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27.それの名はまだ知らない
「まーた辛気臭ぇ顔しやがって!」
聞き間違えることのない柴本の声。
太くて短いけれど細やかに動く指が、わたしの脇腹を猛烈な勢いでくすぐり始ぎゃははははは!
やめて! やめてったら!
故郷から逃げる中、寝床やお金または食事を得るために、他人に肌をさらすことや触れさせることは何度かあった。
そのときには不快感や痛み以外には特に何も感じなかった。
なのに、この男に触れられると、自分でもよく分からない反応をしてしまう。
「どうだ! これで笑ったか? 前に言ったろ?
『お前を笑わせるためなら、おれは何だってやる』ってな」
ドヤ顔で言う柴本。気付けば行き交う人達がこっちを見ている。待って超恥ずかしい。
っていうか物理的な手法ってアリなの?
「おう。だから何だってやるんだよ」
揺るぎなきドヤ顔。次は何をされるか分からない。
参りました。
「よーし偉いぞー」
ぎゅっとハグされる。皆こっち見てる。
あの――そういうのは――家に帰ってからが――いい、かなぁ――。
あ、小さい子がお母さんに目隠しされてる。
ごめんなさい、お騒がせしましたと心の中で謝った。
***********
で、何の用?
色々と気まずいので場所を移動してから、柴本に聞くと
「非番になって手が空いたんでよ」
わたしが通り魔に襲われたことをきっかけに、一連の誹謗中傷に警察の本格的な捜査の手が入ることになった。
ネット上に中傷や殺害予告を流した者も特定され、検挙が始まっていると聞く。
事態は収束に向かいつつあったが、それでも危険はあった。
今も商店街のあちこちに警察官がいる他、柴本がそうしていたように有志によるパトロールが行われている。
「牛島さんが新作の試食を頼みたいってさ。お前の食レポが一番アテになるんだって」
繋いだままだった手をぐいと引っ張りながら、柴本が言う。
そういえば、ずっと手を繋いだままだった。
「嫌だったか?」
首を横に振って、繋いだ手に少しだけ力を込めると、柴本は弾けたような笑顔を浮かべ
「よーし行こうぜ」
巻き尾をぶんぶんと揺らしながら、わたしの手を引いて揚々と歩き始めたのだった。
愛という感情を、わたしは概念でしか知らない。だから恋も分からない。
けれども、繋いだ手から感じる熱と、胸の奥から止めどなく湧いてくる温かさを、いつまでも保ち続けていたいと思った。
(了)
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