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それから半月ほど経った頃――藤が、花びらを零し始めた頃だった。
柴崎は、いつものように奉行所での務めを終えて屋敷に帰ってきた。すると出迎えた高が妙な問いを発した。
孝之は、ご一緒ではなかったのですか、と。
柴崎は俄にはその問いを飲み込めなかった。だから、え、と間抜けな声を発した。すると、高はほんの少し眉根を寄せてすらすらと事情を説明した。
孝之は昼頃に出掛けたという。高には、奉行所へ行って柴崎の仕事の手伝いをしてくると言って。この頃には、毎日ではないにしろ孝之を奉行所に連れて行って例繰方の仕事を見せていたから、高も別段不審には思わなかったのだろう。
しかし、孝之は奉行所には来ていない。柴崎は会っていない。孝之は昼に屋敷を出て、今はもう夕刻だ。だから、行き違ったということもないだろう。奉行所まではもう何度も通ったし、第一屋敷からそう遠くないのだから、道に迷ったとか道中何かあったとか、そういうことはないはずだ。
ならば、孝之は――嘘を吐いた、のかもしれない。行き先について、高に。
でも、どうして? そうまでして、一体何処に?
ざわざわと、柄にもなく胸が騒いだ。いつもと違うことが起きている。何か、良くない前触れのような。
不意に湧き上がった不安に背を押されるように、柴崎は踵を返して歩き出した。何処へ、と問う誰かの声に、その辺りを見てくるといった言葉が口から漏れた。
いつの間にか、柴崎は駆け出していた。行く当てなどない。だって、孝之は元から出かけない子供だった。だから、出て行く先に心当たりなどまるでない。
(いや――それは)
違う。
いくらも走らないのに切れてしまった息を整えながら、柴崎は思う。孝之の行き先に心当たりがないのは、柴崎が孝之のことを知らぬからではないのか。
柴崎はあまり喋らぬ性質だ。だから、孝之と居てもあまり多く言葉を交わさない。それでも日々の暮らしは成り立っていたし、柴崎は孝之の父で孝之は柴崎の息子だった。そう思っていた。
でも、違うのだ。
孝之は孝之で、柴崎は柴崎だ。『息子』とか『父』とか、そういうものではなくて、もちろん『父と息子』でもなくて、『柴崎と孝之』なのだ。柴崎の頭からは、それが抜けていた。だから、こういうところで綻びが出る。
胡坐を掻いていたのだ、柴崎は――そうした安易な肩書きめいたものの上に。
情けない。なんという愚か者なのだろう。
どうにも出来ない無力さに足を止めた柴崎の目に、ふと鮮やかな赤色が映った。丹本橋だ。
夕暮れ時だった。それでも人出はそう多くなかったから、柴崎はふらりと引き寄せられるように丹本橋へと向かった。
別に橋を渡るでもなく、欄干に手を掛けて何とはなしに高良川の土手を見下ろした。川面は空の茜を映して、ぎらりぎらりと輝いている。日没が近いのだろう、丹本橋が土手に落とす影は少しずつ薄まって、日向との境界が曖昧にぼやけ始めている。
そのおかげかもしれない。ぼんやりと眺めていたに過ぎない柴崎が、影の中のそれを見つけることが出来たのは。
(……手、か?)
白い手――あれは左手だ――が、手の平を下にして力なく横たわっている。
誰かが倒れている。そう思ったのは何故だかわからないが、あの手には、それに繋がる身体があるように見えたのだ。
柴崎は目を凝らしたが、手首から上は橋のほぼ真下にあるのか、柴崎のいる辺りからは見えなかった。土手に下りよう、そう判断するのに時はいらなかった。
別段、ああ大変だとかすぐに助けなければとか、そういうことを考えていたわけではなかった。つい先程までの焦燥が嘘のように、柴崎の胸の内は凪いでいて――単に、焦げすぎて何も感じられなくなっていただけかもしれないが――手の主には失礼な話だが、珍しい色の石が落ちているからどれちょっと川原に下りてみようか、くらいの気分だった。
そう、このとき柴崎の頭はすでにおかしくなっていたのだ。人が倒れているのに、慌てもしないなど。
だから、その手の主が――その身体が、顔が見えたとき、柴崎は頭が真っ白になった。ちらとも思い浮かんでいなかった。
その手の主が、孝之だなんて。
「た」
その先は、出なかった。言えなかった。
あれは、孝之なのか?
頭の中で声がした。
だって、袴も着物も泥だらけで、羽織も着ていない。そんな格好で出掛けるようなみっともない真似を、孝之がするはずがないではないか。
顔だって、孝之は色白で細面で、つるりとすっきりとしている。それなのに、今あそこに転がっているのは、なんだか頬や顎が膨れていて潰れていて、鼻なんて妙に右側へひん曲がっていて、色白どころか赤黒くて――
(赤、黒い――?)
頭の中が、一遍に冷えた。
「――たかゆきぃっ!」
悲鳴にも似た声が、柴崎の胸を裂いて突き出した。駆け寄ろうとして足が縺れ、柴崎は川原の泥に塗れて倒れ込んだ。ああ、だから孝之はあんなに泥だらけなのだ。
下草を掴み、柴崎は這うようにして孝之の傍へ辿り着く。
膨れた口唇。潰れた顎。ひん曲がった鼻。赤黒い頬、額、眼窩。
孝之だ。孝之だ。紛れもなく孝之だ。
柴崎は、躊躇わず手を伸ばした。肩を抱いて、頭を支えながら――ああ、髪の毛がぐっしょりと濡れている――柴崎は、うつ伏せになっていた孝之の身体をそっと仰向けに戻してやる。すると、うつ伏せだったときよりも孝之の顔がよく見えた。
痛いな、痛かったろうな――そう思った瞬間、急に涙が出た。惨いとか、酷いとか、それよりも先にそう思った。だから、柴崎は孝之の顔についた泥を拭のをやめた。
そのときだった。
孝之の手が、動いた。右手が、宙を掻くようにゆらゆらと。
柴崎は、すぐにその手を取った。たかゆき、孝之、と呼びかけた。すると、口唇がわなないた。瞼がひくひくと動いた。
生きている。聞こえている。
柴崎の身体中を、熱い血が駆け巡った。助けなければ。今すぐ。どくどくと脈打つそれに急かされるように、柴崎は辺りを見回した。
柴崎の貧弱な身体では、十四になった孝之を背負って土手を上ることは出来ない。いや、やれば出来るのかもしれないが、このような状態の孝之を背負って転びでもしたら――
しかし、川原には柴崎と孝之の二人きりしかいない。でも、土手を上れば天下の往来、助けてくれる人はすぐに見付かる。
逡巡した末、柴崎は孝之に言った。
「今、人を呼んでくる。すぐだ、本当にすぐだ。だから、ここで待っているのだぞ」
孝之は、頷いたりはしなかった。ただ、柴崎の手をほんの少しだけ握り返した。それが返事だった。
柴崎は、すぐに立ち上がった。履物が片方無いことも、着物も顔も泥まみれなのも忘れて、土手を駆け上がった。
もう、日は沈みかけていた。急ぎ足で家路につく人々の中に体格のいい若い男を見つけ、柴崎は駆け寄った。
男が迷惑そうに顔を顰めるのにも構わず、柴崎はその袖を掴んだ。
「頼む、手を貸してくれ。そこの、高良川の川原に怪我人がいる。息子なのだ、しかし私一人では、とても――」
柴崎の断片的な言葉を拾って、男は事情を察したのだろう。その目から不審の色が消え、わかったと頷いて腕まくりをする。
ああ、よかった。これで孝之は――柴崎の心が、わずかに緩んだそのとき。
どぼん、と音がした。
柴崎は弾かれたように土手を振り返った。ほんの一瞬、揺れる川面が見えた。しかし柴崎がひとつ瞬きをする間に、その幽かな揺らめきは高良の流れに掻き消された。
柴崎の隣にいた男が、泡を食ったように駆け出して土手を下っていった。取り残された柴崎は、まだ事態を把握していなかった。
何が起きた?
ぽかんと呆けている柴崎の横を、次々と人がすり抜けて川原へ下りていく。一番に駆けていった男は、着物の裾を尻っ端折りにして、川の流れに腰まで浸かって何かを探している。違う、違う。孝之は川原にいると言ったじゃないか。柴崎一人では、孝之を背負って土手を上れないから、だから。
助けを求めに、孝之の傍を離れたのだ。
うろうろと視線を動かして、柴崎はようやく気付いた。いない。孝之がいない。
さっきまで、ついさっきまであそこに横たわっていたのに。
そこで、柴崎はようやく思い出した。どぼんという音。揺れる川面。
そして、川原にいたはずの、孝之がいない。
かくり、と膝が折れた。腕から、顎から、力が抜ける。
落ちた、のだ。孝之は、川に、町一番の水量を誇る高良川に、落ちたのだ。
柴崎が、孝之の傍を離れたから。孝之を背負って、土手を上らなかったから。
柴崎が殺したのだ。孝之を殺したのだ。孝之はまだ生きていたのに。
柴崎が殺したのだ。
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