フィクション

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 バスに揺られてM市の市街地から遠ざかると、家々はまばらになり、田んぼや畑ばかりの景色が増えていく。田畑が途切れ、小高い山道に入って一時間ほど走ると、山肌の木々の間に白い繭のような球体がちらりと見える。それは一度車窓から消え、次に見えた時には迫ってくるような巨大な建造物となって目の前に現れる。バスの乗客は手元の携帯端末や文庫本からしばし目を離し、皆その様に見入る。 「空想」とか「絵空事」、転じて「おはなし」。そんな意味だったと思う、その建物に付けられた名は。発音がどうにも思い出せない。日本語にはない響きなのだ。その土地に生まれるか特別な訓練を受けないかぎり発語しようのない聞きなれない音だった。もう名前も忘れてしまったが、海外の著名な建築家が手がけたと聞いた。だからその建物の名もきっと彼の祖国の母語なのだろう。私たち職員はそんなことは忘れて皆日本語で呼んでいる。  つぎは、宗教法人玉響の家・精神ケアセンター、宗教法人玉響の家・精神ケアセンター。人のまばらな車内に、柔らかい声でアナウンスが流れるのを聞くと、私はブザーを押し、使い古した革製の肩掛け鞄から定期券を取り出す。  ここへ入所している重度の鬱や精神病を患った人たちの言葉を聞くのが、私の仕事だ。話したい人もいるし、なかなか話し出さない人もいる。一度壊れてしまった彼らの物語は、方向を見失いときに予想もしなかったような形で噴出したり、小さく縮こまって固まってしまい、その人を動かないただの蝋人形のようにしてしまったりする。けれど話すことによって、壊れた球の欠片が独りでに集まっていき、内側から新しい何かに作り変えられ、またなんとなくまるい形に収まっていくようなことが起こる。そうしてできた球は以前とは別のものだし、ひどく歪なこともある。でもそんなことは大した問題ではない。新しい物語は患者の心を救ってくれるゆりかごになる。私は対話を通してかろうじて彼らの世界に留まりながら、繭が造り直されてゆくのをただじっと見守るのだ。    対話室Bの扉がゆっくりと開かれたとき、私は彼の方を見ることができなかった。勘付かれたって別にかまうことはないのに、問診票にじっと見入り、息を殺して入室者の気配を探った。しゅっしゅと、スリッパとリノリウムの擦れるぎこちない音が近づいてきて、向かいのリクライニングチェアが軋んだ。  真新しい白い壁の背景に、その姿はどこか不釣り合いだった。施設の入居部屋に備え付けの寝間着のまま着替えもしていない。  はじめまして、お名前をお願いできますか。いつもどおり、相手がリラックスできるようやわらかい笑みを浮かべる。男は私の手元のあたりをぼうっと見つめながら、薙沢貴史ですと答えた。猫背のせいで幾分老けて見えたが、その瘦せぎすの男は私と同い歳のはずだった。 「昨日から入所ですね」  男はゆっくりと頷いて、はいと声を出したつもりが、息が少し漏れただけだった。私は手元のアンケートへ視線を戻す。治療中断、休職中とあった。 「これまでは外来で治療を?」 「……はい」  彼自身の言葉は内側の奥深くに閉じ込められている。凝り固まった無表情は、彼がひどい鬱病を患っていることを物語っていた。 「入所されると、劇的に変わったという方も多いですよ。生活のリズムが整いますから」  男は視線を私のほうへわずかに向けた。はじめて目が合う。この男は本当にあのナギサだろうか。快活で天真爛漫な笑い声に、悪びれず友人に悪態を吐くときのやんちゃな口調。十四年の歳月が降り積もっても変わらない面影を、私は探した。 「お疲れでしょうから、明日から。本格的にはじめましょう」  団体の考え方やプログラムの説明を、薙沢は小さく頷きながら聞いていた。あ、と私は思い出したように付け足す。 「月曜に、朝の会というのをしているんです。朝食前に集まって、なんでもいいから話す会です。楽しかったことや、しんどいことや引っかかっていることを。話せば少し楽になるし、人の話を聞くだけでも気持ちが楽になるかもしれません。よかったら一度お越しくださいね」  窓の外に何か忘れ物でもしたように、薙沢は風景に気を取られている。中学生の頃の彼と面ざしは確かに似ていた。見間違えるはずがない、彼はナギサだ。 「……湖が」 「そう、湖」  つられて私も外へ視線を移した。ガラスの向こうには、センターの敷地内をくねくねと這う遊歩道が見える。その奥に赤や黄の混じった深い緑の森、木々の間には頑丈な柵に囲まれた、湖と呼ぶには小さな沼がのぞいている。  今夜日記に記すべき出来事はもう決まっていた。人相まで変わり果ててしまったナギサの、やっとの思いで紡ぎ出される喉に引っかかったような声を思い浮かべながら、私はペンを走らせるだろう。ナギサ。その三文字を、私はかつて幾度となくノートに書き付けたことがある。
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