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十月二九日
病室の扉をノックをしても、やはり返事はなかった。ベッドの祭壇の上で毛布の塊が規則正しく上下している。薙沢は外界から身を守るように背を丸めて眠っていた。テーブルには処方箋と薬の抜け殻が散らばっている。窓にはカーテンが引かれ、昼下がりの白い光が漏れている。私はしばらくその寝顔を見つめていた。長い時間まじまじと見つめたことはなかったかもしれない。昔からよく知っている顔のようでもあり、まるで見たことのない男のようにも感じた。
私はこの前実家で読み返した日記のあるページを思い出していた。中学を卒業したあとすぐの、高校生活の狭間に隠れるようにして書かれていた数ページだ。その作り話の中では、力にはすでに妻子があった。そしてナギサは夜の街で働くアルバイトになっている。(私はナギサを不幸な境遇へ追いやるのが好きだ。反対に力はたいてい、お金の面でも愛情の面でも何不自由なく育ち、友人も適度にいて、社会的な地位を持っていた)ふたりは運命に導かれるように、陳腐な偶然によって再会する。「お前ともっと早く出会っていればよかった」力はお決まりの台詞を吐き、ふたりは三文小説によくあるように坂道を転げ落ちるが如く恋仲になる。けれど力は家庭を捨てることもできず、秘密の関係はずるずると続く。会いたい時に会えず「太陽の下で手をつないで歩くこともできない」苦しさに、ナギサは精神のバランスを崩し、あるとき自殺未遂をする。力は自分の不甲斐なさを詫びて、どうしたらお前を幸せにできるかと聞く。するとナギサはこう答える。「約束がほしい。死ぬまで僕から離れていかないで」力とナギサは、太ももの内側に、お揃いのタトゥーを入れる。そんな作り話を毎夜ノートに連載していたことも、私はすっかり忘れていた。
病室は薄暗がりの中にあった。薙沢は静かに寝息を立てている。
「ナギサ」
安らかな呼吸が一瞬乱れる。彼が目覚めた時、この口からどんな言葉が出てくるのか自分でもよくわからなかった。ひどい侮辱だと思う。私は彼の恥知らずな行いに対して怒りを表明しなければならないはずだ。けれどナギサの思いが細々と繋がってきたかもしれない、その嬉しさで私の胸のあたりはそわそわと落ち着かなかった。何にしろ、最悪ではない。望んでたんでしょ、と誰かが私に囁きかけた。たぶん中学生の私が。
ふいに森のどこか遠くから、澄んだ口笛のようなさえずりが響いた。聴いたことのない鳴き声だったが、あれは三光鳥ではないだろうか。滅多に見かけない鳥で、うす暗い木々の間を長い尾をひらひらさせて飛ぶ姿は妖精のようだと聞くが。寒い季節がやってくることを察知すると、飾り羽を捨て、群れになってどこかへ飛び去ってしまう。
ナギサは、何度か寝返りを打って、ゆっくりと瞼を開けた。ここが病室であることを認識して、それから傍にいる私を捉える。
「ナギサくん」
中学生のころのあだ名で呼ぶと、薙沢ははっとして私の表情を伺った。野生の小さな生き物のように。
「担当カウンセラー、変わったほうがよければ、遠慮なくそう仰ってください」
薙沢は私の言葉を噛み締め、小さく首を振った。
「よかった」
「……また僕、寝ちゃったみたいで」
「大丈夫ですよ。休息を必要としているんです。眠れるのは、いいことです。よろしければ、このお部屋で少しお話しましょうか」
彼が対話プログラムをすっぽかすのは二度目だった。薙沢は半身を起こして、置いてあったペットボトル飲料に手を伸ばした。性能の悪いロボットみたいにゆっくりと、二口ほどこっくりと飲み下す。
「不躾なことを伺いますけど」
私は静かに口を開いた。
「力と薙沢さんって今どうなっているんですか」
薙沢は直球ですね、と苦笑した。
「僕はこんな状態だし、少し距離を置いてます。もう無理かもしれないから、一度離れたいって、僕のほうから」
「そしたら、力はなんて?」
「……これはカウンセリング の一環ですか」
薙沢は戸惑った様子で俯いている。私はなんの感情も伝わらないように柔らかく答える。
「そうです。私の仕事は、あなたが話すことができるように手助けすることです。心の中へ分け入って、一緒に暗いところまで降りていく。あなたのことがもっと知りたいんです。もちろん話したくないことは話さなくていいんです。それで、力はなんて?」
「食い下がりましたよ。離れたくない、生きてる意味がないとか言って泣いて」
それは薙沢にとって後生大事にとっておきたい宝物のような言葉なのだろう。付け足したような控えめな口調のなかに隠しきれない喜びが見え隠れしていた。
「それで口論になって」
薙沢は黙り込んでしまう。結局、力の出した結論は薙沢の望むものではなかったのだろう。力は私を切らなかった。私と薙沢のあいだには毛羽立った沈黙が漂う。
「私に、会いたかったんですか」
薙沢は目を丸くして、それから細めた。笑っているようにも見える。
「はい、とても」
「なぜですか」
すると彼は悪びれた様子もなく、なぜかな、と首を傾げる。
「よくわからないんです、自分でも。このままの状態なら全部壊れてしまえって、どうにでもなれって思ったのかな」
薙沢と力の関係も、力と私の関係も全部。
「僕があなたに会ったところで別れるとはかぎらないし、それにあなたを傷つけることになる。そんなこと、わかっていたんですけど」
薙沢は独りごとのように呟いて、自分の心の奥を覗き込むようにしてしばらく考え込んでいた。数学の文章問題の解き方を考えているときの表情。楽しそうに笑っている輪の中心にいつもいて、なのに一人だけ真顔で別のことを考えている。天真爛漫な笑顔と、その達観したような思案顔の落差がたまらない。いつかの日記にそう綴ったような気がする。
「不公平じゃないかって、思ったのかな。僕だけ苦しんでいてあなたは呑気に暮らしているから」
同意も反論もせず私はただ耳を傾ける。
「それとも、僕のほうが力の近くにいるって知らしめたかったのかな」
私たちは夫婦ごっこをしていただけだったのだろうか。かつてナギサに抱いたような高揚を恋愛感情と呼ぶのなら、私が結婚に際して恋愛感情を持ったことなどなかった。結婚するにはぴったりだとお互いに感じていたし、それで十分だった。だいたい、どれだけの夫婦が百点満点の相手と百点満点の恋愛を、百点満点のセックスをしているのだろう。そんなものはフィクションの中にしかない。漫画や、ドラマや、日記に書かれた好き勝手な妄想物語の中にしか。
それか、と薙沢は逡巡するように呟く。
「あなたに会って、僕の知らないあいつを知りたかったのかな」
薙沢は想像したかったのだろうか。私といたときの、自分の知らない力について。だとしたらなんて貪欲なんだろう、と私は素直に感心した。
「知ることができました?」
「……少しは。でも、まだだと思います」
「どうしたら、知ることができるでしょうね」
私は問いかける。迷子の目で、彼は私を見返した。
話してみてください。大丈夫だから。怒ったり詰ったりしませんから。
私が知りたいのは、私の知らないナギサだ。私と力の結婚生活の裏側で、ナギサと力が執り行っていたことを知りたい。その願望は唐突に現れて、もう自分ではどうしようもないくらい勢いよく燃え盛りはじめていた。手に入れることができるなら、全部壊れてしまっても構わないかもしれない。そう感じている自分が不思議だった。
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