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我らが沈むのはいつなのだろう。
縁側に腰掛けて庭を眺めながら、柴崎はそんなことを思った。視線の先には、泥だらけになって池の底を浚う右近と新介、そして楽しそうにそれを手伝う高の姿があった。
右近と新介が柴崎の屋敷に来て早五日。事態は、一向に進んでいない……と、柴崎は思う。
二人がこの屋敷に馴染むのは早かった。まず屋敷に入れるのに難渋すると思ったのに、高を始め、奥向きに携わる面々は何故だかあっさりと受け入れた。春川流之介なんてふざけた名前も、なんら不審に思っていないようである。
新介は持ち前の愛嬌でするりと屋敷の奥へと馴染んでしまったし、右近の方は折り目正しさと不器用さがよかったのか、高は何くれとなく世話を焼くうちに遠慮までも取っ払ってしまったようで、今ではああして池の掃除などという汚い仕事まで手伝わせる始末である。
最初は、柴崎を始め女中頭のおしま、用人の松五郎と主たる家人が揃って止めたのである。旗本のお坊ちゃんにそんな溝浚いのようなことをさせてはいけない、と。しかし当の右近がそれらを退けて請け負ってしまったために、それ以上は誰も強く言えず――あの、柴崎でさえ存在を忘れていた沼のような池を、右近が掃除するという図式が出来上がったのである。
まあ、事情を知っている柴崎からしてみれば、お坊ちゃんうんぬんはどうでもいい。それよりも何よりも、右近らが来てから高の機嫌がすこぶる良いことに柴崎は疑問を覚えるのである。
やはり、右近と新介にも孝之の姿は見えなかった。が、万一見えなくてもそれについて皆を問い詰めることはしないよう事前に打ち合わせておいたから、それで大きな問題が起こることはなかった。
しかし、それでひとつ明瞭としてしまったことがある。屋敷の者すべてが、柴崎に嘘を吐いているということだ。
耕助の元へ相談に行った日、柴崎は耕助からいくつかの質問を受けた。
帰ってきたという孝之は、死んだときの十四歳の孝之なのか、それとも成長した二十四歳の孝之なのか。
用意される孝之の分の膳の飯は、食事の最中に減っているのか。
足音や足跡など、姿が見えなくとも存在しているという形跡はあるのか。
これらの問いに、柴崎は答えられなかった。あまりに混乱していたのだろう、そんなことは気を付けて見たことがなかったのだ。
そしてこの五日間、柴崎は屋敷の中を、働く者達をじっと観察してみた。その結果、耕助の問いの後二者は否だということがわかった。
膳は運ばれてから下げられるまでちらりとも変わったところはないし、孝之と連れ立って庭を歩く高の隣にもう一つの足跡が残ることもなかった。
いないのだ、孝之は。見えないのではなく、いない。
それに、右近と新介が来てから孝之の話題が屋敷の者の口の端に上ることはなくなった。皆、柴崎を見ると居心地が悪そうに目を逸らす。柴崎に何か問い質されるのを避けるように。
だから――嘘なのだろう、と思う。それに柴崎が感づいていることを、屋敷の者は察している。
でも、高だけは変わらなかった。相変わらず孝之がいるように振る舞い、話をし、柴崎の知らない表情で笑う。それどころか、柴崎と暮らしてきた二十数年の中では一番楽しそうにはしゃいでいて――
そう、高は嘘を吐くような性質ではないのだ。だからきっと、高だけは嘘を吐いていないのだろう。高の見ている景色には成長した孝之がいて、それは何よりも満ち足りた暮らしなのだ――それを感じているからこそ、屋敷の者達も高の振る舞いに合わせたような行動をとっているのだ。
どうしたらいいのだろう。高は、遠くに行ってしまった。もう戻ってこないのかもしれない。そんな思いが日増しに深くなる。
焦りと諦めの間で、柴崎はぼんやりと座っている。どちらへ向かっても、柴崎のほしいものはない。それだけはわかる。
だから、柴崎は待っている。耕助という鬼が、柴崎の目の前に堆く積み上げられた理不尽の山を容赦なく突き崩し、その先の地獄を見せてくれるのを。そうすれば、柴崎はきっとその恐ろしさにたまらず走り出すのだ。どちらに向かうにしても、自力で歩いて行くよりずっと早く、あっという間に苦しい時期を駆け抜けてしまえる。
しかしこの五日間、鬼が訪れる気配はなかった。いや、実際報告のために耕助が柴崎の屋敷に来ることはないのだけれど――連絡は新介が町中に出て受けることになっている――それでも、十年前の出来事については柴崎の所まで報告が上がってきたことはない。一度、耕助が孝之の形見の羽織を見たいと言うから貸してやったことはあるが。
そういえば、その羽織はまだ返ってきていない。まあ、別段柴崎も使うわけではないからいつでもいいのだけれど。
己の膝の上に肘杖を突いて、柴崎は庭を眺める。右近も新介も、高も――皆、楽しそうだ。どれもこれも嘘なのに、偽物なのに、本当に楽しんでいるから、柴崎は――ひとり取り残された気持ちになる。柴崎は、とてもあんなふうには振舞えない。
もう、沈んでしまいたい。元より岸まで辿り着けないのはわかっているのだから。
「あらあら、どうなすったんです旦那様」
柴崎が深いため息を吐いていると、横手から声が掛かった。この野太くて優しい声は、女中頭のおしまだ。柴崎が声の方へ目を遣ると、おしまが縦にも横にも大きな身体を揺すりながら、盆に茶を乗せてのしのしとこちらへ歩いてくるのが見えた。
「いい陽気で御座いますねえ。今日のお茶請けはだるま屋さんの塩大福で御座いますよ、旦那様のお好きな」
答えない柴崎にも全く気を悪くせず、おしまはその逞しい腕で茶を出しながら、視線を庭へと向けた。おしまはもう三十年からこの屋敷にいるから、柴崎の気性はよくよく承知している。だから柴崎が何も言わなくても、思い悩んでいる理由を察しているのだろう。そして、それに触れてほしくないと思っていることも。
と、右近が転んで盛大に泥水が飛び散った。それを指差して新介が大笑いしている。あらあら、と高が右近へ手を差し伸べる。
その様子を見て、おしまが目を細めて笑う。
「流之介様は、いいお方で御座いますわねえ。お旗本のご子息というのに気取らなくて、高様にもお優しくて。あんなお方が、この――」
そこまで言って、おしまははっとしたように口を噤む。飲み込んだその言葉の先は、いくら野暮天な柴崎だって察しがつく。
あんなお方が、この家の養子になってくれたら。そんな言葉は、孝之が帰ってきているなら絶対に出てこない。
柴崎は、苦笑を浮かべておしまを見た。
「綻びが出るなら、必ずお前だと思っていたよ」
おしまは、大きな肩を竦めて恥じ入るように俯いた。
こういう性質なのだ、おしまは。知らん顔で嘘を吐き続けるなんて無理なのだ。柴崎が嘘を察して悩んでいることに気付いて、おしまもきっと辛かったのだろうと思う。
柴崎は、肩の荷が半分下りたような気分だった。こうなれば、おしまはきっと話してくれる。何故こんな嘘を吐いたのか、その理由も何もかも――そうすれば、柴崎にも今の状況を少しは理解できるかもしれない。
柴崎は、おしまの入れた茶を手に取った。熱すぎるのを嫌う柴崎のために、おしまが心を尽くして淹れたほうじ茶だ。ひと口啜って、うまいなあ、と思う。
柴崎が塩大福に手を伸ばしたところで、俯いたままのおしまが口を開いた。
「――旦那様は、どうなさるおつもりです」
要領を得ぬ問いに、柴崎は目を瞬かせた。そしてそのまま塩大福を一口かじり、目だけでおしまに問い返す。するとおしまは、ほんの少し視線を上げた。
「あの――おひとを、この屋敷に迎えるおつもりなのですか」
どうやら、おしまは跡継ぎの件について問うているようだ。しかし、おしまの言うあのおひとというのは一体誰を示すのだろう。右近だろうか。
口の中の塩大福をもぐもぐと味わいながら、柴崎は己の考えを纏める。右近を養子に迎えるのはあり得ないことだし、いない孝之を跡継ぎに据えるなどもっとあり得ない。
となれば――やっぱりどこかから養子を取るしかないよなあ。柴崎が塩大福を飲み込んで、口を開きかけたそのときだった。
「――旦那様! 旦那様!」
緊迫した声が響く。おしまの肩越しに、転がるようにこちらへ駆けてくる男の姿が見えた。あのごま塩頭は松五郎だろう。
松五郎は、柴崎の父の代からこの家の算盤を握っている用人である。小柄で痩せていて、独楽鼠のように機敏に動く。歳は今年で六十丁度――髪には白いものが目立つが、この屋敷の中では柴崎の最も頼りにしている使用人である。
「どうした、松五郎。なんぞあったか」
まだ口の中が甘い柴崎は、暢気にそんな問いを口にした。しかし、おしまを押しのけて柴崎の傍らに膝をついた松五郎の表情を見て、柴崎はようやくただならぬことが起こっていることを察した。
松五郎は、声を低めて柴崎にだけ聞こえるように言った。
「――猪兵衛と名乗る輩が訪ねて参りました」
猪兵衛。聞かぬ名だが。
ぴんときていない柴崎に、松五郎はぼそぼそと言い足した。
「目明しとかいう破落戸に御座いますよ――それが、旦那様と話をさせろと」
柴崎は、眉を顰めた。はて、耕助以外の目明しが屋敷を訪ねてくるとは一体どういうことだろう。
ひょっとしたら、耕助からの何かの暗号なのだろうか。新介ならばわかるかもしれない――そう思って柴崎がちらりと池の方へ目を遣ると、新介は目を細めてこちらを見ていた。柴崎と視線が合うと、新介は耳の後ろに手を当ててみせる。そうか、新介にはこちらの会話が聞こえていないのだ。
柴崎は、新介に聞こえるようにわざと大きな声で松五郎の話を繰り返してみせる。
「ほう、猪兵衛という目明しが来ておるとな。そのような奴、私は知らぬがなあ――で、何の話があると言っておるのだ?」
これを聞いて、新介は思い切り顔を顰めた。どうやら、まずい相手らしい。
柴崎の問いに、松五郎は一層声を落として告げる。
「それが――流之介様について、俺は全て知っている、とかなんとか、訳のわからぬことを申しておりまして。旦那様にそう言えばわかるの一点張りで、何人も取り巻きを従えて裏門に陣取り、追い返すこともままならず……面目次第も御座いませぬ」
今度は柴崎が顔を顰める番だった。流之介について全て知っているということは、この養子話が嘘八百だというのがばれているという意味ではないか。それに、柄の悪そうな輩を何人も連れているとは――さて困った。
柴崎の家は、与力の割には実入りが少ないので、若党などのいざというときに頼りになる男手はないのである。いるのは女と老人ばかりで、居候の右近と新介を除けば、男の中で一番若いのは柴崎といった有様である。
しかし、ここで右近や新介を矢面に立たせるわけにはいかない。おそらく、猪兵衛とかいう輩は二人のことを知っている。顔を合わせれば、屋敷の者皆の前で二人の正体を暴いて騒ぎ立てるだろう。それはまずい。まずいどころの騒ぎではない。
となれば、なんとかして柴崎が追い返すしかないのだが――果たして出来るのだろうか。この自慢の細腕で。
というか、猪兵衛なる者は一体どうしてこのようなことをするのだろう。こんなことをして猪兵衛に何の得があるというのだ。
「――ああ、思い出しやした!」
柴崎が黙り込んでいると、急に新介が声を上げた。
皆が驚いてそちらを見ると、新介は無垢な笑みを――いや、無垢に見えるような笑みを浮かべて、先を続けた。
「猪兵衛親分って言やあ、あの大きな油問屋の駒野屋さんが頼りにしてるお方でしたっけ。ねえ流之介様、そうで御座いやしたよね」
無邪気を装う新介に、右近はちょっと首を傾げてから頷いた。
「ああ、そうであったな。確かに、徳一郎殿と歩いているところを見かけたことがある」
この遣り取りに、柴崎は目を瞬かせた。どうしてここで駒野屋の名が出てくるのだ?
と、ここまで考えてようやく柴崎は思い出す。
そういえば、柴崎は駒野屋から養子縁組の話を受けていたのだ。柴崎は、それに明瞭とした返事をしていない。そんな中で、柴崎が養子に取るつもりで他家から男子を呼び寄せているという噂が耳に入れば、これは確かに駒野屋も怒るかもしれない。
しかし、この話が駒野屋の耳に入っているのなら、猪兵衛が来るというのは妙である。現に駒野屋が今まで猪兵衛を遣いに寄越したことはないし、猪兵衛が駒野屋の遣いならばそう名乗るはずだ。
ということは、である。
猪兵衛の知っている『流之介についてのこと』というのは、『この養子話が狂言であること』ではなく『柴崎が駒野屋に黙って他家から養子を取るつもりでいること』なのかもしれない。ならば猪兵衛は、駒野屋と柴崎の間にうまく入って仲介料でももらうつもりなのだろう。
そうなれば話は別だ。流之介の養子話については上役からの紹介で断ることが出来なかった、駒野屋には話してなんら差し支えない、とでも言えば柴崎でも充分追い返すことが出来よう。駒野屋の方には、養子縁組については先方が乗り気ではないので、これは形だけの話だとかなんとか言えば、後々禍根も残るまい。
まあ、もしも、万が一、猪兵衛が流之介の正体を右近だと知っていて、それについて脅しをかけてきたのなら――春川流之介なんてうちにはいない、と言って門を閉めてしまおう。知らぬ存ぜぬで押し通す。それしかない。
柴崎は、よいしょと腰を上げた。
「旦那様、如何なさるおつもりです」
下駄を突っ掛けて庭に下りた柴崎に、松五郎が不安げに声を掛ける。
「ああ、私が話をしてこよう。何、案ずることはない」
裏門の方へ歩き出しながら、柴崎は気楽に手を振ってみせる。視界の端に、腰まで泥水に浸かった右近がようやっと池から這い出すのが映った。あれでは、一度湯に入りに行かねばならないだろうなあ――柴崎がそんなことを思っていると、松五郎が柴崎の袖を引く。
「旦那様、これを」
ん、と振り返ると、いつの間に持ってきたのか、松五郎の手には柴崎の大小二本があった。そこでようやく、柴崎は己が丸腰であることに気付いた。というか、今日はもう務めを終えて帰宅した後だから、大小どころか袴も羽織もない――つまり、装いを整える暇がないのならせめて刀だけでも、ということなのだろう。
「いや、しかしなあ――」
柴崎は、小さくため息を吐いた。
確かに、着流し姿の柴崎などどう頑張っても威厳などない。まあ、装いを整えたところで元からないものはないのだけれど――実際、猪兵衛はこうして手下を率いて屋敷に乗り込んできているのだし――だからこそ、そこに大小があったって、柴崎の腰が重いか軽いかの差だけだろうに。
渋る柴崎に、松五郎は断固として首を横に振る。
「旦那様、相手が相手で御座います。抜かずとも、腰に差しているだけで違いましょう」
そう言う松五郎のあまりの真剣さに、柴崎は渋々大小を受け取って腰に差す。本当に、これで大人しく帰ってくれるならいいのだけれど。
「まあなあ――だが向こうとて、そうそう手荒な真似はせんだろう。脅しをかけようにも、うちには掠め取れるような財もないしなあ」
そう言ってしまってから、柴崎は己の失言に気付く。柴崎家の家計を遣り繰りしてくれている松五郎に向かって、蓄えが無いと言うのは大いなる侮辱である。
「すまぬ松五郎、私は――」
「心当たりがおありで御座いますか」
柴崎の謝罪の言葉を遮って、松五郎が問うた。柴崎が、え、という顔をすると、松五郎は焦れたように言葉を重ねる。
「たった今旦那様が仰ったではありませんか、脅しをかけようにも、と。何か、心当たりがあるので御座いますか」
そこまで言われて、柴崎は己が失言だらけであったことに気付く。なんと情けない――無論、脅される理由など言えるはずもなく。
「あ、いや、その――そういうわけではないが、ほれ。ごろつき、といえば難癖をつけて金を取るのが生業のようなところがあるではないか」
思いきりしどろもどろに言い訳をする柴崎に、松五郎は怪訝な顔をしながらも反論はしなかった。少々のことならば、主人に食い下がるようなことはしない男なのだ、松五郎は。
柴崎がほっと胸を撫で下ろしていると、いつの間にやら裏門に辿り着いていた。
人の気配を察したのか、半分開いた潜り戸から猪兵衛と思しき人物が顔を覗かせる。その人物は、手振りで周りの男共を後ろに下げると、精一杯畏まったような立ち方をした。
ああなるほど、名前の通りいのししのようだ――猪兵衛の顔を見て、柴崎はそんなことを思う。
上顎に比して下顎が大きく、上向いた鼻とやや小ぶりな目。と言えば愛嬌がありそうな感じがするが、実際は四十がらみの髭面の中年男である。頬や顎はごつごつしていて、三白眼で、人相が悪いといえばそうなのだけれど、耕助のような脅迫感……もとい、威圧感はない。
鬼になるには面相だけではいかんのだなあ――などと暢気なことを考えながら、柴崎は潜り戸の向こうの猪兵衛に声を掛ける。
「あー、猪兵衛、といったか。私が柴崎栄之助だ。すまぬが、お主の言うておることが私にはさっぱりわからぬのだが、どういうことか説明してくれんか」
砕けた口調でぽりぽりと頬を掻く柴崎に、猪兵衛は毒気を抜かれたような珍妙な表情を浮かべる。が、猪兵衛は一つ咳払いをして気を取り直し、神妙な顔をして頭を下げた。
「これは、とんだ失礼をば致しました――こうして手前どもが柴崎様のお屋敷へ押しかけましたのも、ひとえに御身を案じてのこと。どうか、無礼をお見逃しいただきたい」
これに、柴崎がちらりと背後の松五郎を見遣ると、松五郎は嘘を吐け、とばかりに忌々しそうに口元を歪めていた。柴崎としては松五郎の気持ちを汲んでやりたいのだが、それでは話が進まない。
「まあ、それはよかろう。それで――私に、話したいこととは何なのだ」
柴崎の問いに猪兵衛は頭を上げ、こそこそと近寄ってくると半ば柴崎に耳打ちするような格好で話し始めた。
「――此度のこと、駒野屋さんはご承知で御座いましょうか」
そらきた。
「知らぬよ。伝えておらぬからな」
予想通りの問いに、柴崎はぞんざいに答える。が、猪兵衛はやけに納得したようにしきりとうんうん頷いている。まさに、突進の前に勢いをつける猪のごとしである。
そうで御座いましょうそうで御座いましょう――やけに親身にそう言ってから、猪兵衛は一層声を低くして柴崎に告げた。
「無礼を承知で申し上げますが――春川様は、春川様じゃあないので御座いましょう? だから、駒野屋さんには口が裂けても言えないと」
……そらきた。いや、これはきてほしくなかったのだが。
渋面を作って黙り込んだ柴崎に、猪兵衛は人の悪い笑みを浮かべる。ああ、これはもう完全にばれている――が、認めるわけにはいかない。柴崎一人ならば兎も角も、背後には松五郎がいるのだ。ここは、なんとしても誤魔化さねば。
「お、お主、自分が何を申しておるのかわかっておるのか? 流之介殿は――」
「孝之様なので御座いましょう」
え、と柴崎は猪兵衛の顔を見返した。
流之介が――右近が、孝之? 何を言っているのだ、こ奴は。
しかし、その柴崎の困惑を、猪兵衛は肯定と受け取ったようだった。
「帰っていらしたのでしょう、孝之様が。それで、柴崎様は全てをお知りになった」
続く猪兵衛の言葉に、柴崎の混乱は更に深くなっていく。孝之が帰ってきて、柴崎が全てを知った? それは一体どういう意味だ。
もしや、猪兵衛は十年前のことを――いや待て、それなら。
「お主も――知っておるのか」
柴崎は問うた。そのように思わせぶりなことを言うということは、きっと――
「手前は、最初に申し上げたはずで。柴崎様の、御身を案じて参ったと」
猪兵衛は、にぃっと笑って頷いた。
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