嘘吐きの目

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 本当に、大丈夫なのだろうか――なんとなく不安な心持ちで、柴崎は判例記録を繰った。  あの後、柴崎は耕助と今後のことを少し話して一旦屋敷に戻り、普段どおり奉行所へと出向した。何はともあれお役目はきちんとこなさなければならないから、これは当然のことなのだが――柴崎が気になっているのは、この後のことである。  柴崎は、縁側からちらりと外の様子を(うかが)った。陽の傾きから見て、今は昼八つ半を回った頃だ。もう柴崎のお役目は終わる時分で、この調べ物が終わったら身支度をして屋敷に戻らねばならない――右近と、新介を連れて。  思わずため息が漏れそうになるのを(こら)えて、柴崎は判例帳を閉じた。  そう、柴崎はこれから新介と右近をどうにかして屋敷に住まわせるという大役を務めねばならないのだ。これが、どうにも気が重い。  だって、どうしたって高に本当のことは言えない。ならば、嘘を()くしかないわけで――それがどうにも柴崎の胸に暗い影を落としている。 (一体、どうしたものか……)  なんとか己を納得させようと、柴崎は朝の耕助との遣り取りを思い出す。  耕助が言うことには、十年前の出来事を調べるのと並行して、現在(いま)柴崎の屋敷で起こっていることについても調べたほうがいいという。そのために、右近と新介を屋敷に入れるのだと。  今ひとつ釈然としない様子の柴崎に、耕助は言った。  右近や新介に孝之が見えるか否かで、ある程度可能性を絞ることが出来る、と。  この一言が効いて、柴崎はこの案を呑むことにした。すると、耕助は驚くほどさらさらと段取りを決めていき、右近はどこぞの旗本の三男坊、新介はそれに付く中間(ちゅうげん)ということとなった。何故柴崎の屋敷へ逗留するかというと、右近は柴崎の上役から養子にどうかと紹介された人物で、話が本決まりになる前に柴崎家の家風を学びに来たと、そういう訳である。  ここで、孝之が帰ってきたのだから養子は要らない、という話になったら、そこは上役の顔を立てなければならぬからどうか形だけでも、となんとかして話を通すことになっている。  しかし――しかし。 (大丈夫、なのか)  新介の方はいい。あの若さで中間というのは難ありだが、よく口の回る新介のことだからなんとでも切り抜けられるだろう。柴崎が心配なのは、右近の方である。  まず、あの風体(ふうてい)。思わず息を呑んで釘付けになるほどの巨躯は、まあ百歩二百歩譲ってよしとしよう。しかし、剃り上げた頭と(ひたい)の傷はどうしようもない。耕助はなんとかすると軽く請け負ったが、どう頑張っても柴崎の上役が紹介するような良家の三男坊には見えないだろう。というか、柴崎の上役といえば町奉行である立花清正ひとりしかいないわけで――それもまた、柴崎の気を重くしている要因だった。 (……仕方ない)  何とかしてくれと頼んだのは柴崎だ。ならば、ため息ばかり吐いていてもどうしようもない。  柴崎は部下四人に帰るよう声を掛け、己も帰り支度を始めた。右近と新介とは、屋敷までの帰路の途中で落ち合うことになっている。これも、奉行所の前で待ち合わせるのは互いに都合が悪いだろう、という耕助の言葉に従ったのだ。  文机(ふづくえ)の上の覚書や(すずり)を片付けて、柴崎はよっこらせと腰を上げた。こんなとき、己も歳をとったのだなあと感じる。  目を通し終えた書状を近くにいた部下に預け、清正様へ渡してくれと頼むと柴崎は帰路についた。屋敷まではそう遠くないのだが、老い始めた柴崎には腰の大小の重さが(わずらわ)わしくなるくらいの距離ではある。今まで一度も抜いたことがないのに、この先も差し続けなければならないものなのだろうか――などとどうでもいいことを考えていると、緩い上り坂の先に小さな朱色の鳥居が見え始めた。  奉行所からの帰り道で、柴崎はいつも稲荷神社に寄る。別段、信仰心が篤いとかそういうことではないのだけれど――そもそもお稲荷さんは農業の神さまであるし――目に付くから毎日挨拶をして帰るというだけのことだ。  そういうわけで、待ち合わせの場所はその稲荷神社がよかろうということになった。  鳥居が近付く度重くなる胸に気付かない振りをして、柴崎は足を急がせた。右近と新介は八つにはもう着いているようにすると言っていたから、小さな社の前で待ちくたびれていることだろう。  うっすらと汗を掻きながら柴崎が鳥居まで辿り着くと、新介が気付いてこちらへ駆けてくる。藍無地の尻切半纏(しりきりばんてん)を尻っ端折りにして脇差しを腰に、足元は素足に草履と、中間の鑑の様な出で立ちである。 「お役目ご苦労様でござんした、柴崎様。こっちは準備万端ですぜ」  そう言って、新介は背後にちらりと視線を送る。それを柴崎が追うと、こちらに背を向けて(たたず)む右近の姿があった。どうやら、頭の方は(かつら)を借りたらしい。 「旦那ぁ、柴崎様がいらっしゃいましたよう」  気付いていない様子の右近に、新介が声を掛ける。そうしてようやく振り返った右近を見て、柴崎はおやと眉を上げた。  藤色の小袖に()の花色の袴、紺鼠(こんねず)の羽織。足元はきちんと白足袋を履いて、腰の大小も(さま)になっている。柴崎が気になっていた額の傷はというと、化粧でもしたのかほとんど目立たない。これだけ見れば、充分に旗本の三男坊然としている。 (なんとまあ)  耕助がきちんと仕事をするというのは、本当に本当のようだ。疑って不安になっていた己が恥ずかしくなる。  柴崎があまり繁々と眺めているからか、右近は不安げな表情(かお)で言った。 「柴崎様、あの、何か――お気に障ることでも御座いますでしょうか?」 「ああいや、そういうわけではないのだ。あまりにも様変わりしたもので、つい」  柴崎がそう言うと、右近はほっと表情を緩めた。なんだか思ったよりも素直な性質(たち)なのだなあ、と柴崎が思っていると、新介が口を挟む。 「さあて、そろそろ行きましょうかねえ。柴崎様のお帰りが遅くなると、お屋敷の皆さんが心配なさるでしょう」  よっこらせ、と新介は行李を背負う。 「あ、それと、これから旦那のことは春川(はるかわ)流之介(りゅうのすけ)ってお呼びくだせえ。あっしは新介のまんまでかまいません」  歩き出した新介に、柴崎は頭の中を整理しながら追いつく。新介もまた堂に入ったもので、若いことを除けばどこからどう見ても中間である。 「そんでもって、あっしは中間としちゃ若過ぎるんで、本当の中間は親父の新吉、今回は坊ちゃんのお付であっしが参ったとそういうことでお願いしますよ」  柴崎の心配事などすべて見透かしているような話の詰めっぷりに、柴崎は内心舌を巻いた。もう、柴崎が己の頭で考える必要などないのかもしれない。  それでも、お付である新介が前を歩くのはおかしいので、柴崎は右近と並んで新介の前に出た。隣の右近をちらりと見上げると、なんとはなしに既視感を覚える。  何故だろう。このような大男は一度会ったら忘れないだろうし、以前会っているはずも無いのだけれど。羽織袴姿があまりにも似合っているからそう思うのだろうか。 「――このようなことは、よくあるのか?」  思いついたので、柴崎は訊いてみた。が、問いの意図が伝わらなかったのか、右近は首を傾げる。その様子を見て、代わりに新介が答えた。 「こうやって変装して仕事するのはあんまり無いですかねえ――ってえか、初めてじゃねえですかい? ねえ旦那」 「ん、ああ。まあ――名まで変えるのは、確かに初めてだな」  二人は、恐ろしいことをさらりと言ってのけた。二人とも如何にも慣れている風だから、柴崎も安心したというのに――ここに来て初めてだなんて。  大丈夫なのか、本当に。  がっくりと肩を落とした柴崎を見て、新介が笑いながら言う。 「大丈夫ですよう、十年前のことは親分と平八がきっちり調べてくれますって。あっしらは、その時間稼ぎをするだけでさあ」  時間稼ぎ、という言い方に引っ掛かるものを感じ、柴崎は隣の右近を見る。すると、右近はなんとも居心地悪そうに視線をあさっての方へ向けた。  柴崎は直感した。この男、嘘や誤魔化しなど絶対に出来ぬ性質だ。 「……訊くが、耕助殿は、何をしろと?」  柴崎の問いに、右近は困りきった表情で切れ切れに答えた。 「はあ、それは、その……(たか)様と、仲良くなれ、と」 「それだけ、か?」  これまたよくわからない答えに、柴崎は思わず問いを返した。すると、右近は観念したように頷く。 「私は、高様とお話をして、とにかく母子のように仲良くなれと――それだけを言い付かったので」  なんだそれは。  右近と新介は、今柴崎の屋敷で起きていることを調べるのではなかったのか? 「柴崎様柴崎様、お屋敷の方はあっしが言い付かってますんで、そんなに不安げなお顔なさらないでくだせえな。大船にのったつもりで、どおんと構えましょ」  不安にさせたのは誰だ。というか、耕助は一体どういうつもりなのだ。  からからと笑う新介と、申し訳なさそうに表情(かお)を曇らせる右近――そして、屋敷を出てから戻るまでに更なる不安を背負い込んだ柴崎。  乗り込んだ船の舵を取るのは、腹の中どころか表情すら読めぬ、鬼をも呑み込むという四条の親分・耕助だ。向かう先は、船賃を出す柴崎にもわからない。  でも、もう今更どうしようもない。ただ進むのみだ――たとえ、この両足が泥舟の底を踏みしめているとしても。
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