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孝之。孝之が帰ってきている。
嘘だ。
信用ならない。この男はおかしい。追い返さねば――そんな言葉が頭の中を駆け巡る。が、孝之の名が不意打ちのように柴崎をぐらつかせ、判断を鈍らせる。
話を聞きたい。
「旦那様――」
松五郎が不安げに柴崎の袖を引く。それで、柴崎は我に返った。
――ああ、そうだ。
「悪いが、帰ってくれ」
柴崎の一言に、今度は猪兵衛が渋面を作る番だった。視界の端で、松五郎がほっと表情を緩めるのがわかった。
猪兵衛の心積もりはわからぬが、松五郎が柴崎を案じているのはわかる。だから、たとえ猪兵衛が本当に柴崎の身を案じていたとしても、柴崎は松五郎の気持ちを汲んでやりたい。それに――昔のことは、耕助らが調べてくれているのだし。
柴崎は、ひとつため息を吐いて先を続けた。
「お主の言うことはいまひとつわからんのだ。いや、さっぱりわからん。何か、思い違いをしておるのではないか」
「だ、だから手前は孝之様が――」
「孝之は死んだ」
なおも食い下がろうとする猪兵衛に、柴崎は短く告げた。猪兵衛はぐっと口を噤み、ぎりりと奥歯を噛み締める。
「死人は帰らんよ。盆になればどうだかわからぬがな、今は卯月だ。それに少なくともこの十年、私は一度も孝之を見ていない」
孝之は死んだ――柴崎は、言い聞かせるように繰り返した。視界の片隅で、松五郎が身を固くして俯いている。
猪兵衛は、困り果てたように額に手を当てた。そして、これだけは言うまいと思っておりましたが、と前置きして、
「――実は、見た者がおります」
孝之様を。
これに、再び柴崎は揺らいだ。
「それは――誰だ。誰が見たのだ」
急くように問う柴崎に、猪兵衛は首を横に振る。
「そこまでは――手前の口からはとても申し上げられません。が、確かに孝之様は帰っておられますのでしょう? このお屋敷の外にも、もう知られ始めているのですよ」
猪兵衛は、掬い上げるような目で柴崎を見た。惚けようにももう隠し切れないのだと、見当違いの色を瞳に映して。
(孝之を、見た……?)
柴崎は混乱の淵に居た。
一体どういうことなのだろう。孝之はいないのではなかったのか。見えているのは高だけで、屋敷の皆は嘘を吐いているのではなかったのか。
猪兵衛は、屋敷の外に孝之を見た者がいるという。孝之の帰還が知られ始めているという。
ならば、孝之は――帰っている、のか。
わからない。わからない。嘘吐きは誰だ? だって柴崎には見えない。柴崎の見る世に孝之はいない。ならば、ならば、
嘘吐きなのは、柴崎の目なのか。
「――あなた」
背後から呼びかける声に、柴崎はびくりと身を竦めた。ぎこちなく振り返ると、そこには装いを整えて静かに佇む、高の姿があった。
「た」
高、と呼ぼうとして、柴崎は思わず口を噤んだ。高がすいと微笑んだからだ。あのとき――孝之が帰ってきたと告げたときのような、空っぽな笑み。
高は、静々と歩き出した。その視線は、柴崎の向こうの猪兵衛よりも更に先を向いている。一体、何を見て――
「あなた、あれは徳兵衛殿では御座いませんか」
高の口唇から漏れた言葉に、柴崎は、え、と高の視線を追った。猪兵衛が慌てたようにそれに続き、こちらへ歩み来る徳兵衛と徳一郎の姿を認める。
何故、徳兵衛がここに――混乱を深める柴崎の頭に浮かんだ疑問は、次に目に映った人物によって少しばかり薄れた。徳兵衛と徳一郎の背後にいるのは耕助だ。
耕助が二人を連れてきたのだ。しかし、何故。
徳一郎は猪兵衛の姿を認めると、わずかに顔を顰めた。そして徳一郎が一言二言耕助に何事か告げると、耕助は一礼して道を引き返していった。柴崎の方はちらりとも見ない。
何が起こっているのだろう。耕助は、柴崎をどこへ連れて行こうとしているのだ?
溢れ出す疑問に溺れそうになっている柴崎の隣で、高が歩みを止めた。程なくして、徳兵衛と徳一郎が裏口へと辿り着き、徳兵衛は柴崎を、徳一郎は猪兵衛をそれぞれ見つめる。その表情は、どちらも硬い。
「――柴崎様」
先に口を開いたのは、徳兵衛だった。
藤色の小袖に銀鼠の羽織、白足袋に若草色の鼻緒の草履を合わせ、一分の隙も無い出で立ちだ。しかし、その表情はいつになく緊迫しており、一方ならぬ不安が柴崎の胸に巻き起こる。
徳兵衛はひとつ頭を下げた。
「このようにして突然押し掛けまして、真に申し訳御座いません。本日、手前どもがこうして参りましたのは」
「真に御座いますか、孝之様がお帰りになられたというのは」
徳兵衛の言葉を遮って、徳一郎が声を上げた。
あまりに単刀直入な問いに、柴崎と徳兵衛が揃って徳一郎を見た。徳兵衛は諌めるような厳しい視線を送るが、徳一郎は全く意に介さず、挑みかかるように柴崎を見つめている。
柴崎は、徳一郎の視線を受け止めきれずに俯いた。答えられない。孝之は――孝之は。
「何故、お隠しになるのです。孝之様は」
「帰っておりますわ」
焦れたように問う徳一郎に、さらりと答える声があった。はっとして柴崎が顔を上げると、隣で高が笑っている。
「丁度よう御座いました、孝之も徳一郎殿に会いたがっておりましたから――さあ、こちらへ」
そう言って、高は踵を返して歩き出す。戸惑いながらも柴崎が徳一郎の方へ目を遣ると、徳一郎は大きな体躯を固く強張らせ、視線を左右に泳がせていた。
すると、猪兵衛がすっと徳一郎の傍に寄り、その肘を掴んで何事かを言いかける。が、徳一郎はそれを乱暴に振り払い、高の後ろに続いてずんずんと歩き出した。そしてその後を、不安げな徳兵衛と仏頂面の猪兵衛が続く。
柴崎も、とっ散らかった頭の中をそのままにして歩き出した。松五郎が影のようについてくる。
高は、屋敷には上がらずにぐるりと庭の方へ回るつもりのようだった。一つ角を曲がれば、つい先程まで、右近と新介が掃除していた池のある庭に出る。
高の後ろ姿が角の向こうへ消え、そのすぐ後ろにいた徳一郎がびくりと足を止めた。その肩が見る見る強張り、一歩、二歩と後退りをする。
どうしたのだろう。柴崎が徳一郎を追い越して庭の方を覗くと、そこには――
「――あら、孝之ったら……丁度入れ違いになってしまいましたわね」
そう言う高が見つめていたのは、地面に走る細い二本の筋――ほぼ平行にうねうねと蛇行するそれは、何か濡れたものでも引き摺ったかのように、周囲を濁った水で汚していた。
その二本の筋は、庭を横切り、柴崎たちが来たのとは反対方向へと続いている。
高は、蒼褪めた顔でそれらを見下ろしている徳一郎を振り返った。
「驚かれたでしょう? 孝之は帰って間もないものですから、まだ身体から水気が抜けぬのですわ――ええ、徳一郎殿もご存知でしょうが、孝之は」
もう、十年も高良川の水底におりましたから。
ふふ、と笑う高に、柴崎は己の背筋が凍るのがわかった。
地面を走るあの二本の筋は、孝之の足跡だと言うのか。あの水が高良川の水だと?
ならば、孝之は――
(本当に、帰って……?)
胸がどくどくと脈打つ。血の巡る音がうるさい。赤みを増した西日が、この場にいる皆の影をくっきりと濃く地面に縫いつける。ひい、ふう、みい――全部で、七つ。
柴崎と高と松五郎と徳兵衛と徳一郎と猪兵衛と、
あと一人は誰だ。
あの曲がり角、その向こうから伸びるあの影は。
孝之、なのか。
眩暈がした。足下が崩れる。
沈んでいく。
不意に、高が声を上げた。
「恥ずかしがらずに、出ておいでなさいな」
誰も、あなたの顔を笑ったりしませんから。
その言葉が、柴崎の頭の中にあの日の孝之の姿を甦らせた。
腫れ上がった顔。潰れた鼻。赤黒い痣。泥に塗れた身体。
全身に残る、蹂躙の跡。
「――うぁああぁぁあ!」
突然上がった叫び声に、柴崎はびくりと振り返った。
髪を振り乱し、両腕を振り回し、血走った目で辺りを見渡して叫ぶのは――
「どうなすったのです、徳一郎殿」
静かに、高がこちらに歩み来た。柴崎の隣で、高は狂乱する徳一郎を凪いだ瞳で見ていた。
「もう、もう、わかっているんだろう? なのに、わざわざ、どうして、こんな――」
断片的な徳一郎の言葉に、柴崎は撃ち抜かれた。
わかって、いる?
「それ、は」
うまく口が動かない。舌がもつれる――柴崎の視線を受けて、徳一郎は気味の悪いものでも見たように顔を歪める。
「何がしたい? こんな、悪趣味な仕掛けまでして――殺したいなら斬ればいいだろう!」
殺す。斬る。
誰が、誰を?
「徳一郎――」
「触るな!」
制止しようとした徳兵衛の手を振り払い、徳一郎は二、三歩たたらを踏んでよろめく。そして池を背にして立ち、柴崎に向かって大仰に両手を広げてみせた。
「あいつが悪いんだ! 俺を、商人を見下しやがって、何が『父のものを欲しがらないでください』だ。俺は、俺は、欲しがったわけじゃない!」
ここは元々俺の物になるはずだったんだ。
「馬鹿にしやがって…! だから、だから、そんな口二度と利けねえように、俺が、この手で、」
あいつの息の根止めてやったんだ。
その言葉が浸み込むまでに、時は要らなかった。
意味はわからない。でも、理解よりもずっとずっと深いところで、言葉の毒に柴崎の感情が反応した。
「お前、が…?」
殺したのか。
孝之を。
「あいつが――あんたが、悪いんだ! 俺は、ただ」
思い知らせてやっただけだ。
徳一郎の言葉が、わんわんと頭に響く。
孝之が悪いだと? 柴崎が悪いだと?
聞こえない。聞こえない。
聞きたくない。
柴崎は、奥歯を噛み締めて俯いた。固く目を閉じようとしたそのとき、腰の大小が強く瞼の裏に焼きつく――
ああ。そうか。
「お前が、殺したのだな……?」
震える声で問う柴崎に、徳一郎は、
勝ち誇ったように笑った。
その瞬間、様々な記憶と感情とが一度に押し寄せた。
よくも、ぬけぬけと。
この家の養子になる?
孝之を殺しておいて。
よくも、よくも、この――
「――大嘘吐きめがあっ!」
柴崎は、刀の柄に手を掛けた。
徳一郎は言った。殺せと、斬れと。
ならば、望みどおり――
「あなた」
高の声が、柴崎の袖を引いた。高は、柴崎と目を合わせて、首を横に振った。
「いけません」
その声は、表情は、かつての高だった。
戻って、来たのか。
「高…!」
柴崎は刀の柄から手を離し、両手で高の肩を掴んだ。
そのときだった。
「――っ!」
徳一郎が、声にならない悲鳴を上げた。それと間を置かず、べしゃり、と濡れたものを地面に叩きつけるような音がした。
ずるり、ずるり。
何かを引き摺るような音。しかし、その元がなんなのか、柴崎にはわからなかった。松五郎や徳兵衛も、不安げに辺りを見回している。
が。
「来るな…来るな!」
徳一郎だけが、 何かを見ていた。その視線は落ち着きなく地面を彷徨い、己の方へ這い寄るそれから逃れるように後退る。
「お前が悪いんだ、お前が、俺を――!」
ぐらり、と徳一郎の身体が傾いた。その表情が驚きと恐怖に歪み、次の瞬間、徳一郎は背後の池に転げ落ちる。
「来るな、来るな、来るな! やめろ!」
俺に触るな――そう言って、徳一郎は溺れるほどの深さもない池でもがいていた。手足に絡まった水草をそのままに、徳一郎はなんとか池から這い上がる。
四つん這いになって咳き込みながら、徳一郎は顔を上げた。その睨みつけるような視線が、柴崎の方を向き――再び、恐怖に見開かれる。
違う。徳一郎が見ているのは、柴崎ではなく――
(高?)
そして、高の口唇が静かに動いた。
卯月の水は、冷とう御座いますね。徳一郎殿。
「――どけぇっ!」
徳兵衛を、猪兵衛を突き飛ばし、徳一郎は駆け出した。暮れかけた日の夕闇に、その背はすぐに見えなくなる。
柴崎は、高を見た。しかし、高は柴崎を見てはいなかった。凪いだ瞳で、空っぽの表情で、徳一郎の消えた闇を見ていた。
あの一瞬だけ、だったのだろうか。高が戻ってきたのは。
「――高」
柴崎は、その名を呼んだ。柴崎にはもう、それしか出来なかった。
頼む、どうか、どうか――戻ってきてほしい。
「高…」
柴崎の視界が滲む。泣いたって、何にもなりはしないのに。
泣いても喚いても、孝之は戻ってこなかった。だから、高もきっと戻ってこない。でも――でも、他にどうすればいいのだろう。
ぽたり、と柴崎の目から涙が零れ落ちた。それと同時に、鼻水も流れ出る。それを拭うこともせず、柴崎は俯いて子供のようにしゃくり上げた。みっともない――本当に、みっともないったらない。
でも止めようがなかった。だって、孝之は死んでしまった。
もう、柴崎には高しかいないのに。
「まあ、あなた」
不意に、高の声が聞こえた。思わず柴崎が顔を上げると、高が笑っていた。
「ひどいお顔。早く、洗っておいでくださいな」
ふふ、と高は娘のように笑った。
(ああ――)
高だ。高が帰ってきた。
しかし、柴崎が安堵したのも束の間のことだった。高の目の色がふっと暗くなり、その全身から力が抜ける。
「――高様!」
柴崎の脇から、松五郎が支えに駆け寄った。地面に蹲る高の姿と、助け起こそうとする松五郎を見ながら、柴崎は己の意識が身体ごと奈落の底まで落ちていくように感じた。
日が沈んでいく。それと同じように、柴崎自身も沈んでしまいたかった。
もう、柴崎の望むものはこの世のどこにもない。寄る辺もない。
もう、いい――柴崎は、静かに目を閉じた。
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