嘘吐きの目

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 柴崎栄之助、四十八歳。東西二つある町奉行所の片方、東町奉行所で例繰方(れいくりかた)与力(よりき)を務める知行二百石の御家人である。  例繰方とは、現在の訴訟や犯罪に対して、それに類似した過去の件の判例を調査し、判決の一助とするべく意見(まと)をめるという地味な役職である。  しかし、柴崎はこの仕事が好きである。仕事を好き嫌いで語るのはどうかと思うが、好きなものは好きなのだ。  日がな一日、古書の独特の匂いを嗅ぎながら過去の判例を紐解き、役に立ちそうなものを見つけては書き写す――人よりも書物に近いところにいる柴崎にとっては天職だと、柴崎家に生まれたことを感謝したものである。時たま、その訴訟の関連人物に直接話を聞かなければならないときもあるが、そのようなときは柴崎の部下である例繰方の同心四人がよく働き、人と話すのが苦手な柴崎を助けてくれる。役職にも人にも恵まれた――柴崎は、本当にそう思う。  だから、仕事に関して柴崎はなんの心配事もなかった。ただ、家の内のことに関しては――一つだけ、容易には解決し得ない問題があった。  跡取りのことである。  柴崎は、二十三歳のときに祝言(しゅうげん)を挙げた。相手は吟味方(ぎんみがた)与力・赤馬(あかま)定春(さだはる)の次女、(たか)である。無論、祝言が決まるまで顔も知らぬ仲だったから、柴崎はこの先上手くやっていかれるものかと随分肝を冷やしたものだが、それは杞憂というものだった。  高は、父・定春の気性を十二分に継いだ、それはそれは真っ直ぐな人だった。疑問に思うことは表も裏もなく率直に問いかけ、間違いは間違いと指摘し、理不尽なことには素直に怒った。  それが、柴崎の母には『夫を立てることを知らぬ』と(かん)に障り、衝突することもしばしばあった。が、そんなときも高は意地になるでもなく、得心が行けば素直に詫びて改め、腑に落ちぬところがあれば根気強く話し合った。そのような高の姿勢が、柴崎にはとても新鮮だった。  美しい、と思った。  気の強い嫁だ、と言う同輩も確かにいる。しかし柴崎にしてみれば、言外に意味を含ませるような言い方をしない高とは話をしていて楽だし、人の気持ちを(おもんぱか)るのは得手ではないから、嫌なことを嫌と明瞭(はっきり)と言われるのはわかりやすくていい。  そう言うと、嫁が嫁なら夫も夫だ、と笑われる。それでも、柴崎の高に対する評価は変わらなかった。柴崎の凹んだ部分に、高はぴたりと(はま)ったのだ。  祝言を挙げて二年、孝之が生まれた。そして孝之が三つになる頃、父が目を悪くし、判例を紐解いて書状に纏めるという例繰方の役をこなすのが難しくなったため、柴崎は二十七歳で家督を継いだ。孝之が生まれる前から父の仕事を手伝っていたから、家督を継ぐこと自体には特に障りはなかった。  そうして両親が隠居して、柴崎は屋敷の主となった。奥の事は高がよく仕切っていて、柴崎が特に口を出さなくても何一つ困ることはなかった。  孝之はというと、柴崎に似て書物の好きな子供だった。ほとんど外に出ないから色が白くて、なで肩でひょろひょろと痩せていて、本当に柴崎そっくりだった。  もう少しお前に似ればよかったのになあ、と高に言うと、あなたのお仕事を継ぐのですから、あなたにそっくりの方が良いに決まってます、と返された。それは柴崎がこの役職に向いている、ということだろうか――と、珍しく高の言葉の裏を読んでみたりもした。  しかしまあ、武士である以上は剣術くらいやらせるべきかとも思ったが、柴崎自身、好きでないこと・向かないことを体面上の理由だけで無理強いするのは気が引けたし、高も同じ意見であったから、剣術云々(うんぬん)は孝之本人の好きにさせた。結果、まあ柴崎によく似た孝之のことであるから当然本ばかり読む日々が続いたのだが――四書五経を十歳前に覚えてしまったのには柴崎もさすがに驚き、また大いに喜んだ。  そして、孝之が十三になった頃だった。高が、町で柴崎と同じ顔をした男を見たと言ったのは。  柴崎は奇妙に思った。高が嘘や誇張を言うはずがないから、本当にその男は柴崎と同じ顔をしていたのだろう。更に詳しく聞いてみると、その男は町人の身なりで手代や番頭らしき人物を引き連れており、どうやらお(たな)の若旦那のようだという。  駒野谷(こまのや)、って書いていましたかしら――高は、手代の半纏(はんてん)(えり)を見ていた。高がそれほど気に掛けるのも珍しいと思ったせいか、柴崎の心にもこの出来事は少しばかり引っ掛かっていた。  それから数日して、柴崎は隠居した父の元を訪ねた。その折、ふと思い出してその話を父にしたところ、父は驚くほど表情を強張らせた。そして辺りを見回して母の姿がないことを確かめると、声を落としてぼそぼそと告げた。  栄之助、お前には生き別れとなった弟がいる、と。  柴崎は、その意味が俄に理解できず目を瞬せた。そして、その言葉が胸に染み渡ると同時にこう思った。そんな黄表紙の筋書きみたいなことが、まさか己の身に起こっていたなんてなあ。  普段無口な父が訥々(とつとつ)と語ったところによると、実は柴崎は双子の兄として生まれてきたのであるらしい。古来より双子は『家を分かつ』とされ、特に武家では忌み嫌われてきた。そのため、兄の自分が家に残され、弟のほうは養子に出されたのだという。その先が、駒野屋――西町の倉田屋と並ぶ、老舗の油問屋である。  ははあ、それはすごい――とまるで他人事のように柴崎は驚いた。いくら世事に(うと)い柴崎でも、『油問屋の駒野屋』と言われればぴんとくる。……まあ、高に『駒野屋』と言われたときにわかっていればもっと話は早かったかもしれないが。  へえ、とかはあ、とか気のあるんだか無いんだかわからない相槌を打っている柴崎を、父は上目遣いに見て口をへの字に曲げた。  会うなよ、そうぽつりと言った。  おや見透かされたか、と思いながらも、柴崎はその言葉に頷いた。こうして柴崎が家督を継いだ後も両親がこれを胸に秘め続けた理由を、斟酌(しんしゃく)できぬわけではなかったから。  しかしまあ、高にならば話しても良かろうと思ったから、柴崎は高だけにそれを話した。すると高は、まあそれはそっくりなはずですわねえ、と至極真っ当な感想を述べた。そして、先様はそのことをご存知なのかしら、と問うた。  これに、柴崎は思わず首を捻った。  そういえば、柴崎は勝手に互いに知らぬことだと思っていたが、父は明瞭とそう言ったわけではない。まあ、口下手な親父のことだから、わざわざ口に出さなかっただけのことかもしれないが。  しかしその問いの答えは、すぐにも知れることとなった。  弟――駒野屋徳兵衛がお店を継ぎ、得意先との様々な会合に顔を出すようになって、とある噂が立ち始めた。無論、柴崎と瓜二つだということである。  駒野屋が扱うのは油だ。町中どこを見渡したって、油を使わぬ家は無い――大名屋敷であろうが戸板の腐った裏長屋だろうが、毎晩毎晩至る所で()は灯る。つまり、それだけ駒野屋の商いは広いということだ。となれば、無論武家の拝領屋敷にも油を卸しているわけで、そうすれば柴崎の知己とも顔をあわせる機会があるわけで――早い話が、隠し立て出来なくなったというわけである。  まあ、大方の者は事情を察しているだろうが、放っておけばあらぬ噂を立てられ痛くもない腹を探られ、柴崎は兎も角、駒野屋にはいろいろと迷惑になろう――そう考え、柴崎は徳兵衛と会って話をしようと思い立ったのである。  すでに互いに一国一城の主となった今、素性を明らかにしたところで野心の炎が燃え上がることはなかろうと思ったのも大きい。それに、わずかながらの副収入(つけとどけ)はあるものの、知行二百石の柴崎家に比べれば、押しも押されもせぬ老舗の油問屋である駒野屋のほうが遥かに身代が大きい。ならばますます、両親が心配した『家を分かつ』ような事態には陥るまい。  と、ぐだぐだと理由を並べ立てる柴崎に、高は一言だけ『きちんとお話になるのがよう御座いますね』とすっきりと賛成の意を示した。  早速、柴崎は駒野屋宛に(ふみ)を送った。するとあれよあれよと日取りが決まり場所が決まり、指折り数える間もなくその日がやってきた。  この両家揃っての真面目な席で、柴崎は大いに恥ずかしい思いをすることとなる。  なんと、徳兵衛は己と柴崎の関係を知っていたのである。  それも、昨日今日のことではない。物心ついたときから、お前は例繰方与力の柴崎様のご子息だよと聞かされていたのだというから驚きである。  親父よ、口止めせなんだか――なんだかくらくらとする思いであった。なんだか、一人気を揉んでいた己が馬鹿のようである。しかしまあ、今や徳兵衛は立派に駒野屋を継いで一男一女をもうけ、柴崎家には別段なんの思い入れもない様子であったから、やはり両親の心配は杞憂であったなあと柴崎は感じた。  それほど、徳兵衛が気持ちのいい人物であったというのもある。時を同じくしてこの世に生を受けたというのに、柴崎と違って徳兵衛は真実気働きのいい男であった。明るく洒落(しゃれ)っ気があって、こちらの思いをよく察し、先回りをして気を遣う。野暮天の柴崎なんかは、ひょっとして己の頭の中身が漏れ出ているのではないかと思ったほどである。  屋敷へと帰る道すがら高にそんなことを言うと、それは、駒野屋さんは商売人ですもの、といつもの調子でそう返された。よく意味がわからなかったから柴崎が首を傾げると、高は少し笑った。  確かにあなた様には商売は向きませんでしょう、でもそれと同じように、駒野屋さんにも例繰方のお仕事は向きませんわ――そう言って、まるで娘のように楽しげな笑みを浮かべた。  柴崎に商売は向かぬというのは一分の隙もなく賛成だが、徳兵衛には例繰方の仕事は出来そうな気がするなあ――この柴崎ですらそれなりに出来ているのだし。とは思ったものの、高がそう言うから――いや、そう言う高が何故だかとても楽しそうだったから、柴崎は素直に頷いた。  幸せだった。今思い返すなら、このときが一番。
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