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「幸せ……って」
仁紀さんは訝しげに言葉を続けた。
「オレは確かに歯科医って仕事にやり甲斐を感じてる。今は自分の夢だと自信を持って言える。でも幸せかって言われたら、……オレはおまえを手離した訳だし、」
──え、幸せじゃない訳ないだろ、どういうつもりなんだこの人は。
「いやいや、再来月結婚する人が何を言ってる」
「へ?」
仁紀さんはこの上なく間抜けな声を上げた。
「えッ?」
予想外の反応に、僕も驚いて変な声が出た。
「ハル、何をって何?」
「や、何をもなにも、彼女と結婚するんでしょ」
「誰が?」
「仁紀さんが」
「誰と」
「ちひろさんと」
──千尋はオレの妹だけど?
「え?」
──結婚するのは、オレの妹とその彼氏
「え?」
頭が、混乱してきた。
「あれ、もしかしてハル、千尋のこと勘違いしてた?あっ、そうか。オレ言ったことなかったっけ」
そうかそうか、オレあの頃実家の話避けてたから言ってなかったな、ハルに。ごめんごめん。そうそうオレ、妹がいるんだわ。
うんうんと頷きながら一人で納得した顔をしている仁紀さんをよそに、僕は何がなんだか状況がさっぱり呑み込めない。
運転席と助手席の間から、ずいっと身を乗り出してきた仁紀さんは、やたらとニヤニヤした笑顔を浮かべている。
「なぁハル、もしかして焼きもち妬いてた?」
「いやあのっ違うし!」
慌てて否定して、迫ってくる仁紀さんの上半身を顔を避けるように車を降りた。僕は、千尋さんに関して大きな勘違いをしていたらしい。なぁなぁハルぅと言いながら、仁紀さんも車から降りてついてくる。くっそ。
「ハル、おまえやっぱ可愛いな」
「……え」
「聞こえなかった?もう一度言うからよく聞いとけ。ハルは、可愛い」
「……ちょっ、何を言っ」
背後から身体を引き寄せられたと理解するのに、少し時間がかかった。僕の肩回りに、仁紀さんのしっかりとした腕が絡む。
「ハルのこと、忘れたくても忘れられなかった」
え、僕を、なんだって……!?いやその前に、この状況を誰かに見られでもしたら困るでしょ。
「仁紀……さんッ、ちょっ、ここ、外」
無理やり仁紀さんの腕を引き剥がすと、とりあえず仁紀さんを家の中に押し込み、玄関のドアを閉めた。
後ろ向きの仁紀さんの背中に、僕は恐る恐る聞いた。
「忘れられなかった……って、言った?」
僕に背中を押されたままの体勢で、仁紀さんは答えた。
「ああ、言った。ハルのこと、ずっと忘れられなかった」
──嫌われたとずっと思ってたから、ハルが笑顔でオレの前にいるなんて信じられなかった。嫌いになった訳じゃないって聞いて、ヨリ戻せたらって思ってたけど、ハルがオレと二人っきりになるのを避けてるように見えて、不安で言い出せなかったんだ。
「そうかぁ。あれって、オレに気を遣ってくれてたのな」
僕はもう恥ずかしくて、仁紀さんの背後に立ったまま顔も上げられない。背中を押す手が汗ばむ。そんな僕を推し量るように、仁紀さんは前を向いたままで言葉を紡いだ。
「昔みたいな思いは絶対させない。だから、もう一度チャンスをくれないか」
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