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十二月二十日
インターフォンが鳴りました。
小さな液晶画面に映ったタッパのある影を見た途端に、ナギサの動悸は激しくなりました。
条件反射のように解錠ボタンを押すと、その影はカメラの中のナギサを一瞥したあと、扉の奥の空間へと消えます。
ナギサが療養施設を退院してから、一ヶ月ほどが経ちました。退院のことは力も知っていたはずなのに、今まで一度も連絡をよこすことはありませんでした。それが少し寂しかったし、本当に僕たち二人が終わってしまったんだと実感しました。
もう、前に進もう。忘れてしまおう。そう毎日自分に言い聞かせても、浴槽に浸かっている時、トイレの便器に腰掛けている時、下着を履き替えている時、とにかく四六時中、思い出してしまう。何より、太腿の内側からのぞくタトゥーが、忘れることを許さないのでした。
なんでこんな呪いみたいな代物を彫ってしまったんだろう。
でも力とふたり、そろってこれを彫りに行ったとき、ナギサは確かに、忘れるくらいなら一生呪いにかけられたいと思っていたのです。
力は外の冷気を纏ったまま、ずかずかとリビングに入ってきて、羽織っていたジャケットをいつもの仕草で壁のハンガーにかけました。片手を上げたまま、ぽつりと言いました。
「別れてきた」
ナギサは目を見開きました。
「奥さんと?」
「うん。ちがうな、別れてきたっていうか。なんかずるい言い方した」
「……別れたいって言われたの?」
「そう」
「なんでだろう、淡々としてた。本当は俺のことも、誰のことも好きじゃないって気づいたんだって」
ナギサは信じられないような気持ちで、あの奇妙な入院施設の中でずっと面と向かっていた女性の顔を思い浮かべました。
別れを切り出されて、力は抵抗しただろう。彼がこの結婚という形にどれだけ安心を得ていたかナギサは理解しているつもりでした。親族や会社、世間といわれるものから結婚は彼を守ってくれていました。その安心の上に、力とナギサの関係はあったのだと、ナギサは感じていました。その繭が壊れてしまったとき、この関係は成立するのだろうか。ずっと沈殿して渦巻いていた疑念でした。
力はソファに腰を下ろしました。なんだかひどく疲れているようでした。
「どうしてあいつの職場に行ったの?」
力の言葉から感情は読み取れませんでした。ナギサは電気ポットを持つ手をぎゅっと握りしめます。
「ごめんなさい」
「いや、いいんだ、もう。ごめん」
力はソファに深く沈みこみ、もう何も考えたくない、というように両手で眉間のあたりを押さえました。
「寝室のさ」
力にしては小さい声でよく聞き取れませんでした。
「チェストの四段目の一番奥に」
「え、なんて?」
ナギサはお湯を注ぐ手を止めて身を乗り出します。
「そこ、見てきて欲しい。四段目の一番奥」
言われるがままに、ナギサは寝室に向かい、チェストの一番下の引き出しを開けました。薬の類とか、時計の空箱、眼鏡ケースなどが詰まっています。そこはほとんど使われることのない引き出しでした。かさばるものをひとつずつ外に出していき覗き込むと、最後に立方体の小箱が残っていました。そっと取り出して、箱の蓋を開けると、その箱の形状にふさわしい銀色の輪っかが収まっていました。
指輪のデザイン自体はよく見たことがあるものでした。力がいつも左の薬指に嵌めていた、少し太めの、縦にラインの入ったシルバーの。でも目の前のものは、同じデザインだけれど使った形跡のないピカピカの新しいのものでした。
咄嗟に、力の妻がどんな指輪を付けていたかを思い出そうとしました。白い静かな対話室で、あるいは、この寝室で。たしか、もっとシンプルなデザインだったと記憶しています。力と同じものをしていたら、もっとはっきりと覚えていたでしょう。ということは、力の結婚指輪は別にあるのでしょうか。
(これは誰のための指輪だろう。いつからここにあったのだろう)
ナギサの思考は、ひとつの結論を導き出します。力は結婚指輪を付けたままナギサに会いに来ていたわけではない。わざわざ別のものを付け直していたのだと。
「なんだよこれ」
ナギサは小箱を力の目の前にぐいと突き出しました。
「ばかじゃねーのこんなの買って、わかんねーよ、こんなの自己満足じゃん、伝わらねーよ全然っ」
次々と罵声が口から滑り出てきます。嗚咽で自分が何をしゃべっているのか、だんだんわからなくなってきました。するとそんなナギサを、力はふわりと抱きしめました。
ふいに顔を上げさせられて、力の手の平は大きいということを、ナギサは身をもって知りました。ナギサの小ぶりなほほを両手でおおってしまえるほどに。力の顔が近すぎて、ナギサは心臓がドキドキしました。でも逃げることはできません。さすような真剣なまなざしにいぬかれて、動くことができなかったのです。
「好きだ、愛してる。ずっと一緒にいて欲しい」
ずっとずっと言って欲しかった言葉に、ナギサは何度も頷いて、また泣きました。
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