フィクション

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三月二十日  力と私は三年住んだマンションを引き払った。あちらにはもともと揃っているから、家具や家電はだいたい私が引き取った。  先週から私が住み始めたこの新居の間取りはいたってシンプルで、以前の半分くらいしかない狭い玄関を過ぎると、不自然に長い廊下の途中にトイレと洗面所、風呂場へ続くドアがあって、突き当たりに広いリビングダイニング兼寝室がある。南側の壁に窓があり、洗濯物を干したらもう身動きがとれなくなるほどの小さなポーチも付いている。見晴らしはそんなによくない。似たようなマンションがひしめき合っていて太陽の光が当たるのは午前中のほんのひとときだけだ。  シングルベッドとソファ、テレビ。見渡せる範囲に生活のすべてがある。さすがに本を収納するスペースはなくて、廊下に背の低い本棚を新しく買った。本棚の一番下とその上の段には、色の不揃いな大学ノートが隙間なく並べられている。小四のときから中学、高校を経て現在に至るまで、これまで書きためてきた日記を整理して順番に並べた。ノートを書く習慣は継続している。最近は一ページと言わず、一日で数ページ書き進めてしまうことも多くなった。  高校生のときに書いた、太ももの内側にタトゥーを入れたふたりの話の結末は、力は離婚し、そしてナギサを迎えに行ったところで終わっていた。私は「力の妻」を、大した思い入れもなく登場させていた。夫に裏切られた彼女は、なにを感じていたのだろう。ひとりになった部屋でさめざめと泣く妻もいるだろうし、二度とふたりの顔なんて見たくないと憤慨したあとけろっと忘れる妻もいるだろう。すぐそばでふたりの気配を感じる密やかな生活を営みたいと考える妻もいるかもしれない、百人に一人くらいは、もしかしたら。  パチン。オープンキッチンの方から湯の沸いた音がした。フレンチローストの豆をセットしておいたコーヒーメーカーから、茶色い液体が氷の上へ細く長く落ちていくのをしばらく眺める。アイスコーヒー一杯。紅茶クッキー一袋。それを持ってポーチへと続くガラス戸を押し開ける。そこには風に揺れるひとり分の洗濯物と、私専用の丸椅子がある。毎朝掃除しているから、ポーチは床も室外機の上もいつも清潔だ。コーヒーを室外機の上に置き、丸椅子へ腰掛ける。  マンションの隙間から底なしの青空が覗いている。私はこの特等席が気に入っていた。申し分ない土曜日のはじまりに、私は首にかけていた双眼鏡をおもむろに持ち上げて、斜め上の方角を覗き込んだ。  ブラインドは今日も下がっていない。壊れたまま修理していないのだろう。ナギサにそのままにしておいてくれたら嬉しいとは確かに言った。  様子を伺っていると小さく影が動いた。夜の方がずっとよく見えるけれど、この時間帯でも双眼鏡を使えば表情を見分けることもできなくはなかった。短髪の、巨人のようなシルエット。これまでなら、とっくにビオラを背負って練習に出かけている時間だが、もうその必要もない。しばらくそのままの姿勢でいると、双眼鏡の重みに耐えかねて右腕が痺れてくる。何か三脚のようなものを買ったほうがいいだろう。この狭いポーチでも立てられるような小ぶりのものを。しかしこの双眼鏡を取り付けられる三脚というものは売っているのだろうか。  もうひとつ、少し背の低いほっそりしたシルエットが部屋を横断するのが見えた。クローゼットへ移動して、それからベッドのほうへ舞い戻る。一瞬だけ、ふたつの影が重なる、ゆっくりと。離れた瞬間に痩せた男のほうが窓の外を、こちらをまっすぐに見つめて微笑みかけたような気がした。たぶん気のせい。そう思いながらも、私も応えるように口元を綻ばせた。 (了)
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