雨日和には寄り道を

1/1
前へ
/2ページ
次へ

雨日和には寄り道を

 俺の名前は麻木晴人(あさぎ はると)。無駄が嫌いな高校二年生。  月曜の朝。目覚まし時計が鳴る前に目覚め、スムーズに身支度を整える。再来週は英単語のまとめテストがあるから、 登校中に試験範囲の単元を一つでも確認しておきたい。今朝はゆっくり歩いても電車に間に合う。その時間を使えば十分に頭に叩きこめるだろう。いつも通り無駄のないスケジュールを頭の中で組み立てていく。  単語帳とスマホを鞄から取り出しながら玄関のドアを開けると、門の外に奴がいた。思わず眉間に皺が寄る。  木之本奏太(きのもと かなた)。無駄が好きな小学五年生。俺の妹である美晴(みはる)の同級生だ。 「あ、みはっちの兄ちゃん!おっはよー!」 「……おはよう」 「みはっちはまだごはん食べてんの?」 「さっき食べ終わっていたところだ。今朝は迎えに来るのが早いな」 「そっか!へへ、今日おれ早起きしちゃってさぁ。みはっちの兄ちゃんっていっつも朝早いんだな!」 「別に……普通だ」  ヘラヘラした顔でこっちを見るな。朝っぱらからよくそんな大きな声で喋れるな。この礼儀のなっていないガサツな男が妹と仲良くしているのも気に入らないが、年上の俺にタメ口で馴れ馴れしく接してくるのも気に入らない。そもそも俺は身内以外の子供が嫌いだ。朝から腹がムカムカする。  その時、玄関のドアが開いた。 「かーくん!おはよー今日は早いね!」 「みはっち、おっはよー!」  美晴が出てくる。ランドセルはまだ背負っていない。 「まだ八時になってないのにかーくんの声聞こえたからビックリしちゃった。急いで歯みがいてくるね!」 「おぅ!今、みはっちの兄ちゃんとしゃべってたんだ」 「そうなんだぁ。かーくん、お兄ちゃんと仲良しなんだね!」 「ちがう美晴、ちょっと挨拶しただけだ!」  冗談じゃない、俺がこいつと仲良しな訳がないだろ。木之本は否定もせずいい加減な相槌を打っている。何も考えていないんだな。家の中に戻ろうとした美晴が俺に声をかけた。 「お兄ちゃん今日は英語の勉強するんだ?」 「まぁな」 「まっじめ~優等生は大変だね」  そう言ってドアを閉める。 「英語⁉︎」  木之本は突然着ていた緑色のTシャツを掴むと、そこにプリントされた黄色のロゴを俺に見せつけてくる。 「ねーねーみはっちの兄ちゃん、この意味わかる?」  “Creation” 「……創造」 「想像……?あー『太郎くんの気持ちを考えてみよう』ってやつ?」 「そっちじゃない。新しく何かを生み出すってことだ」 「すげー!かーちゃんもわかんなかったし、みはっちの兄ちゃんあったまいー!」 「このぐらい当たり前だ」  全くくだらない。ああ、もう時間がこんなに過ぎている。足止めを食らっている場合じゃない。早く出発しなければ……。  身支度を整えた妹が玄関から出てきた。 「美晴、もう行くからな」  木之本ではなく美晴に声をかけ、早足でこの場を去る。 「あっお兄ちゃん!さっきね、お母さんが午後は……」  後ろから美晴の声が聞こえた気がしたが、これ以上朝の予定を狂わせる訳にはいかない。俺は単語帳を開いて足を進めることしか考えられなかった。だが、それは痛恨のミスだったと後から気付かされることになる。  夕方の降水確率は六十%だった。俺は必要最低限でしかスマホもテレビも見ない。朝家を出るときにスマホで天気予報をチェックするぐらいだ。でも、今朝はそれをしなかった。正確にはできなかったのだが……。美晴は俺が折りたたみ傘を常備するぐらいなら、そのスペースに参考書を詰める奴だと知っている。今朝そんな俺に、傘を持つように忠告してくれていたのだろう。そこに耳を貸さなかった俺の自業自得だ。  残りの四十%の確率にかけて、下校中もいつも通り単語帳を開いた。だが、俺の願いは見事に外れる。最寄り駅を出て暫く歩くと、雨粒が開いたページに染みを作りはじめた。 「最悪……」  こんなことなら駅前のカフェにでも入れば良かった。住宅街まで来ると手軽に入れる店がほぼない。まだ自宅までは距離がある。とりあえず雨を凌げる場所を探さなければ。俺は単語帳を鞄に仕舞い、小走りで辺りを見回した。  ふと、フェンスで囲まれた広場が目に入る。 《あじさい公園》  あそこには東屋があったはずだ。雨が身体を一層強く叩きつけ始める。俺は公園に向かって真っ直ぐ走った。  東屋の中に何とか避難できた。ポケットからハンカチを取り出し、制服や鞄にかかった雨粒を拭き取る。薄手のハンカチはあっという間に水分を含んで使い物にならなくなった。ハンカチをベンチの上に放るとベチョッと音を立てる。タオルぐらいは鞄に入れておくべきだったな。  そういえば、ここに来たのは小学生以来だった。まだ園児だった妹の手を引っぱって、あじさい公園の砂場で一緒にお城を作ったりブランコを押しあったりしてよく遊んでいたっけ。東屋のベンチがこんなに小さかったとは……天井も記憶より低く感じる。俺の身長があの頃よりもずっと伸びた証拠か。  いや、ノスタルジーに浸っている場合じゃない。この時間を使って今日のノルマである単語の習得と、本来家でやる予定の予習にも出来れば手をつけたい。鞄を開けて単語帳を取り出す。雨の音を聞きながらページを捲り、頭の中に単語のスペルと和訳を浸透させる作業に集中した。当然ながら公園内に俺以外に人はいない。多少の蒸し暑さを我慢すれば、東屋の中は雨を凌げる上に静かで十分に学習に没頭できる環境になっていた。  事務的にページを捲っていると、ふと目が止まった。  “creation”  忌々しい単語だな……。今日はあいつのおかげで本当についていない。木之本が今朝珍しく俺の登校時間に家の前にいなければ、天気予報のチェックを忘れなかったのに。それに、俺に馴れ馴れしく話しかけてわざわざどうでもいい質問をふっかけてこなければ、自習ノルマが狂うこともなかった。思い通りに行かない一日にイライラが募る。    雨の止む気配もなく時間が過ぎていく。  すると、雨音に混ざって泥濘んだ地面の上をバシャバシャと音を立てながら、誰かがこちらにやってくる。背格好からして子供のようだ。傘を持っていないということは、俺と同じくこの東屋で雨宿り目的だろう。今朝見たばかりの緑色のTシャツと例のロゴが目に入る。今最も俺を苛立たせているあいつだった。 「やっぱり、みはっちの兄ちゃんじゃん!」  木之本は東屋に辿り着くと、雨に濡れた頭を犬みたいにブルブル振る。ちゃんと閉めていないランドセルの金具がカチャカチャと喧しい。 「こら、水をかけないでくれ!」  返事の代わりに苦情を投げつけた。 「うわ、ごめーん!みはっちの兄ちゃん、雨宿りしてんの?」 「そうだが……」 「あ、やっぱり!傘忘れたんだぁ」  ぷぷっと木之本が笑う。 「……うるさいな」 「みはっちが『せっかく傘持ってきてあげたのにお兄ちゃん無視した!』って怒ってたよ」 「そうか……」  美晴には申し訳ないことをしたと思っているが、こいつに謝っても意味がない。 「勉強をしなければならない。俺は君と違って時間を無駄に使う暇がない」 「へぇ~だから、今も勉強してるんだ。公園でわざわざ」  木之本は俺の単語帳をニヤニヤ顔で覗きこんでくる。 「公園だろうがどこだろうが勉強できない理由にはならない」 「ふーん〈優等生〉って大変だぁ」  お前は無自覚に人を苛立たせるエリートだな。そんな皮肉を返してやりたくなる。 「大体そういう君こそ、雨が降るのを知ってて傘を持たなかったのか」 「おれふだんから傘持たないもん」 「信じられない……」  こいつは人間じゃなくて本当に犬なんじゃないのか? 「それならなぜ、ここに雨宿りに来たんだ?」 「みはっちの兄ちゃんがいたから!」 「は……?」  再び信じられないと呟きそうになった。 「みはっちの兄ちゃん、いっつも学校の銅像みたいに本読んでまっすぐ歩いてるからさ、寄り道してるのがなんかおもしれーもん」 「誰が二宮金次郎像だ!それに寄り道じゃない!」 「あっそうそう!二宮の銅像!」  俺がこんなに露骨に嫌がっているのに、何でこいつは距離を詰めてくるんだ?どれだけ鈍感なんだ……しかも一々腹の立つ言い方ばかりしてくる。これだから子供は嫌いだ。はぁ、今すぐここを去りたい。しかしこの雨では逃げたくても逃げられない。できることは、こんな生産性のないやり取りよりも単語帳に集中することだ。 「木之本君、俺は今も勉強しているんだ。静かにしてくれないか」 「エーーおれ、ヒマなんだもん」 「君も宿題でもすればいいだろ」 「宿題は学校に置いてきた。明日の朝となりの席のヤツに写させてもらう!」  どうせそんなことだろうと思った。ボタンの閉まっていない軽そうなランドセルには勉強関係のものが詰まっているようには見えない。 「せっかく公園にいるんだからさ、遊びたいじゃん」 「こんな雨の中滑り台とかブランコでもする気か?」 「まさかぁ!今だからできる遊びすんの」 「そうか、好きにすればいい」  俺は単語帳に目を落とす。木之本は結局何をするか決められずにウーンと唸っている。大口叩いてこれか。ついには無言でTシャツの裾を弄り始めた。どうかそのまま黙っていてくれ。 「あ、いいゲームあった!」  はぁ、短い静寂だったな……。 「みはっちの兄ちゃん、雨やんだら虹が出るか当てるゲームしよう!」 「は……?そんなこと一人でやってくれ」 「ゲームだからおれ一人じゃできないよ!」 「俺はくだらない遊びに付き合っている場合じゃない」 「負けたらおれ、もう話しかけないから」  一瞬耳を疑った。木之本は俺が思っていたよりも鈍感ではなかったらしい。嫌がっているのを分かった上で絡んでくるのなら、それはそれで十分タチが悪いが。 「……俺が負けたら、どうするんだ?」 「アイス買って!ソーダのやつ!」 「ちゃっかりしてるな……」  とにかく、俺がゲームにさっさと勝てばこいつを大人しくさせられる。アイス代ぐらいのリスクなら安いものだ。 「……分かった。ゲームに付き合ってやるよ」 「やったぁ‼︎」  木之本はバカみたいに大きな声を出して喜んだ。全く喧しい。 「それじゃ、みはっちの兄ちゃんから先に決めてよ!」 「虹はできない」 「あー……やっぱり、そっち選ぶんだ」  木之本はやれやれとでも言いたげな口調で半笑いした。むかつく顔だな。 「んじゃ、虹が出たらおれの勝ち、虹が出なかったらみはっちの兄ちゃんの勝ちね」 「ああ」 「あ、聞いて!今日学校でさぁ」 「待て、虹が出るまで俺に話しかける気か?」 「うん、だってやることねえもん」 「なら俺は勉強に戻る」 「勉強はダメ!ゲーム中なんだから。勉強したらみはっちの兄ちゃんはリタイアしたってことで負けね!」 「暴君か……」  これだから子供は勝手で信用ならない。木之本は好き勝手に今日あったことをベラベラ喋る。俺が相槌を一切打たなくてもお構いなしだ。苦行の時間とでも思い目を瞑って聞き流していた。 「――それで、みはっちが……」  ……ん?今、美晴のことを喋っているのか? 「美晴が、何だって?」  目を開けて、木之本の方に顔を向ける。 「だから、みはっちがこのゲーム教えてくれたんだ。虹が出るか出ないか当てるやつ」 「そう、なのか……?」  灰色の雨雲が覆い尽くす空を背景に、屋根を伝ってリズミカルに落ちてくる水滴を眺めていると、ふと昔の光景が蘇った。そうだ、確か小さい頃に妹とこのゲームをしたことがあった。雨天で外に遊びに行けず不満をもらす美晴を見て、俺が即興で思いついた遊びだ。  このゲームは俺が創ったものだったのだ。  その時も、俺は虹が出ない方を選んだ。雨が止んだら虹が出るかもしれない、虹を見たいという希望を妹に持たせたかった。今思えば稚拙な思いつきだが、美晴はワクワクしながら窓越しに何度も空を眺め、俺と雨が止むのを待った。  結局、虹は見られなかったけど、美晴は『雨の日が楽しいって思ったのはじめて!』と言ってたっけ。それは、俺も同じだった。雨が止むまでの間は、妹と一緒に絵本を読んだり、しりとりなどをしながら時間を潰していた。あの時はその時間を無駄だとは思わなかった。この絵本の挿絵のように、雲と雲の間に虹の橋がかかる光景をもうすぐ妹と一緒に見られるのかもしれないと、胸を高鳴らせてくれた時間だった。  進学するにつれて、俺は成績上位を守ることが何よりも大事になっていた。空いた時間は全て自習に使う。無駄のないスケジュールを組み立て実践することに注力する日々。十秒でも暇があれば単語を一個習得しなければと、遊びのことを考える余裕はいつの間にかなくなっていた。  本来、こういう時間は〈無駄〉なことを楽しくする時間だったのかもしれない。  木之本の方に目をやると、Tシャツのあの言葉に訴えかけられているような気がした。今ぐらいはあの頃のように、無駄を楽しむ時間に浸ってもいいんじゃないだろうか……。 「みはっちの兄ちゃん、今学校で流行ってるゲームがあってね」 「なんだ?」 「指だけでやるんだけど、すっごくおもしろいんだよ!」 「ふうん……教えてくれるか?」  木之本は目を丸くし俺の顔を見る。その顔はすぐ満面の笑みに変わった。 「じゃあまずはね……」  気がつくと、いつの間にか雨は止んでいた。ほぼ同じタイミングで木之本も気づいたようで、東屋の外に飛び出していく。ゆっくりと回りながら天空を見上げている。 「あーー‼︎」  相変わらずの大声で、公園の出入り口の方を向きながら空を指さす木之本。 「虹、出てる!みはっちの兄ちゃん、あっち見て!虹だよ!」  東屋から出て木之本の指す方向を見上げると、オレンジ色の空にうっすらと架かる虹の橋があった。何年も見ていない光景だ。懐かしさに胸が温かく満たされていくような感じがする。  目線を下げると、こちらに戻ってくる木之本の満足そうな顔があった。あの時もし虹が出ていたら、美晴もこんな笑顔になっていたのかもしれない。 「おれの勝ちだ!みはっちの兄ちゃん、約束だからね!」 「負けは負けだからな……分かってるよ」 「じゃあ、明日もこの時間にあじさい公園ね!」 「お、おい、待て!勝手に決めるな!」 「え、明日いそがしいの?」 「俺は常に忙しい!明日だって……」  いつもの調子に任せて突っぱねようとした所で、ふと口を噤んだ。ここですぐに勉強漬けの日々に戻るのは、なんだか惜しいことのように思えてきた。 「いや……分かった。明日でいい」 「やったぁ!みはっちの兄ちゃん、また明日ね!」 「ああ、気をつけて帰れよ」 「うん、バイバ~イ!」  木之本は水溜りを踏みながら俺に向かって大きく手を振り、東屋から遠ざかっていく。  再び公園内には俺一人になった。雨も上がった事だし、ここへ散歩にやってくる人たちが直に増えるだろう。俺も帰る支度を始めた。  明日は思わぬ予定が入ったな。帰り道でスケジュールを立て直さなくては。  水溜まりに反射する夕陽の眩しさに思わず目を細める。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加