それも、ただの大男ではない。  ()り上げられた頭と、(ひたい)に真一文字に走る傷跡。肩幅は戸の横幅よりも広く、腕なんかは柴崎のそれを三本ほど集めてようやく届くかといった太さだ。そしてもちろん、柴崎よりも頭二つ分は背が高い。  大男と目を合わせたまま、柴崎は固まっていた。何か言おうかと思うことも出来ぬほど、柴崎の頭の中は真っ白だった。  すると、大男の目元がふと緩んだ。 「――お帰りに御座いますか」  存外に優しい声音に、柴崎はそれが大男の口から出たものだと(にわか)には理解できなかった。  え、あ――と言葉にならぬ音を(こぼ)す柴崎を見て、大男はすいと退(しりぞ)いた。 「お邪魔を致しました」 (止めない――のか)  あっさりと道を空けた大男を、柴崎は戸惑いながら見上げた。  先ほどは額の傷跡や稀に見る巨躯(きょく)にばかり目がいっていたのだが、こうして見ると大男は決して野卑(やひ)な顔立ちではなく、思ったよりも若い。二十代前半くらいだろうか。濃い眉にきりりとした一重瞼(ひとえまぶた)の目、顎がやや広いので(いか)つく見えるが、全体に見れば精悍(せいかん)な顔つきと言って差し支えないだろう。  それに、何故だろう。この男の顔にはどこか見覚えがあるような―― 「――あ、旦那! 旦那じゃねえですかい?」  大男の身体(からだ)はほとんど詰所の外にあるというのに、目ざとく見つけた新介が声を上げた。旦那、と呼ばれた大男は、つと詰所の中を覗くようにして声を掛ける。 「ああ新介、耕助さんとはどうやら入れ違ったようだ。すまんな」  どうやら、この大男が新介の言っていた『旦那』で間違いないようだ。しかし――柴崎は、そっと大男の腰辺りに視線を落とす。そこには、大刀も無ければ脇差しも無い。袴も付けていない。どこからどう見ても、同心には見えない――いや、頭を剃っている時点でそれはないとわかっていたのだが、かといって仏門の徒にも素っ町人にも見えない。  一体何なのだ、この詰所は。何の詰所なのだ。  帰ろうとしていたことも忘れて柴崎が立ち尽くしていると、横手から声が掛かった。 「――お帰り、ですかい」  はっとして柴崎が声の方を見ると、半分開いた襖に手を掛け、こちらを見つめる男の姿があった。その眼光の鋭さに、柴崎は思わず息を呑む。  何歳(いくつ)なのかわからない。それが、最初の印象だった。  眠たげに半分閉じた瞼、その下に覗く刃物のような色の瞳。適当に束ねただけの髪は、鋼に灰をまぶしたような色合いだ。がっちりとした肩を包む着物は紫紺の地に黄色の木の葉柄といった派手なもの、その胸元からはきつく巻かれた白い(さらし)が覗く。  八重歯の目立つその口で、火の点いていない真っ赤な煙管(きせる)(くわ)え、無精髭のまばらに残る顎を(さす)りながら、男――耕助は再び問いかけた。 「其方様(そちらさま)がそのお心算(つもり)なら、此方(こちら)もこの場はなかったってえことにしますが――どうしますかい」  見透かされている。柴崎は、まずそう思った。  此処まで来て、まだ腹を決められない。己の身に起こっていることが信じられない。疑うことも出来ない。どれをどうしても中途半端で、惨めで――帰るかどうかも、問われてすぐには答えられない。そんな柴崎の心情を見透かして、耕助は問うている。  どうするのか、どうしたいのか。でも、そんなことは柴崎にもわからない。  柴崎がこんな風だから、孝之は。 「――ちょっと親分、それじゃあ(おど)しつけてるみてえですよう」  取り成すような新介の声に、柴崎ははっと顔を上げた。すると、半分閉じていたが少し開いて、新介がひょいとこちらへ顔を出す。 「いいからお前は黙ってろ」  耕助は、顔を(しか)めて困ったように頭を掻く。しかし新介はぶんぶんと首を横に振る。 「いいえ黙りゃあしませんよ。だってあっしが連れてきたお客様ですもん、粗相(そそう)があったらあっしの落ち度。失礼千万ってなもんです」 「手前が口出すこと自体が粗相だっ()ってんだ、わからねえかこの――」 「親分、落ち着いてください。お客様の前です」  またぞろ言い合いになりかけたところで、新たな声が仲裁に入った。少し遅れて、新介と耕助の間に一人の少年が割って入る。 「騒がしくてすみません、お気を悪くされませんでしょうか」  きっと、最初に通されたときに柴崎に背を向けていた少年だろう。きちんと膝をついてぺこりと頭を下げたその姿に、ぐちゃぐちゃとしていた柴崎の胸の内がほんの少し平らかになる。  しかしそのわずかな平穏は、少年が顔を上げた途端に打ち砕かれた。 「たか、ゆき…」  思わず、言葉が漏れた。目線が揺れる。どくどくと胸が打つ。  孝之、孝之、たかゆき。こんなところにいたのか。  やっと、やっと私の前にも―― 「――如何(いかが)なされましたか」  頭上から降ってきた声に、柴崎は我に返った。振り向けばあの大男がすぐ後ろにいて、柴崎の(ひじ)あたりを(つか)んで支えている。  どうやら、柴崎は知らぬ間にふらついていたようだった。取り乱したのだ。 「ああ――申し訳ない。すまぬ」  大男に詫びながら、柴崎はちらりと先程の少年に目を遣った。そして落胆と安堵を得る。  違う。  少年は、柴崎の様子に驚いたのか目を瞬かせている。細い肩に(ひい)でた額、色白ですいと通った鼻筋、切れ長の目――どれをとっても、その顔は柴崎の知らぬものだった。  先程のは、幻だったのだ。柴崎の、愚かに惑う心が生み出した幻。  そうだ。だって、柴崎は知っている。孝之は、柴崎の一人息子は、  十年前に死んだのだ。 「――耕助殿」  平らな声が、柴崎の口から滑り出た。これまでが嘘であったかのように、柴崎の胸は静かに凪いでいた。  ん、と眉を上げた耕助に、柴崎は向き直った。 「度重なる非礼、どうかお許し願いたい。申し遅れたが、私は柴崎栄之助と申す者――此度(こたび)は我が屋敷にて起こった椿事(ちんじ)(こう)じ果て、耕助殿の高名を聞き及びこうして参った次第」  さらさらと流れる柴崎の言葉を、耕助はじっと聞いていた。研いだばかりの刃物のような視線を正面から受けて、柴崎は再び口を開く。 「……どうか、力をお貸し願いたい。この通りだ」  柴崎は頭を下げた。その途端、胸に(つか)えていた様々な思いが頭の天辺(てっぺん)まで押し寄せてきて、柴崎は思わず固く目を(つぶ)る。  そのまま、どのくらいの時が過ぎただろう。少なくとも、柴崎にとってはそう感じるほど長い間だった。 「――顔をお上げくだせえ、柴崎様」  すぐ傍からかかった声に、柴崎は静かに目を開いた。つと見れば、柴崎のすぐ目の前でしゃがみ込む心配顔の新介が目に入る。 「うちの親分は、そりゃあ恐いですけど、お客様をないがしろにはしやしません。ちゃあんとお話を聞きますし、頼まれた分はきっちりかっちり働きます。お望みとあれば、あっしらみぃんな柴崎様のお力になりますよう。ですんで――」  大丈夫です。  その一言に、柴崎の中から何かが外れた。緩んだ。それに釣られるように両膝がかくりと力を失って、またぞろ柴崎は大男の腕に支えられる。 「――ったく、安請け合いしやがって……」  柴崎らを尻目に耕助がそう小さく(つぶや)き、奥の座敷へずいと進み出ると柴崎の前でどっかと腰を下ろした。 「如何にも、手前(てまえ)はこの丹本橋は四条・燕通りの端から端まで、表も裏も縦横に(たの)まれてのこの生業(なりわい)――柴崎様が、手前どもの力が入用(いりよう)と思い立ったその理由(わけ)を、まずはお伺い致しやしょう」  刺すような耕助の視線。新介と大男に促され、柴崎は草履を脱いで再び座敷へと上がった。勧められるまま上座へ腰を下ろし、柴崎は耕助と相対する。  ああもうこのお茶は冷めちまいましたねえ、今お取替えしますんで――などと言いながら、新介がまた(あわただ)しく立ち回る。大男は裏口の上がり(かまち)に腰を下ろして、どうやら足を洗っているようだ。そして名もわからぬあの少年はというと、開いた襖をまた半分ほど閉めている最中だった。  少年二人に大男、そしてそれを束ねるは博徒(ばくと)の親玉の如き風貌(ふうぼう)の怪漢――落ち着いて見れば、なんとも奇妙な取り合わせである。  そんな柴崎の視線に気付いてか、耕助が口を開いた。 「先に、うちのことをお話しましょうかね」  そう言って、耕助は視線だけで他の三人に指示を送った。すると、襖に手を掛けていた少年がすすっと耕助の斜め後ろに控える。年頃は、新介と同じくらいだろうか。 「こいつは、平八(へいはち)――柴崎様からお断りがない限り、お話は手前とこいつで聞かせていただきます」  柴崎の視線を受けて、少年――平八はすいと頭を下げた。その様は妙に板に付いていて、歳若いながらもこの稼業が長いことを窺わせる。  平八が顔を上げるのを見計らって、耕助は残りの二人へ視線を投げかける。 「もうご存知のようですが、あの(うるさ)いのが新介で、あっちのでかいのが――」  そこで、耕助は言葉を切った。足を洗い終えた大男がこちらに歩み来るのが見えたせいであろう。  大男は、柴崎の左手に膝を付いて(かしこ)まった。 「(たちばな)右近(うこん)と申します。(せん)は、名乗りもせず失礼を致しました」  低く、だがよく通る声だ。しかしそれよりも柴崎が驚いたのは目の前の大男が苗字を名乗ったということである。なんとまあ、士分であったのか。  目を丸くしている柴崎を見て、耕助はちらりと平八へ視線を遣る。すると平八がさっと立ち上がり、表の座敷へ下がって音もなく襖を閉めた。それにはっとして柴崎が辺りに目を遣ると、いつの間にか新介の姿も無い。柴崎の膝の前には、新介が置いていったのであろう(ほの)かな湯気を立てる茶碗が一つ。  急に、座敷の中がしんと冷えたような気がした。 「――さて」  耕助が再び口を開き、さして大きな声でもないのに柴崎はびくりと背筋を伸ばす。  咥えていた煙管を口から抜いたその手で、耕助は己の膝を軽く打つ。 「朝令暮改ってえわけじゃねえですが、今回はこの右近が共にお話を伺います――よろしいですね?」  最後の言葉は、柴崎にというよりは大男――右近へと向けられているように感じた。が、とりあえず柴崎は(うなず)き、柴崎の言葉を待つ二人へ交互に視線を送る。  ひとつ息を吸って、吐いて。柴崎は、重たい口をようよう開いた。 「事の起こりは三日前――死んだはずの息子が、屋敷に帰ってきた……らしい、のだ」  要領を得ない柴崎の言葉にも、二人は眉一つ動かさない。こういった客には慣れているのだろう。 「らしい……というのは?」  右近の助け舟ともいえる問いに、柴崎は言葉を選びながら答える。 「屋敷の者は皆、息子が帰ってきたと言う。そこにいると言う。だが、私には見えない。私にだけ見えないのだ」  これに、少し話が見えてきたのか、耕助がわずかに目を細める。しかし耕助は何も言わなかったから、柴崎は自らを口にする。 「息子は――私を(うら)んでおる。だから私の前には姿を見せない。息子は、孝之は、」  私が殺したのだから。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!