66人が本棚に入れています
本棚に追加
/32ページ
書きながら思う。
両親とは反りが合わなかったけれど、それでも読書の習慣をくれたことだけは感謝している。
周囲とうまくいかなかった故郷で本だけが唯一、わたしに居場所をくれた。
あの町が世界のすべてではないとを教えてくれたのもまた、本だった。
書き疲れてボールペンを置く。
4秒かけて息を吸う。それを4秒止めて8秒で吐ききる――柴本に教わった呼吸法。
呼吸に合わせて、ゆっくりと目をつぶってから開く。なんとなく頭の中がクリアになった気がした。
またボールペンを手に、紙に向かう。
『正面にからくり時計のある猩々軒の大きな建物から道を挟んで向かい。小さいが手入れの行き届いた――』
没。
長々と書いた猩々軒のくだりにザッと横線を走らせる。窓の外を見ながら、忌々しげな表情を浮かべていた黒山氏の横顔が頭をよぎる。きっと思うところがあるのだろう。
そうでなくても、獣人でありながら、あんな香水を付けている人物が、すぐ近くにいたのでは――やめておこう。
椅子から立って体を曲げ伸ばしして、園山氏の終始無表情だった顔を頭から追い出してから、続きに取り掛かる。
『流行りと伝統の融和。それが、歴史あるそば処 くろ山の店主、黒山一総の挑戦だ』
うーん、カッコ付け過ぎかな。高級マンションの宣伝コピーみたい。でも、とりあえず保留。
『蕎麦といえば麺。けれども、そば処 くろ山は、そんな固定観念を崩す試みを続けている』
あ、こっちの方がいいかも。さっきの気障ったらしい文言をボールペンでぐりぐりして塗りつぶす。
なんか今、誰かの声が聞こえたような気がしたけど、きっと気のせい。次だ次。
『そばスイーツ。蕎麦粉を使ったプリンやケーキを、同じ商店街に店を構える牛島菓子舗と共同で』
お、いいぞ。いいぞ。この調s
「き・こ・え・て・る・かー? ふ・ろ・は・い・れー!」
!?!?!?!?!?!?
ふさふさとして湿り気を帯びたものが、背中や首筋に当たる。同時に、耳元で聞こえる声と、ぬくもりを帯びた吐息。
集中するあまり、何の心構えも出来ていなかったわたしは、スリラー映画でサメやゾンビあるいは殺人鬼に出くわした人物がそうするように、特大の悲鳴を上げてしまった。
住んでいるのが集合住宅じゃなくて本当によかった。
ちょっと落ち着いてから振り向くと
「なんだよ。そんな驚くことねぇじゃん」
ぶーたれた顔をした柴本が、肩からバスタオルを掛けただけのパンツ一丁で立っていた。
最初のコメントを投稿しよう!