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六月二十三日
もうすぐ最終下校時刻を告げるチャイムが鳴るというのに、ナギサと力は体育館倉庫にいました。「どうしてだまってたの?」力はくやしそうに言いました。「だって」ナギサは言葉につまりながら、手に持っていたバスケットボールをカゴに投げ入れました。
(だって、心配をかけたくなかったんだ。)と、ナギサは心の中で言いました。せっかくみんなで練習をがんばってきたのに、自分の不注意でこんなケガをしてしまうなんて。だからだまっていようと思ったのに、どうして力はすぐに気づいてしまうのだろう。ナギサはわけのわからない感情がこみあげてきて、声をあげて泣いてしまいそうになりました。
「試合はあきらめろ」「でも、」
「バスケは、いつでもできる」力の声は、意外にもやさしいものでした。
「お前のことが心配なんだよ」力の手の平は、大きいということを、ナギサは身をもって知りました。ナギサの小ぶりなほほを両手でおおってしまえるほどに。力の顔が近すぎて、ナギサは急に、心臓がドキドキしてきました。でも逃げることはできません。いつもの力とはちがう、さすような真剣なまなざしにいぬかれて、動くことができなかったのです。
「なんか翠、幸せそう」
帰宅の道すがら、琴美が汗を拭いながら言う。夏の暑さは突然にやってきて、通学用の白いスニーカーの中は灼熱地獄のようだった。
「またバスケ部のふたりのこと考えてるの?」
「琴美にはなんでもわかっちゃうのねえ」
「なんかにやにやして気持ち悪いから」
このところ寝ても覚めてもナギサと力のことばかり考えている。誰かにそれを話してしまいたくて、でも聞いてくれるのは琴美くらいで、私は自分のこしらえた妄想の細部まで琴美に話して聞かせていた。
「今日もさ、自習のあいだじゅうずうっとしゃべってた。もう、本当に信じられないくらい仲がいいんだよ。もう付き合っちゃえよって感じ」
琴美は頷きながら笑った。はじめは私の興奮ぶりに「気色悪い」と顔をしかめていたが、それは琴美が神話のなかの神々を使ってあることないこと仕立てあげるのと同じだと気づいたようで、最近では面白がって聞いてくれるようになった。
「現実の男の何がいいの」
「わかってないなあ」
「わからん」
「ナギサはね、力のことが好きすぎるの。気持ちが昂まりすぎてなかなか一歩が踏み出せないでいるの。失うのが怖いから、一番近い友人という場所に踏みとどまっているわけ」
「はいはい」
ていうかさ。ふいに琴美は少し冷静に戻った様子で言って、綺麗にアイロンがかけられたハンカチで額の汗を拭った。
「……翠はそのふたりのうちどっちのほうが好きなの」
「ナギサ」
「ナギサくんが女役なわけだよね。不思議なんだけどさ、なんで好きな人の方が女役なんだろうね。ふつう逆じゃない。ナギサくんが男役ならわかるんだけど」
たしかに重要なのはナギサだった。ナギサが女役でさえあれば、相手の男は誰でもよかった。そこそこ社会性があって、まあまあかっこいいと思える男であれば。なんならどうしようもないダメ男でもいいかもしれない。
「さあ。あんまり深く考えたことない」
「翠はさ、ナギサくんとどうなりたいの」
どうなりたいのだろう。並んで歩きたいのだろうか。そうかもしれないと思う。でも私は現実のナギサとただの一言も話したことがないのだった。学校の誰かと誰か付き合うとかいう話は、私にとってはガラスの向こう側で起こっていることだ。男女が楽しげに入り乱れてゲームをしている広場で、ルールがわからずに端に座っている。じっと観察して、どうにかルールを探ろうと思っても要領を得ない。
私とナギサは釣り合わないという以前に、人間として惹かれ合わない気がした。ふたりとも根本的に人に頼って生きていくタイプに思えた。空気と空気が混じっても空気、葉っぱばかりで根っこがない、みたいな。
「私はナギサが誰かと恋愛するのを物陰からじっと見ていたい」
口に出してみて、しっくりきた。それが一番近いような気がする。
「誰かっていっても、女だったら嫌だ」
「女だと嫌っていうのは、わかるなあ。嫉妬しちゃうからかな」
「どうかな。女が出てくるだけで台無しになっちゃう気がしない? 不純っていうか」
たとえその物語に登場する女が自分自身であろうと、やはりそう感じてしまうのだと思う。むしろ自分がそのフィクションに登場するのが一番気持ち悪い。女性的なもの、自分的なものを感じていたくない。
私だっていつかは恋愛をして、結婚をするだろう。あわよくば大恋愛をして好きな人と結婚したいと思う。未来のことはわからない。想像もできないし、現実の男女のカップルのあれこれを想像すると生々しくて拒否反応を起こしてしまう。私は目を閉じて、自分の存在しないめくるめく空想の世界へ逃げ込む。
その年の秋頃から、私のノートはナギサと力一色になっていった。現実の学校生活がどうだったとか、琴美とどんな話をしたとかいうこともほとんど姿を消して、来る日も来る日もナギサと力、ふたりだけの倒錯劇場を飽くことなく書き綴った。
ナギサと力は、ある時は高校生と若き教師だった。またある時は、不治の病を患ううら若い患者と、神の手を持つ天才外科医。時には、地球から遠く離れた惑星のコロニーで自らの出自に悩む地球の青年と、銀河を股にかける栄えある組織で重要なポストに就いているエリート将校だった。あるいは、どこか海外のダウンタウンにたむろする不良グループの一員で、際どい商売に手を染めながらも懸命に生きようとするふたりの少年だった。どんな場合にも、ふたりは出会った瞬間に恋に落ちる。本人たちがその思いに気づくまで何年もかかることもあるが、いずれにしろふたりはすれ違ったり喧嘩したり嫉妬したりを繰り返しながら結局のところつまりは愛し合っているのね、という感じで大円団のハッピーエンドを迎えるか、あるいは想いを遂げて悲劇的な最期を迎えるのだった。
私はひとつの恋愛経験も持ちあわせていなかったけれど、中学生の拙い想像力で作り出せる精一杯の空想物語で延々とページを埋めていった。流行病に罹ったかのように私は書き続け、文字はその吐き出すスピードに追いつけずにますます雑になり、行儀悪く紙面をのたうっていた。憧れと恋心といささかの破廉恥を、私は舌で一層一層とろかして味わっていた。キャラメルみたいに。キャラメルの詰まった箱なら頭の中にいくらでもあった。
冬、学年が終わる直前、力は突然学校に来なくなった。理由は誰にもわからなかった。二度と学校に出てこないまま力は一人、隣の学区の中学校に転校していった。その頃にはもう席替えをして、私と力は隣同士ではなくなっていたけれど、一人分だけ空いた机を印象深く記憶している。
ナギサにも変化があった。一番の親友がいなくなったのだから当然だけれど、ほかの友達もバスケ部やクラスにはたくさんいたはずだったのに、休み時間は一人でふらりとどこかへ行ってしまう。そうすることで自分を痛めつけて正しく罰しようとしているように見えた。天真爛漫さは形を潜め、目に見えて表情が暗くなり、覇気がなくなってしまった。
クラスが変わってからも、私はどきどきこっそりとナギサを見に行った。ナギサはバスケ部も辞めてしまったようだった。放課後一人で校門へ向かうナギサの背中を、渡り廊下から眺めていた。偏差値の高い有名な高校に進学したと噂で聞いたけれど、卒業後のことは知らない。
若い頃の恋ははしかみたいなものだ。ただ憧れているうちに、すぐにケロっと治ってしまうような。私の場合も例外なくそうだったのだろう。ノートに書かれたナギサについてのほどんどを、私は忘れていった。
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