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1-7
吉郎が再び姿を現したのは、その日の夜のことだった。そろそろ寝ようと、穂波が戸締りのチェックをしている時である。
縁側のガラス戸の奥に、先ほど見たばかりの影が映っていた。
嬉しくなって、ガラス戸に鼻をつけて叫んだ。
「吉郎っ」
目の前のガラスが曇った。穂波は気にせず、戸を開ける。
「また来てくれたのね」
もうすっかり夜闇があたりを包んでいる。
それが理由だろうか。吉郎の琥珀の瞳だけが、やけに鋭く光って見えた。
「ちょ、ちょっと待ってね。今日の夕飯、豚丼だったの。お肉の余りがまだあるから、取って来るね」
吉郎はドッグフードを食べない。
それで、勿体ないけれどスーパーで買ったばかりの肉を、餌としてあげることにしたのだ。
まだいなくならないでね、と心の奥で祈りながらキッチンへ向かう。急く気持ちのまま、生肉を餌皿へ移し、足早に戻る。
「吉郎、ヨシロー? ごはんだよぉ」
縁側から、さっき吉郎が佇んでいたあたりを見渡す。暗闇に馴染んで分かりにくかったが、穂波が呼びかけると彼の動く気配がした。
「ああ良かった、まだ待っててくれたのね。ヨシロ……」
穂波の笑顔が凍りついた。
椿の木のそばの“イヌ”……よく見知っている吉郎。それが、耳障りな音とともに、形を変えていくのだ。
獣の四つ足は、5本指の手脚にーー。
柔らかな毛並みは、滑らかな肌にーー。
そして、鼻先の尖った顔は、人間の男のそれに変化した。
「え……。何これ、どういうこと」
裸の若い男が立っている。
吉郎じゃない……いや、少し前までは吉郎だったモノだ。
「よ……よし、よよ、吉郎が……っ!ヨシローが変態男になっちゃったぁ!」
穂波は手にしていた豚の細切れを落とした。
「騒ぐな。やかましいやつ」
「イヌがしゃべったぁ」
「イヌではない、オオカミだ。それに今はニンゲンだ」
「ちょっとストップ!こっちに来ないで! 待ってて」
穂波は気が動転していた。
動転しながらも、単身赴任で不在の父の、ジンベエを取りに走った。
イヌだとばかり思っていた神出鬼没の吉郎は、オオカミだった。
いや、ただのオオカミではない。
オオカミ男ーーすなわち人狼だったのだ。
それを知ってなお、どうして110番通報をしなかったのか。
咄嗟の行動に理由をつけるのは難しい。
あえて言うなら、彼が“吉郎”だったから。
オオカミと判明しても、ここ数日何度も話しかけ、微笑みかけた相手。
全く知らない人物という認識が薄かったのかもしれない。
(ひとまず何か着てもらわなきゃ話せない……!)
遅れて羞恥心が湧いてくるのを感じた。
「とにかくこれ着て! 父さんのジンベエ」
父の部屋着を、不審人物に投げつけた。
「それから」と畳みかけた穂波は混乱していた。
「お、オオカミのお兄さん、食べるなら豚肉がおすすめです。ちょっと落としちゃったけど……。とにかくあたしは美味しくないです」
祈るように両手を組んで懇願する。
え、人狼といえば、人喰いでしょう?小説とか映画とかでよくある設定だよね。15年の人生を振り返り、そこで培われたイメージを想起した。
穂波はまだ死にたくなかった。
「今度の鬼子姫はなかなか良い神経をしているようだな」
男はそう言って、投げつけられたジンベエを拾い上げた。喉の奥で笑いを堪えている。
「わたしはお前を食ったりしない。だが……わたしから奪ったものを返してもらおう」
落ち着いた低い、明瞭な声音。
こんな時にもかかわらず、穂波はその声を美しいと感じた。
「奪ったものって……?あたしは何にもしてない」
これがオオカミ青年、吉郎との出会い。
そしてまだ序幕に過ぎない。
生と死をめぐる大きな輪の中で、彼らの物語が動き出そうとしていた。
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