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そこは奇妙な店だった。
店内には所狭しと背の高いラックが並び、様々なチラシが挟まれている。
人影のないカウンターでは一匹の猫が退屈そうに欠伸をしている。
それ以外には何もない。
どうやってここに来たかさえ思い出せない。
ここは何なの? どうして私はここにいるの?
私は状況を整理するため、少し記憶を遡ることにする。
私は学校から家へ帰る途中だった。
手の中にはくしゃくしゃになった模試の結果。
ろくな結果じゃなかった。
学校の先生も塾の先生も、口をそろえて『第一希望は変えた方が良い』と言ってきた。
重苦しい気分になる。今の希望校に未練があるとかじゃなくて、両親の反応が面倒くさいだろうことが容易に想像ができて。
きっと開口一番に模試の結果を報告しろとせっつかれて、がっかりして、私の努力が足りていないと責め立てるのだろう。
高校三年生にもなって危機感が足りていないとお説教されるのだ。
地獄に落ちろ、と思う。
私の苦労も辛さもわかってくれないくせに、叩く口だけは大きいのだ。
いいよね、大学になんて行ったことない人たちは。受験の大変さを味わったことがなくて。
私のためとか言っておいていい顔しておいて、実は自分が周りに大きな顔したいだけじゃないの?
ふつふつと湧く怒りを抑えながら、のろのろと歩く。
皆、いなくなってしまえばいいのに。
私を追い詰めて惨めな気持ちにしてくるもの全部が、きれいさっぱりこの世から姿を消してくれたらどれだけ快適になるだろう。
明日隕石が衝突して、地球が粉々になってくれないかな。
辺りはもう真っ暗だ。
頼りない街灯がぽつぽつと灯り、ほんのりと道を照らしている。
『ねえ知ってる?』
休み時間に聞こえてきた会話がふと再生された。
『この間SNSで流れてきたんだけれど、夜歩いてたら不思議なお店にいつの間にか入っていて、寿命と引き換えに天国を見せてくれたんだって!』
馬鹿馬鹿しい噂話をよくもあんなに誇らしげに話せたものだ。
今の私は海にいるウニにも等しい。
全方向何もかもにとげを突き立ててしまう。
何を思ったところで何も変わらないというのに。
空しい気持ちを抱えた、その時。
目の前が一瞬真っ白になる。
パァー!
と鋭いクラクションのような音が聞こえた次の瞬間、私はまぶしいほどに白い空間にいた。
「……え?」
私は思わず辺りを見回した。
さっきまで確かに暗い道を歩いていた、そのはずだ。
住宅街で近くにコンビニもなかった。
それに、様子がどう見てもコンビニとは思えなかった。
目に飛び込んでくるのは、背の高いラックばかりだ。
そのどれもにチラシや冊子があふれんばかりに詰め込まれている。
見たこともない景色や、怪物のような絵が描かれているものが多い。
興味半分、怖さ半分で奥に進んでいく。
すると、ぽつんと置かれたカウンターが姿を現した。
人の姿はない。
空っぽのカウンターの上には猫が一匹、すやすやと眠っている。
そして、今に至る、というわけだ。
恐る恐るカウンターに近づくけれど、猫は全然反応を見せない。
そこで、猫の正面に呼び出しベルが置かれているのが目に入った。
――何が起こるだろう。
『ご用の方はベルを鳴らしてください』という張り紙があるということは、これを鳴らせば『何か』は来るはずだ。
ここのことを聞けるかもしれない。
私は一瞬戸惑ったものの、ベルを押してみた。
リン、と高い音が一回聞こえた。
でも特に何も変わったことはない。
「あれ?」
もう一度押そうとベルに手を伸ばした、その時。
「いらっしゃいませ」
「う、うわっ?!」
背後からいきなり聞こえた声に驚いて飛び上がってしまった。
白髪をきれいにオールバックになでつけた初老の男性だった。笑っているけれど、どこか底が見えない気がして背筋をピリピリとしたものがはい上がる。
「どうぞおかけください」
男性に椅子を引かれて、とりあえず座ることにした。
「あの、ここはいったい」
私が言いかけたところで男性も向かいに腰を下ろした。
「ここですか? 見ての通りの旅行屋ですよ」
「旅行屋?」
「色々な旅のご提案をさせていただく店です」
そう言えば、前に家族旅行に行くときにお父さんが店で予約を取ってきた、とかなんとか言っていた気がする。
「私、ここに入った覚えがないんです。道を歩いていて急に周りが明るくなって、気が付いたらここにいて」
「ふむふむ、なるほど」
男性は頷きながら相槌を打つ。
「おそらくお客様は逢魔が時の境界を知らずに越えてしまったのでしょうね」
「え?」
おうまがとき? 境界? よくわからない単語が飛び出してきた。
「かみ砕いてご説明いたしますと、要するに生きているものの世界と死者の世界の間にあるこの店に条件がそろってしまったことによって入ってしまった、ということです」
「そんな……」
ただ道を歩いていただけなのに?
「ここに入ることができるようになる条件は二つ。一つは時間。逢魔が時と呼ばれる昼と夜の境目の時間であること。それからもう一つが願い。ここではないどこかに行きたいという願いがあること。これらがそろって初めてこの店に入ることができるのです」
「え、でも、私はどこかへ行きたいなんて思ってもみなかったです」
「本当に?」
男性が急にトーンを落とした。
ぞわりと背中を何かが駆け上っていく。
「今のまま変わらない生活をお望みでしたか? 何もかも今の状態が幸せでしたか?」
ごくり、と私の喉が鳴った。
「さあ、どうぞ。お客様のご要望をお聞かせください」
優しく、しかし強く促されると、私の口はゆっくりと開いた。
「……嫌な人が、私を苦しめる人がいない世界に行きたい、です」
震える声。しかし男性は一向に気にした様子もなく、にこりとほほ笑むと立ち上がり、カウンターを出て近くにあった一つのラックに近づく。
そこからチラシを一枚取り出すと、カウンターに戻ってきた。
「それでしたら、こちらの商品はいかがでしょう?」
男性が差し出してきたチラシには一言。
『白紙の世界へようこそ』
それしか書かれていない。他に説明文も絵も写真もない。
真っ白な紙に一言書かれているだけのシンプルなデザインだった。
「こちらのツアーでございましたら今ちょうど開催期間中ですので、お客様にはぴったりかと」
男性はにこにこと微笑みながら言った。
「……行きます」
知らず、私の口は言葉を発していた。
たくさんのものにうんざりして、疲れていた。そういうことなのだろう。
「かしこまりました」
男性はさらに一枚の紙を私の目の前に置いた。
「こちらが契約書になります。下の署名欄にサインをお願いいたします」
私は鞄から筆箱を取り出し、ボールペンを出すと、中身は読まずにさっさと署名した。
「ご契約、誠にありがとうございます。それでは間もなく出発になりますので、少々お待ちください」
「え?」
今からどうやって旅行に行くのだろう。お迎えが来るとか、だろうか?
と思ったら、ゆっくりと目の前の景色がまるで水の中に沈んだようにゆらゆらと揺れ始めた。
「え、何、これ?!」
何度目を擦っても治らない。
「落ち着いて、そのまま目をゆっくり閉じてください。じきに到着いたします……」
男性の声が遠くなっていく。
とりあえず言われた通りに目を閉じた。
「……」
何も聞こえない。
もう良いだろうか。
どんな世界が広がっているのか。
私はそっと目を開ける。
――そこは、自宅のリビングだった。
「あれ?」
私はソファに腰かけた状態で、周りの景色は特に変わったところはない。
勢いをつけてソファから立ち上がると、とりあえずドアを片っ端から開けていく。
家の中は静まり返っている。私の他に人の気配もない。
とりあえず自室に行ってみると、朝私が出て行く前の状態そのものだった。
「私、いつの間に帰ってきたんだろう?」
あの不思議な店のことは夢だったのだろうか。
両親もまだ帰っていないようだから珍しいこともあったものだ。
「まあ、いいか」
私はゲームでもして暇をつぶそうとスマホをカバンから取り出す。
「え?」
画面は真っ暗で、電源ボタンをいくら押しても電源は入らなかった。
「どういうこと? 電池切れた?」
とりあえず充電器につないでベッドに転がった。
思わずため息をついてしまう。
ずいぶんおかしな夢を見たものだ。昼間に聞いた都市伝説のせいだろうか。
私はよっぽど疲れていたらしい。そんな根も葉もない噂話に感化されるなんて。
「ちょっと寝とこう」
私は自嘲気味に笑って目を閉じた。
それからどれぐらい経っただろう。
「……遅いな」
いくら待っても両親が帰ってくる気配がない。
スマホの充電も一向に終わらない。
連絡をとろうにも連絡手段が断たれている今はどうしようもない。
私はスカートにしわが付くのもかまわずベッドでひたすらにごろごろしていたけれど、もう全然眠くない。
自室からキッチンへ向かうと、やっぱり誰もいなかった。
とりあえず何かつまむものでもないかと冷蔵庫を開ける。
「……え?」
冷蔵庫は空っぽだった。
そんなバカな。昨日お母さんが買い物に行っていたはずなのに。
改めてキッチンを見回すと、家電はあるけれど食材やお菓子など食べられそうなものは何もなかった。
「どういうこと……?」
なんだか急に部屋の空気が冷たくなった気がした。
「そうだ、時間! 今何時よ?!」
慌てて壁を見上げると、時計はある。
ただ、時間を指し示すことはなく、ずっとすべての針が無意味にぐるぐるとまわり続けるばかりだった。
「う、うあぁ?!」
おかしな声が口から滑り出した。
急にその場にいられなくなってバタバタと自室に戻る。
バタンとドアを閉めると、少しだけ安心した。
とにかく、これは現実の世界だとは思えない。
まだ私は夢を見ているの?
夢ならお願い、早く覚めて……!
必死で願うけれど、何も変わらない。
たまらず、家を飛び出した。
広がるのは見慣れた町。
だけど、家々には明かりこそ灯っているが人間がいる様子は全くなかった。
お店になら誰かいるかもと淡い期待で近くのコンビニまで走ったけれど、やっぱり誰もいない。
私はその場にへたり込んだ。
誰もいない、一人ぼっちの世界。
ああ、夢じゃなかった。
私は男性に言ったことを思い出す。
『嫌な人が、私を苦しめる人がいない世界に行きたい、です』
確かに誰も彼もにイライラして、地球が滅んでしまえとまで思った。
けれどいざそれが叶ったら、今度は不安と寂しさで私が死んでしまいそうだ。
「もう良い、もう十分だよ……」
よく身に染みた。誰も要らないなんてよく言えたものだ。
私は自分の事ばかりで、他人のことを何も考えていなかっただけだった。
どれだけたくさんの人に支えられてきたのか、まるでわかっていなかったのだ。
だけど今、いなくなったからこそわかる。
「こんな、こんな世界は嫌だ……!」
帰りたい、と心の底から願う。
すると、ぐにゃりと視界が不自然に歪んだ。
まるでここに来たときのように、景色がゆらゆらと揺らめいて遠くなる。
私は波間に漂うようにその感覚に身を任せた。
「お帰りなさいませ」
ふと、男性の声が聞こえた。
ゆっくりと目を開けると、私は白い空間にぽつりとあるカウンターに座っていた。
「帰って……きたの?」
「ええ、確かに」
男性はにこやかに言った。
「……何か良いことでもございましたか? 何だかすっきりとしたお顔つきをされておりますが」
「……はい。とても大切なことに気が付きました」
「それはそれは。良き旅路にご案内できて、旅行店冥利に尽きる、というやつですな」
ほっほっほ、と笑う男性。
「あ、お金……」
私は男性に一銭も払っていないことに気づいた。
「ああ、人間の通貨など私どもには不要でございますよ」
「え、じゃあ、何を――」
払えばいいのか、と言いかけたところで男性が口を開いた。
「お代はもういただきました。あなた様の寿命で」
その言葉に、ふと昼間の漏れ聞こえた会話がよみがえる。
『寿命と引き換えに天国を見せてくれたんだって!』
まさかあの言葉は本当だったのか。
「さて、そろそろお帰りのお時間でございますね」
男性の言葉で初めて自分に起こっている違和感に気が付いた。
「何これ! 透明になってる……!」
どんどん自分の手が薄く透き通っていく。
「ご安心を。ここに来る直前の場所に戻るだけでございます」
男性が言った。
「――あの!」
私は薄れゆく意識を必死にとどめて、別れの言葉を紡ぐ。
「ありがとう、ございました!」
きょとんと男性は不思議そうな顔をした後、満面の笑みになった。
「どうか、良き旅路を」
その言葉を最後に、私の目の前は真っ暗になった。
少女が完全に消えた後、男はようやく作り笑いを引っ込めた。
「若い女の子相手だからって仕事の対価を取らないのはいかがかナァ? 不平等じゃないかナァ?」
それに合わせるかのように、カウンターの上に陣取っていた猫が話しかけてきた。
先ほどまで胴の下に隠していた二股の尾をだらりと下げて、にやにやと笑っている。
「『取らなかった』のではなく、『取れなかった』のですよ」
男は静かに答えた。
「どういうことかニャ?」
猫が首を傾げる。
男は鼻で笑って言った。
「あの子供、もう一秒も寿命が残っていませんでしたから」
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