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柴崎が語りを止めると、しんと冷えた沈黙が落ちた。一間を挟んだその先は町有数の目抜き通りなのに、その喧騒もここには届かなかった。
なんとなく手持ち無沙汰になって、柴崎は目の前の湯飲みを手に取った。せっかく新介が淹れなおしてくれたのに、柴崎ときたらまた飲まない内に温くしてしまって――茶碗の中に映る己の顔から目を背けるように、柴崎は顔を上げた。視線の先には耕助がいる。
耕助は柴崎の語りの最中一つも合いの手を入れなかった。それどころか、眉一つ指一つ動かさない。その代わりなのか、隣の右近は語りに合わせて表情を和らげたり、傷ましげに目を細めたりした。それでも、決して口は挟まなかった。
どういう理由があるのかはわからないが、きっとそれが此処の決め事なのだろう。
柴崎が湯飲みを手にしたまま黙っていると、右近が遠慮がちに口を開いた。
「それが、その――十年前の出来事に御座いますか?」
言葉だけとれば、訊くまでもない意味のない問いだ。しかし、右近の言いたいことはわかる。きっと、柴崎を気遣ってそういう言い方しか出来なかったのだと思う。
そうだ。まだ語りは終わっていない。柴崎の相談事は、十年前のことではなくて今現在のことだ。それに、柴崎はまだ十年前の出来事ですら話し終えていない。
先を急がなければ。そうは思えど、一度閉じた口を開くのは億劫だった。この先を語る方が、柴崎にとっては辛いのだ。
なんとなく柴崎が襖の方に目を遣ると、耕助が突然口を開いた。
「――似てますかい、うちの平八は」
思いがけない問いに、柴崎は目を瞬かせた。
「え、ああ――確かに、背格好は」
孝之は色白で細身で、ぱっと見た印象は似ているのかもしれない。でも、おそらく背は孝之の方が高かったし、まず顔が似ていない。
そう言うと、耕助は何かを思案するように視線を落として顎を摩った。その様子に、柴崎は首を傾げた。
一体、何なのだろう。それほど気になるのだろうか。
柴崎の視線に気付いたのか耕助はふと顔を上げて煙管を咥え、そのまま器用に次の問いを口にする。
「羽織は、見付かったんで?」
ぞくりと背筋が冷えた。
耕助の言う羽織とは、孝之の着ていたもののことだろう。川原で見つけたときには、もう身に着けていなかった羽織。
しかし――何故それを訊く。
柴崎は耕助の目を見返した。眠たげに半分閉じられた瞼が、鋭すぎる瞳の色を隠している。柴崎などには、その更に奥に潜む意図が見えるはずもなかった。
「羽織、は――見付かった」
語らねばなるまい。答えた以上は、触れぬわけにはいくまい。
「見付けたのは、駒野屋の息子だ。孝之が――死んで、十日ほど経った頃だった」
柴崎は、湯飲みをきつく握り締めて目を伏せた。
孝之は見付からなかった。しかし、生きているとは思えなかった。あれほどの怪我で、梅雨を控えた季節の流れの速い川に抗えるはずがないのだ。
それでも、河口付近までを三日は捜した。いや、捜してもらったというのが正しい言い方だ。その頃の柴崎はただただ呆けたようになって、ろくに口を利くことも出来ぬ有様だった。
だから、孝之が何故川に落ちたのかとか、肝心な部分はしばらくの間周囲に伝わらなかった。そう、川に落ちる直前の孝之がどう見ても誰かに害されていたということを、柴崎は誰にも伝えていなかった。皆、これを単なる不幸な事故であると思っていたのだ。
そしてそれは、ひどく残酷な結果を齎した。
遺体の無いまま葬儀が終わり、涙ひとつ流すことなく腑抜けていた柴崎の元を、駒野屋徳兵衛が訪ねて来た。息子の徳一郎を伴って、神妙な面持ちで徳兵衛はあるものを差し出した。
それが、孝之の羽織だった。
それを目にした瞬間、柴崎は己の身体の中を這いずり回る何かの存在を感じた。
此度の御不幸、手前どもが何か少しでも役に立てぬかと存じまして、店の者を出して高良の川原を隈なく探させましたところ、徳一郎がこれを見付け――何やら徳兵衛が喋っていたが、柴崎には聞こえなかった。
殺された。孝之は殺された。
羽織を奪われ、泥に塗れ、顔貌が変わるほどの傷を負わされた。
それをしたのは一体誰だ。
柴崎は、ゆらりと立ち上がった。隣に控えていた高が、驚いたように柴崎を見上げる。どうなすったのです、あなた。
「探しに行く」
そう言って客間を出ようとする柴崎を、高が袖を引いて止めようとした。その瞬間、柴崎の身体の中を巡っていた何かが外へと噴き出した。
「孝之は殺された! だから、孝之を、手に掛けた者を、探しに行くのだ!」
十日ぶりに発された柴崎の声は嗄れて掠れていた。それでも、自身も驚くほどの大声だった。
だが、柴崎以外は川に落ちる直前の孝之の様子を知らない。だから、柴崎の言葉の意味を誰もが理解できなかった。そうしていきり立つ柴崎に向けられたのは、驚きと哀れみの視線――だから、柴崎は。
大きく両腕を振るった。高が、驚いたように身を引いた。それでも柴崎は治まらなかった。止めようと手を伸ばす徳兵衛を振り払い、客間を出た。
柴崎の突然の狂乱に、屋敷の者達は驚き蒼褪め、柴崎を取り押さえにかかった。屋敷の外に出してはならんぞ、旦那様に傷を負わすな――そんな声を聞きながら、柴崎の意識は闇に落ちていった。
元来、柴崎は非力だ。加えて、この十日で柴崎の身体はひどく弱っていた。だから柴崎は程なくして気を失い、誰一人怪我をすることなく事は収まった。
夢を見た。柴崎は孝之をその背に負って、土手を上ろうとしていた。さあもう少しだ、痛かったろう、苦しかったろう。もう大丈夫だ、私がついている。
そして、土手を上りきるその直前、柴崎は転ぶ。次の瞬間、どぼんと音がする。背中の温もりが冷えて行く。振り返れば、揺れる川面。
孝之がいない。柴崎が転んだから。柴崎が殺したから。
孝之、孝之、すまない。すまない――すまない。
柴崎は目を覚ました。そして、枕元に控えていた高に詫びた。そして泣いた。泣きながら言った。孝之は私が殺したのだと。私が、私のせいで、孝之は死んだのだと。
とりとめのない柴崎の言葉を、高は黙って聞いていた。柴崎の声が尽き、嗚咽だけになって初めて、高は口を開いた。
それは違いますわ。あなたのせいでは御座いません。
いつものように、いつものように。高はただ真っ直ぐに言葉にした。空が青いと言うように、雲が白いと言うように。
だから、柴崎は思った。高がそう言うなら、そうなのだろうと。
柴崎の胸は凪いだ。だが、ただそれだけだった。
休んだままになっていたお役目も、また以前のようにこなすようになった。判例を紐解き、書き付け、町奉行に送る。そうした日々を繰り返すうちに、一つの考えが柴崎の胸に浮かぶようになった。
この役を退こう。
出世をしたい者はたくさんいる。柴崎よりこの役職をうまく務めることの出来る者はたくさんいる。柴崎が退けば、それだけ益を得る者がいる。
柴崎にはもう跡継ぎがいない。与力の役は形式上一代限りとなってはいるが、実際は世襲だ――だから、孝之を亡くした今、柴崎が例繰方与力の座にしがみつくのは皆に迷惑だ。
だから、この役を退こうと思う。
うだうだと理由を並べ立てる柴崎に、高は言った。
皆、とはどなたのことで御座いますか。
柴崎は、目を左右に泳がせながら答えた。出世栄達を望む者や、才あれど無役の者や――
そう仰られても、高にはわかりません。お名前をあげてくださいまし。
柴崎は口を噤んだ。答えられなかった。
高は、そんな柴崎を見て言った。夕餉に致しましょう、と。
明くる日の昼を過ぎた頃、奉行所でつらつらと書き物をしていた柴崎は上からの呼び出しを受けた。
柴崎を呼んだのは、東町奉行・立花出海守清正――十年前、三十五歳の若さでこの役に就き、以来、長く保っても三年程度と言われる町奉行の激務をこなしている。奉行所内だけでなく、町人からもその信頼は厚い。
とはいえ、柴崎はあまり顔を合わせたことはない。基本、柴崎の役は町奉行に書類を上げることでほぼ終わってしまう。その書類に不備や疑問点があれば呼び出しを受けて直に話をすることもあるが、町奉行が清正に換わってからはそのようなことは一度もない。つまり、清正にとっては例繰方の仕事はあってもなくても差し支えない程度のものなのだろう――柴崎はそう解釈していた。
それ故、突然の召し出しにどこか釈然としない気持ちで柴崎は清正の役宅に向かった。まあ、町奉行の役宅は奉行所の敷地内にあるため、気持ちの整理をつける間もなく柴崎は清正に会うこととなったのだが。
立花清正は、大柄な男だった。柴崎が訪ねた折はちょうど訴状に目を通していたところで、胡坐を掻いて文机に肘をつくという砕けた姿勢でいたのだが、それでもその広い肩と背はどことなく威風を感じさせた。
「やあ、来たか」
訴状から目を上げて、清正は笑った。その目尻に刻まれた皺は存外に深く、柴崎はそこに町奉行という役の過酷さの一端を垣間見た気がした。
柴崎が型通りの口上を述べようとするのを制し、清正は手招きをした。戸惑いながらも柴崎が三歩分ほど控えめににじり寄ると、清正は苦笑して立ち上がり、柴崎の目の前まで来てどっかと腰を下ろした。
それに柴崎が慄く間もなく、清正は口を開いた。
「お主が、役を退くつもりであるというのは真実か?」
あまりにも単刀直入な問いに、柴崎は思わずぽかんと口を開けた。しかし清正の目は真剣そのもので、なんの駆け引きも裏なく、柴崎の真意を知りたがっていることは明らかだった。
「……お、仰せの通りに御座います」
やっとそれだけ口にして、柴崎は目を伏せた。何故だか、目を合わせていられなかった。
「そうか…ならば、その理由を聞かせてくれるか」
柴崎は、口を噤んだ。
嫡男である孝之が死んだことは、無論清正も知っている。事情を鑑み、しばらくお役目を休めと達しを出したのは他でもない清正なのだから。ならば、柴崎が職を辞そうとしている理由はある程度察しがついているはずだ。
「何故、そのようなことをお尋ねになるのです」
力なく、柴崎は問い返した。無礼であることはわかっていた。しかしもう柴崎は役を退くつもりであったし嫡男もいない、御家人株も売ってしまおうと思っていたから、礼儀も何もどうでもいいような心持ちであった。
が、清正は別段それを気に留めるような素振りもなく、さらりと柴崎の問いに答えた。
「いや何、ちょうどお主に一つ仕事を頼もうと思うておったのでな。お主が役を退くというのなら、この話は無かったことになる――が、それもなんだか惜しくてなあ」
予想もしなかった言葉に、柴崎は目を瞬かせた。
「仕事――に、御座いますか?」
思わず柴崎が問うと、清正は破顔して先を続けた。
「ああそうだ。お主は、今の判例記録をどう思う? 使いづらくはないか?」
言われて、柴崎ははたと思い出す。
今の判例記録は時系列につらつらと並べ立てただけで、極端な話、押し込み強盗のお裁きのすぐ隣には隣家の庭からはみ出してくる柿の木への訴えについて書いてあるなど、全く分類がなされていない。そのため、慣れない者は判例記録から似通った事例を選り抜くだけで何日もかかってしまうのだ。
柴崎などはもう十年以上も毎日毎日判例記録を繰っているから、どういった事例がいつ頃の記録に残されているかは大体把握しているし、私物ではあるが簡単な索引も作った。が、それにしてもお裁きは毎日あるのだ。公の判例記録は、分類がなされぬままどんどんと増えていく。
だから、これをもう少し整理して、金に関するもの、地所に関するもの、犯罪に関するものなど、事例ごとに区分けをして書き残せば、例繰方の仕事には格段に便利なのだが、と柴崎は思っていたのだ。
と、そういったことを柴崎が話すと、清正は満足げに頷いた。
「ああ、やはり見込みどおりだ――私がお主に頼もうとしていたのは、正にそれだよ」
清正が言うことには、奉行所に訴えを出してから裁定が下されるまでが長い、という苦情が町から出ているらしい。奉行所に寄せられる訴状のほとんどは過去の判例を元にして吟味されるため、例繰方の仕事が早くなれば、裁定までの時間は短くなろうという理屈だ。
それはまあ納得できる。が、裁定までが長いという部分に柴崎は首を傾げた。
町奉行所は月番制で、東西二つの奉行所が月替わりで当番をし、訴状を受け付けている。だから、当番月中に処理しきれなかった訴えは、遅くとも非番である次の月のうちには裁定が下されるはずである。
が。
「この町の者はせっかちでなあ、次の月でも遅いようだ――月が替われば商いにも支障があると言われてしまえば、どうにかせんわけにはいくまい?」
笑って言う清正に、柴崎ははあ、と適当な相槌を打った。
しかし、奉行所に向かってそんな言いがかりめいたことを言う者がいるとは驚きである。しかも、それが町奉行の耳に入っているだなんて。
そう言うと、清正はからからと笑った。
「欲が出るのはいいことだ。住む者にそれくらいの気骨がなければ、町は寂れていく一方であろう。まあ、これは奉行所に直に寄せられたのではなく、私の手下が聞き込んできた話ではあるがな」
そして、清正はまた真剣な目をして真っ直ぐに柴崎を見た。
「――どうだ、やってはくれんか」
その視線から逃れるように、柴崎は目を左右に泳がせた。そして膝の上の拳に視線を落として、小さく息を吐いた。
「何故、私にそれを?」
もういい、無礼は重ねるだけ重ねた。この際だから訊いてしまおう。
答えはわかっている。柴崎は例繰方与力だ、だから例繰方に関わる新たな仕事を任される――でも、清正の、町奉行の口から直接そう言われたら、柴崎も胸を張って言葉を返せる。
私は例繰方与力の座を退きます故、それは後を務める者の仕事に御座います、と。
顔を上げない柴崎の耳に、清正の嘆息が届いた。
「――私はな、柴崎」
少しばかり低まった清正の声に、柴崎は身を硬くした。
「先も言うたかもしれんが、お主が役を退くというのならこれは無かったことにしようと思うておる。それは、お主でなければこの仕事は務まらんからだ」
予想もしなかった言葉に、柴崎は驚いて顔を上げた。すると、清正は柴崎と目を合わせて少し笑った。目尻の皺が深くなる。
「お主の仕事は早い。そして丁寧だ。私は、お主の仕事振りに随分助けられた」
目を瞬かせることしか出来ない柴崎に、清正は語った。
清正は、若くして町奉行に抜擢された。それだけでも反感を買う元となるのだが、これを足がかりに更なる出世が見込まれているとの噂が広がってしまった。それからというもの、清正の失脚を狙う者達によって些細な事も粗相として悉く挙げ連ねられ、正に綱渡りの日々であったという。
「挙句、私を文字通り潰してしまおうと、其処此処で手を回して毎日毎日溢 れんばかりの訴状を送り付けてきてなあ――」
これを聞いて、そういえば、と柴崎は思う。確かに、清正が東町奉行となってから格段に訴状が増えた。それまで例繰方といえば閑職と揶揄されるほどのんびりとした所だったのだが、清正の就任から一年ほどは目の回るような忙しさだった。
しかし、今はそうでもない。訴状が減ったわけではないが、仕事の仕方を少し変え、柴崎を始め例繰方の皆がそれに慣れたのだ。
訴状を内容別に区分けするようになった。区分けされた訴状を、柴崎手製の索引を元に一人が纏めて調べるようになった。調べ方に漏れがないか、柴崎が確認をするようになった。ただそれだけで、東町奉行所がひと月に捌ける訴状の数は見違えるほど増えた。
柴崎は、それが当然だと思っていた。お役目なのだから、訴状が増えたらそれに対応しなければならない。出来ぬと開き直るなど以ての外だった。
そう言うと清正は目を細めて笑った。士分の者には、そういう考えの者は少ないのだ、と。そして、その柴崎の稀有な心掛けが、結果として清正を救った。
無論、訴えを処理するだけが町奉行の仕事ではないが、それが滞れば町からの評判は悪くなる――清正を引きずり下ろす理由づくりには、裁定の失態を誘うのが最もいい。だから、清正の政敵たちも町人の不満を煽るような遣り方をとったのだろう。
だが、それが皮肉にも清正を名奉行へと押し上げた。
「私を支えたのは柴崎、お主の仕事に他ならん。お主が、例繰方を一つ前に進めた――それが奉行所全体を底上げしたからだ。それは誇るべき事だと私は思う」
ぼんやりと、視界の中の清正が滲み出した。瞬きをする度にちらちらと滴が散って、鬱陶しいことこの上ない――柴崎は、たまらず顔を伏せた。
「なあ、柴崎よ」
両膝の上で固く拳を握り締める柴崎に、清正は語りかける。
「お主が役を退くと言うのなら、私には止められん。だが、この仕事はお主にしか出来んのだ。例繰方を前に進めたお主だからこそ、もう一つ先へ進めるのもまたお主でなければならぬ」
なあ、柴崎。
「頼む。どうか、引き受けてはくれんか」
柴崎は、すぐには答えられなかった。涙が零れ落ちそうになるのを、歯を食いしばって耐えている最中だったから。
忘れていた。柴崎は、この例繰方という役が好きだった。地味だと言われようが閑職と馬鹿にされようが実直に務めてきたのは、偏にこの仕事が好きだったからだ。
だから、訴状が増えた折も当然と思いながらも嬉々として取り組んだのだ。そしてそれが、知らず知らずのうちに町奉行である清正を大いに助けていたなんて、
そんな嬉しいことがあるか。
好きでした仕事が、懸命に取り組んだものが、誰かの助けになるだなんて。誰かの支えになるだなんて。
そんな素晴らしいことが他にあるか。
柴崎は、きっと顔を上げた。そして、清正の目を真っ直ぐに見返して、深々と頭を下げた。
「――御命、承りまする」
このとき、柴崎は決めた。生涯を賭してこの役を全うしようと。それは己のためであり、町政のためであり――新たな道標を示してくれた、清正への恩返しのためであった。
この日を境に、柴崎の心はまた前に進み始めた。笑えるようになった。楽しめるようになった。感情の形を保ちながら泣けるようになった。
そして、孝之の話を高と出来るようになった。
思い出すことは数あれど、悔やむことはなくなった。それが良いのか悪いのかはわからなかったが、生きている者と死んだ者の境はそこにあるのだろうとぼんやりと思った。
そして、翌年――新たな判例記録の編纂が終わらぬうちに、清正が町奉行の役を退くこととなった。詳しいことは柴崎にはわからなかったが、出世争いの末、清正が引いたのだと噂で聞いた。新たな役は、遠国奉行――清正の国許・出海に程近い、西の一地方を任されるのだという。
身に余りある大役だ――柴崎が挨拶に訪ねると、清正は笑ってそう言った。その目尻の皺は一段と深くなったようで、清正も少し疲れたのかもしれないと柴崎は感じた。
三年で戻る、それまで頼んだぞ、柴崎よ。
形の上では栄転であるはずなのに、清正はそう言った。町奉行直下の内与力でもない、それも未だに閑職と言われる例繰方与力の柴崎に。
でも、それが清正と柴崎だ。町奉行と例繰方与力なんて肩書きでは測れない距離――
だから、柴崎も笑ってそれを受けた。お待ち申し上げております、と。
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