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「今日は、天気が、悪いからな。迎えに、来た、ぜっ!」
ギリギリと締め上げられるたび、柴本の下敷きになった男は情けない悲鳴を上げる。
「時間掛かりそうだから先に――あー、またなんかあると危ねぇから、少しだけ待っててくれな。今、こいつを――」
男が手を伸ばしかけた洋包丁を足蹴にして、少し離れたところに飛ばしながら言う。
遠巻きに眺めている人々の誰かが、悲鳴を上げる。
間髪入れず、男の右手にかかと落としを見舞う。
何かが砕ける湿り気を帯びた嫌な音。濁った呻き声。
「なぁアンタ、こうなるのは想像してなかったのか?」
無表情な柴本の足の下、男は口からあぶくを流しながら、悲鳴ともすすり泣きともつかぬ呻き声を上げ続ける。
「『誰でも良かった』とか、よく言うよな? ウソつくんじゃねぇよ。本当にそうなら、おれが――」
冷え切った駅のホーム、ひんやりとした色合いの照明の下。感情がすべて凍り付いたような目で言う。
わたしは初めて、目の前の男を怖いと思った。そしてそれを恥じた。
身を挺してわたしをたすけてくれようとしているのに、それなのに――。
助けてくれてありがとう。
もう大丈夫だから。
いくら何でもやり過ぎだ。
怖い。怖い。怖い。怖い――。
言葉が頭の中でぐちゃぐちゃに絡まり合う中
「全員動くな!」
柴本と組み伏せられた男は、駆け付けた警官たちによって取り囲まれた。
まず柴本が、続いて刃物で襲い掛かろうとしていた男がそれぞれ連行されてゆく。
「もう大丈夫ですからね」
呆然としたままだったわたしは、警察官に声を掛けられて束の間、正気――というよりも身体の動きを取り戻した。
それから急いで、柴本と、彼をどこかに連れて行こうとする警察官たちの背中に声を掛ける。
待ってください!
そのひとは、わたしを助けてくれたんだ!
連れて行かないで!
わたしの――家族なんです!
半ば取り乱して叫ぶわたしもまた、別の警察官に取り押さえられた。
振り向いた柴本と目が合った。
驚いているようにも、悲しそうにも、あるいは少しだけ嬉しそうにも見えた。
正直な尻尾が、小刻みに、けれども千切れそうなくらい激しくぶんぶん揺れはじめた。
こんな状況で何を喜んでいるのだろう。
――本当に、分かりやすいんだから。
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