6人が本棚に入れています
本棚に追加
十一月十九日
知らない家の匂いがした。知らない壁紙、絵画、散乱した二組のスニーカー。
廊下の一番手前の扉を開けてどうぞ、と家主に通されたのは寝室だった。廊下の突き当たりにはリビングダイニングへと続く扉が見える。寝室にしか入れてくれないのか。立ち止まって興味深げに奥の扉を見つめていたら、「あっちは散らかってるけどよかったらどうぞ」とこともなげに言って家主は廊下の奥へと進んでいく。
リビングのグレーのソファーの上には汚れた衣服が溜まり気味だったけれど、床はカーペットなので隅の塵を見なくて済んだし、家具も家電もすっきりとしたデザインの新しいものが揃っている。鬱病者は家事をする気力がなくなるというけれど、想像していたより随分ましだった。食卓の椅子に座るように促されて、私は薙沢がキッチンでお茶を淹れるのを所在なく眺めていた。
私たちはほとんど無言で熱いお茶を飲んだ。職場で患者に出すお茶だった。稲藁のような草の匂いと、少し血のような、鉄の味がする。
私と力の寝室は陽の当たる方角にあるけれど、薙沢と力の部屋は広い代わりに少し寒かった。たぶん北の方角に向かってだろう、大きな窓が空いていた。話に聞いていた以上の、ほとんど天井から床まであるような規格外の巨大な窓が。部屋の真ん中にはダブルベッドが鎮座している。それが私と力の寝室にあるのと同じメーカーの、全く同じ形のベッドだと気づいたときに、カッと顔が熱くなった。
枕がふたつ。脇のオーディオセットの上ではパンダと、水族館で人気のチンアナゴのぬいぐるみがそろってこちらを見ている。隅に置いてある引き出しが開いていたので覗き込むと、見覚えのあるタバコの箱や耳栓、コンビニでよく見かける虹色の紙箱や液体の入ったボトルなどがひしめき合っているのが見えて目を逸らした。
「あ、カバーとかシーツはちゃんと替えてるから。安心して」
本当にいいんですね? ともやっぱりやめましょうかとも薙沢は言わなかった。ふたりしてぎこちなくベッドへ腰掛けると、薙沢は前触れなく私の髪を撫でて静かに体を引き寄せる。嗅いだことのない甘ったるい体臭がかすかにした。
きっとこの男は中学の頃のナギサとは別のなにかだ。ゴツゴツした肩に顎を乗せながら思う。私を見下していたバスケ部の優等生はどこにもいない。そして私もただの地味なはぐれ島の女ではないのだ。
はじめはいくら頑張っても上手くいかなかった。前戯を始めてもう二十分近く経っていたと思うけれど彼に中断する気はないようだった。情けないやら恥ずかしいやらで途方に暮れる私に、「ごめんね」と言いながら薙沢はなぜか余裕の笑みを浮かべていて腹が立った。
全部が見えすぎているのではないだろうか。電気を消しても部屋は一向に暗くならなかった。壁一面の大きなガラス窓を覆うはずのブラインドは数年前に壊れて、もう全部取り外してしまったのだという。黒子や鳥肌の形まで見えた。
「力ってさ、いつもどんなふうにするの」
ふいに薙沢が言った。私はどう答えたらよいか迷って、とりあえず片方の足首を薙沢の肩へそっと乗せた。それから彼の手首を掴んで、もう片方の膝の下をくぐらせて秘部へぐいと押し当てた。
「ふうん、へんな体勢」
私も絡まり合う蛸のようだといつも思う。薙沢は少し嬉しそうに指を動かした。容赦なく奥まで挿し入れて、広さを確かめるようにぐるりとなぞる。痛い。その荒々しい指の軌道はどこか力に似ている。ナギサは力にされていることを私にする。力はナギサをこんなふうに愛する。その気づきはどちらかというと喜びをもたらした。虚構のベッドシーンがちらつく。つかえが取れたように彼の指がぬるぬる滑りだして、そこがどんな有様になっているか見ずともわかってしまう。毛布の中へ隠れてしまいたいと思いながら、私は力にそうするように片手の平で彼を慰めた。気持ち悪くないのだろうか。けれど薙沢も少しずつ乗り気になっていくのがわかって安心した。きっと彼の方でも、私にこういうことをする力のことでも考えているのかもしれない。こんな倒錯した欲情の仕方をするのは女だけの特殊な習性だと思っていた。
薙沢が手を止めたのを合図に私は自分から体勢を変えた。心臓をシーツに押し付けるようにして横向きに寝て、右足を軽く折りまげる。シムス位とかいう、直腸検査とか臨月の妊婦がよくやる変な体位を力は好んだ。
「あ、これはおんなじ」
薙沢の小さな呟きは透明で、なにを考えているのかわからない。頭頂部のあたりに温かい息がかかる。お互いに表情は見えない。それでいいと思った。自分の肘を枕にしながらシーツの波をうっとりと眺め、私は愛しい男を誘う、私ではない誰かになっていた。同じ姿勢で力に抱かれるのを待ちわびるナギサになりきったら、この行為にいつまでも付きまとっていた恥ずかしさもいやらしさも取り払われて、どこまでも澄んだ気持ちが胸にこみ上げてきた。
セックスが生殖のための行為ではなくて、ただ純粋に魂が惹かれ合った果ての、なにも生まない行為であればいいのにと思う。性別も性欲も結婚もいらないし、セックスの義務もない。何なら気持ちよくなくていい。むしろ苦痛を伴うほうがいい。息ができないほど苦しくて、死んだ方がマシだと思うくらい痛くていい。セックスをしただけ寿命が縮むのでもいい。セックスが何の意味も持たない世界で、力とナギサはセックスをする。それでいい。そのほうがずっと純粋で美しい。
背中に薄い胸板が触れた。熱が押し入ってきて私の全身はくまなく粟立った。
ナギサと力が初めて結ばれたころはまだ、私のような女に邪魔をされることもなく、ナギサはこのベッドの上で悦びを享受していたのだろう。けれど力が私と結婚してから、ナギサにとってこの行為はまったく別のものになってしまったにちがいない。愛情を試すためのものに。あるいは、不貞腐れるための材料。仕打ちに対する皮肉。悲しみの再生産。それでも思い出して安心する、宝物のようなただひとつの痕跡。
「好きだ、愛してる」
ノートの上に綴られた拙い愛の言葉の、意味合いのひとつひとつを追体験するように私は彼を感じた。揺さぶられながら恥ずかしげもなく盛大に声を上げて、手に入らないと思っていた絵空事がこの身に訪れた幸福を噛みしめていつの間にか泣いていた。男は私の背中を潰れてしまいそうなほど強く抱きしめる。切羽詰まった吐息が耳を侵す。彼は力で、私はナギサだ。上り詰めるほどに私の意識は内側へどんどん降りていく。倒錯したフィクションを紡ぎ続けていたわけを探り当てたような気がした。ああ私はずっとずっと、自分ではない誰かに、ナギサになりたかった。ずっと自分が、自分の姿形が恥ずかしくておぞましくて、そしてなによりも愛おしかった。
日が陰り、部屋の中はグレーのベールを被ったように沈んでいる。私たちは偉大なことを成し遂げたような充足に包まれながらそろってトドみたいに転がった。薙沢は全く性の匂いがしない触り方で、横たわった私の項からお尻のラインを撫でていた。冷たい指の感覚が砂地に染み込むように記憶されていく。私の地層には力と過ごした時間があって、彼の中にはそれと同じ形をした空洞があった。
薙沢にとって私の体は抱く価値があったのだと思う、女の姿形をしているという以外の理由で。それがたまらなく心地よかった。生まれて初めて、男に求められることが嫌ではなかった。
「そういえば最初の頃、どうして間取りのこと聞きたがったの」
うーん、と薙沢は長めの息を吐く。
「どんな家に帰って、奥さんとどんな風に過ごしてるんだろうって想像するため」
病気かなーと嗤うから、べつにふつうでしょ、と私は頬を緩ませる。
「あいつたまに〝翠ちゃん〟のこと話すんだ。デリカシーないから。家でタイミングよく音楽をかけてくれるとか、アジのつまみが美味しかったとかね。だから、大事なツボをがっちり押さえててとても敵わないって思ってたよ、翠ちゃんのこと」
「今もそう思う?」
「思う。打ちのめされてるよ、なんで力が翠ちゃんを離さないかわかった」
とんだ買いかぶりにたじろぐ。薙沢自身のものがたりのなかで、私は一体どんな性格で、どんな役回りなのだろう。どんな台詞を吐いて力を魅了するのだろう。わかるはずもないのだが、でもどうやら私は端役ではないようだった。
最初のコメントを投稿しよう!