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 吉郎が再び姿を現したのは、その日の夜のことだった。そろそろ寝ようと、穂波が戸締りのチェックをしている時である。  縁側のガラス戸の奥に、先ほど見たばかりの影が映っていた。  嬉しくなって、ガラス戸に鼻をつけて叫んだ。 「吉郎っ」  目の前のガラスが曇った。穂波は気にせず、戸を開ける。 「また来てくれたのね」  もうすっかり夜闇があたりを包んでいる。 それが理由だろうか。吉郎の琥珀の瞳だけが、やけに鋭く光って見えた。 「ちょ、ちょっと待ってね。今日の夕飯、豚丼だったの。お肉の余りがまだあるから、取って来るね」  吉郎はドッグフードを食べない。  それで、勿体ないけれどスーパーで買ったばかりの肉を、餌としてあげることにしたのだ。  まだいなくならないでね、と心の奥で祈りながらキッチンへ向かう。()く気持ちのまま、生肉を餌皿へ移し、足早に戻る。 「吉郎、ヨシロー? ごはんだよぉ」  縁側から、さっき吉郎が佇んでいたあたりを見渡す。暗闇に馴染んで分かりにくかったが、穂波が呼びかけると彼の動く気配がした。 「ああ良かった、まだ待っててくれたのね。ヨシロ……」  穂波の笑顔が凍りついた。  椿の木のそばの“イヌ”……よく見知っている吉郎。それが、耳障りな音とともに、形を変えていくのだ。  獣の四つ足は、5本指の手脚にーー。  柔らかな毛並みは、滑らかな肌にーー。  そして、鼻先の尖った顔は、人間の男のそれに変化した。 「え……。何これ、どういうこと」  裸の若い男が立っている。  吉郎じゃない……いや、少し前までは吉郎だったモノだ。 「よ……よし、よよ、吉郎が……っ!ヨシローが変態男になっちゃったぁ!」  穂波は手にしていた豚の細切れを落とした。 「騒ぐな。やかましいやつ」 「イヌがしゃべったぁ」 「イヌではない、オオカミだ。それに今はニンゲンだ」 「ちょっとストップ!こっちに来ないで! 待ってて」  穂波は気が動転していた。  動転しながらも、単身赴任で不在の父の、ジンベエを取りに走った。  イヌだとばかり思っていた神出鬼没の吉郎は、オオカミだった。  いや、ただのオオカミではない。  オオカミ男ーーすなわち人狼だったのだ。  それを知ってなお、どうして110番通報をしなかったのか。  咄嗟の行動に理由をつけるのは難しい。  あえて言うなら、彼が“吉郎”だったから。  オオカミと判明しても、ここ数日何度も話しかけ、微笑みかけた相手。  全く知らない人物という認識が薄かったのかもしれない。 (ひとまず何か着てもらわなきゃ話せない……!)  遅れて羞恥心が湧いてくるのを感じた。 「とにかくこれ着て! 父さんのジンベエ」  父の部屋着を、不審人物に投げつけた。  「それから」と畳みかけた穂波は混乱していた。 「お、オオカミのお兄さん、食べるなら豚肉がおすすめです。ちょっと落としちゃったけど……。とにかくあたしは美味しくないです」  祈るように両手を組んで懇願する。  え、人狼といえば、人喰いでしょう?小説とか映画とかでよくある設定だよね。15年の人生を振り返り、そこで培われたイメージを想起した。  穂波はまだ死にたくなかった。 「今度の鬼子姫(おにこひめ)はなかなか良い神経をしているようだな」  男はそう言って、投げつけられたジンベエを拾い上げた。喉の奥で笑いを(こら)えている。 「わたしはお前を食ったりしない。だが……わたしから奪ったものを返してもらおう」  落ち着いた低い、明瞭な声音。  こんな時にもかかわらず、穂波はその声を美しいと感じた。 「奪ったものって……?あたしは(なん)にもしてない」  これがオオカミ青年、吉郎との出会い。  そしてまだ序幕に過ぎない。  生と死をめぐる大きな輪の中で、彼らの物語が動き出そうとしていた。
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