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十月二十五日
病室の扉をノックしても返事はなかった。入りますよと断って、私はゆっくりと扉をスライドさせる。薙沢はベッド脇のスツールに腰掛けて、やっぱり窓の外を見ていた。彼の部屋は六畳ほどのひとり部屋だ。冷蔵庫と、小さな洗面台が備え付けられている。
「薙沢さん」
小さく声をかけると、薙沢はようやく振り返った。
「雨、止んだみたいですね」
いっしょになって外を覗き込むと、薙沢は今気づいたような顔で小さな水滴のついたガラスに焦点を合わせた。
「……すみません、疲れて寝てしまったみたいで」
予定の時刻になっても薙沢は対話室に現れなかったので、部屋まで様子を見にきたのだった。
「今日ずっとお部屋に篭りっきりだったでしょう。ちょっと外の空気を吸いに行きましょうか」
薙沢は少し迷ったあと、素直に頷いた。
私たちは敷地内の遊歩道をゆっくりと歩いた。はじめは天気や、朝食の話をした。両脇には盛りを過ぎた秋の花がまばらに揺れている。水気を含んだ風は冷たく、薙沢にジャケットを羽織らせてきてよかったと思う。霧のかたまりが、黒ずんだ木々を撫でるように低く流れていくのが見えた。
「私も、薙沢さんのお宅の間取りでも伺おうかな」
薙沢は意外そうに目をくりっと動かして私の方を見、興味ないでしょと笑った。笑うのはいい兆しだ。
私がじっと答えを待っているのを感じ取ると、薙沢はぽつぽつと話してくれた。彼が住んでいるのは九階にある2LDKの賃貸マンションの一室だという。書斎に、リビングダイニング。寝室には大きな窓があるけれど、眺めはそんなによくない。
「そこにはあなたの恋人もいらっしゃったことがある?」
「そう、ですね。あの人のものだらけです、僕の家は。服とか、出かけたときに買ったお土産とか」
「いっしょに住んでいたとか?」
「住んでたわけじゃ……」
薙沢は言葉を詰まらせた。私は顔も知らないナギサの彼女の姿を思い浮かべようとしたけれど、あまりうまくいかなかった。
ベンチにはどれも水溜りができていて、座るのを見送っているうちにいつの間にかケアセンターの敷地のどん詰まりまで来ていた。淡い色のレンガが敷き詰められた道は、U字を描いてもと来た方向へ戻っていく。けれど私たちは舗装されていない、森の木々が茂る方へそのまま真っ直ぐに歩いていった。仕切りはなく、患者たちはいつでも森の中へ歩いていくことができる。
「僕とあの人がいっしょにいられるのはあの部屋だけでした。あいつの匂いが染み付いたものに囲まれて、独りで待ってるんです。今日もちゃんと来るかなって、怯えながら」
彼女はもう薙沢の元を去ったのだろうか。それともまだ会うことができるのだろうか。
「欲しいけど絶対に手に入らないものがあって」
薙沢は言葉をつないだ。並んで歩きながら話すというのは意外とよいかもしれない。じっと向かい合っているより、ついでに話しているような気分があって。
「それ以外のものは、時間とか、真心とか情欲とか、そういうものはくれるのに」
それだけで十分のようにも思った。
私はぬかるんでふわふわとした弾力のある黒い土を避けるように、黄色や茶色の落ち葉が重なっている場所を選んで慎重に歩みを進めながら、辛抱強く言葉の続きを待った。薙沢はまるで頓着せずに歩くのでサンダルに落ち葉や土が容赦なく被さっている。
「痕跡が欲しかったんです」
「痕跡、ですか」
「……先生にはきっとわからないでしょうね」
吐き捨てるように嗤う。中学生の私にとってナギサは、完璧だった。憧れて止まなかった人がそんな物言いをするのを不思議な気持ちで聞いていた。
「彼が僕の中にいて、僕が彼の中にいた証拠です」
彼が僕の中に、僕が彼の中に。言葉が頭の中でぐるぐる回った。
「あいつは同性愛者だってことを隠しているんです。だから僕といた痕跡は残さない。写真もメールも、全部消す。誰かの記憶にも残らない。僕ら自身が知っているだけです」
どこへ向かっているのだろう。そのとき視界が急に開けて、緑がかったくすんだ青色の水面が目の前に現れた。薙沢が湖と呼んだその水溜りは、木々や藪に覆われて鬱蒼としていて、姿は見えないけれどこの季節でもまだ生命の気配に満ち満ちている。対話室Bから眺めるよりずっと大きく豊かに見えた。沼をぐるりと囲む柵の前に立ち止まって目を凝らすけれど、濁っていてどれくらい深いのかは見当もつかなかった。
「あいつは平日仕事が終わると僕の家に来て、夕食を食べて、セックスをして。それから、奥さんが待っている自分の家へ帰っていく。僕だって仕事で帰れないかもしれないのに、毎日。休日も夕方まで必ず時間をとってくれます」
「律儀ですね」
「そう、ですね。でも我慢ならなかったんです。僕は欲張りなのかな」
薙沢は柵の隙間から、水面のあたりをじっと見つめていた。私は彼の一挙手一投足を見逃すまいと息を詰める。心からの言葉をもっと、残らず聞かせてほしいと思った。
「彼はどんな方なんですか」
「……不器用で、口下手で、とても優しいやつですよ。あいつは誰も悲しませたくないんです」
だから憎みきれない。声が熱を帯びる。
「誰かが傷つかないようにあいつなりにすごく気を遣ってるんです。あのでかい図体はじつはロボットで、ほんとうのちっこくて繊細なあいつが、どこかで操縦してるんじゃないかって、そんなこと考えちゃうくらい」
薙沢は微笑んだ、きっと脳裏に彼の姿を思い浮かべているのだろう。
「ナギサくんて、覚えてるでしょ」
夫は食卓に乗った春巻を摘んで、ご飯といっしょに掻き込んだ。時たま「よーしよし」とか「下手くそ」とか野次を飛ばしながら、平日に録り溜めたバスケットボールリーグの試合に釘付けになっている。
「……バスケ部の?」
「そう。そのナギサくんに会って」
力はようやく、食卓の向かいに座る私を見た。中学の時ナギサの隣にいたゴリラみたいな男は、ふつうのサラリーマンになった。身長の高さはちょっとふつうではないけれど。銀縁のメガネが年相応に削げた頬を隠すように鼻に乗っていて、咀嚼のリズムで動く。
「……どこで?」
「個人情報だからね、詳しくは言えないけど」
「職場でってこと?」
心底驚いているのがわかった。
「担当してるんだけど、私のこと気づいてるのか、よくわからない。だって、たぶん中学生の頃は一度も話したことないし。忘れられてるかも」
世間話のように、努めて何でもないことのように笑った。力は大きく溜息を吐いてすっかり食欲をなくしてしまったようにお椀を食卓へ置いた。
「ずっと前さ、ほら、同窓会のとき。力、ナギサくんに会いたがってたよね」
「よくそんなこと覚えてるな」
「覚えてますよ、そりゃあ」
二十歳の記念に開かれた中学校の同窓会で、力の姿を見かけた。卒業前に突然転校していったのが最後だったから、欠席してもおかしくなかった彼に再び会えて、クラスメイトたちは大いに盛り上がっていた。私は卒業から五年経っても相変わらず、喧騒を遠巻きに眺めながら琴美と一緒に端っこの方で料理をつついていた。街角でクラスメイトと会ったとしても私はたぶん、素知らぬふりをするし、相手もそうだろう。だから翠ちゃん久しぶり、と力に声をかけられた時には、彼が私の名前を覚えていたことにまず驚いた。この男の発する「翠ちゃん」には、人をおちょくるような、(笑)みたいな響きが含まれていて、私はいつまで経っても身構えてしまう。黒いスーツに包まれた彼の体は以前の筋肉隆々の印象よりずっと薄く萎んで見え、身長だけはそのままでひょろながい巨人のようだった。彼は「ふつう」を絵に描いたような地味な大学生になっていた。
来てないね、と私は独り言みたいに呟いた。力が同窓会のはじめのほう、会場中にくまなく視線を走らせて誰かを探していたのを、カシスオレンジに口をつけながら私はしっかり見ていた。
「誰が?」
力がとぼけるので、ナギサくん来てないねと言ってやる。力は、なんだかなあ、油断できないよな翠ちゃんは、と笑った。どうしても会っておきたくて、と力は確かにその時、言っていた。なぜ中学を突然辞めたのか、聞くこともできた。不躾に尋ねた同窓生もいたはずだ。でも私は聞くことができなかった。学校を辞めた理由は、きっとナギサに関係があるという予感というか期待を私はしっかり持っていたけれど、個人的な楽しみのために人のプライベードに踏み入るのは少し後ろめたかった。
同窓会以来、私と力は何度か会うようになった。だいたい誘うのは力だった。とはいっても季節に一度とか、半年に一度くらいの頻度で、翠ちゃんげんき? という掴みどころのない文句で誘い出されては、なんとなく近所の映画館やデートコースを歩き回る程度だった。激しいロマンスとか告白劇とか、そういうものは二人の間に起こらなかった。ただ一緒にいることはすごく心地よくて、黙って並んで散歩するだけでも安心できた。そのうちに、お互いの実家を行き来するようになり、三年経ち五年経ち、私たちは結婚することにした。たぶんナギサのことが話題に上ることはほとんどなかったと思う。
力がどうして私を選んだのか、未だに腑に落ちないような気持ちがある。もっと見栄えのする、どこをとっても私には及びもつかないような女性をそばに置くこともできたはずなのに。
「安心するんだよ」いつかその疑念をぶつけたときに、力はそう言ってくれた。私が琴美という大樹を見つけて教室の中で生き抜いたように、力と私はなんとなく寄り添って、共存協定を結んでいる、そんな気がしていた。「安心する」とはどういうことなのか、あのあとナギサには会えたのか、彼に聞かなければならないと思うのだけれど口からはなにひとつ出てこなかった。そしたらもう元には戻らない気がした。なんとかまるい形を保っていた繭に亀裂が入って、なにかがこぼれ落ちてしまいそうで。
「ちょっと出てくる」
重苦しい沈黙に耐えかねたように財布とタバコとポケット灰皿をすばやく掴むと、玄関の方へ出て行く。ちょっと待ってよと追いすがるタイミングは確かにあったのに、私は椅子に座ったまま茫然としていた。夕飯はまだ半分以上残っている。見慣れた部屋の裏表がひっくりかえって、さっきまでとは似て非なる世界へ迷い込んでしまったようだった。
食卓をきれいに片付けてしまったあとは落ち着かなくて、居間をうろつき回った後、私は寝室へと足を踏み入れた。白々しいほど整った青色の掛け布団が乗ったベッドと、二つのチェスト。クラシック音楽のCDの山。棚の上には埃をかぶった南国の新婚旅行の土産が置いてある。真っ赤なベニヤ板の上に、木造りの新郎新婦が寄り添って立っていて、タイコやシンバルを持った男、新郎新婦を祝福して両手をあげる人々などもいる。音楽と祝福に包まれて、幸せの絶頂のような新郎新婦。板の下の紐を引っ張ると、人形がそれぞれタイコを叩いたり、両手を上げたり下げたりして動く仕掛けになっている。これを買った頃、私はなにも考えずに済んでいた。結婚して、子どもを授かって老いていく将来像を頭の中に思い描いて。
蝶番が壊れるかと思うほどの勢いでクローゼットを開けた。床につきそうな長いコートやズボンのポケットに片っ端から手を突っ込んでいく。引き出しの中や、しまい込んである季節外れの衣服の隙間まで、隈なく。けれど痕跡はどこにも、キーホルダーひとつ、レシート一枚なかった。
ふとクローゼットの下の方に立てかけてある黒革の楽器ケースが目に留まった。ケースは幾度となく目にしてきた。力がオーケストラで任されているのは、ビオラだ。彼は幼少期に、母にねだって少しだけバイオリンを習っていたことがあったらしいのだが、父親が「男の子らしくない。どうせ習うならスポーツを」と言って、中学校入学を機にバイオリンと彼を引き離した。社会人になってから、もう一度はじめてみようと思い立ったらしい。会社の同僚が多く在籍するというそのオーケストラではバイオリンは定員いっぱいだったのか、とにかく力が楽器店で買って帰ってきたのはビオラだった。聞きなれないその楽器は、小さくて高音のバイオリンに比べると少しだけ大きくて、低い音を奏でる。ちょうどバイオリンを女性の声とするなら、美しいテノールのような落ちついた音だ。
私は屈み込み、留め具を外してそっと蓋を開けた。ピシャッと合皮と合皮が離れる音がして、醸成された木とニスの匂いが立ち上る。そこには新品かと思うほどピカピカに磨かれたビオラが安置されていた。生きもののように、その体は滑らかな曲線でできている。目の覚めるような鮮やかな飴色の丘陵を、指先でそっと辿る。薄く日焼けしたナギサの肌を思った。なだらかな峰には、ぴんと張り詰めた弦が三本。一本、切れていた。
ビオラの他にも何か入っている。小さな紙の小箱だ。私はそれを慎重に取り上げて開けようとしたが、透明なシールで止められていた。乱暴に剥がして開くと、中にはシルクで丁寧に包まれた琥珀のようなものが入っていた。全く使われた形跡のない松ヤニだった。私はしばらく、その透き通った塊を恭しく両手に包んで、じっと見つめていた。
松ヤニは森の香りがした。傷ついたナギサを包む、森の中の白い繭がぼんやりと浮かんだ。早く帰りたいと思った。どこへかはわからない。力と結婚したことも、夫婦として一緒に過ごしてきた時間も、この部屋も。どこか作り物のようだった。
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