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唐突な口づけにも、彼女は驚いた素振りを見せなかった。ただ、静かに一歩、私から退いただけで。
慣れているのだろう、と思った。
こんなにもうつくしいひとだ。突然のキスくらい、動じる必要も感じないくらい慣れているのだろう。そう思うと、自分が惨めになった。
彼女は長いまつ毛を伏せたまま、少しだけ笑った。
「ココア、淹れてくるね。」
台所に入っていく彼女の腕を、本当は掴んで引き止めたかった。
それができないのは、彼女があまりに平然としていて、私のキスと、そこに絡まっていたはずの感情まで無にされてしまったから。
私はしずく型のクッションに腰を下ろし、じっと考えてた。
さっきのキスの意味を。私が彼女に寄せた感情を。なぜ今日ここに来てしまったのかを。
そのどれもが曖昧だった。ただ、来なければよかった、と、その気持だけは確かだった。来なければ、せめて今日この時間ではなかったら、私はあのボブカットの女を見ないですんだし、だとしたら彼女にキスをすることだってなかった。
「はい、どうぞ。」
台所から戻ってきた彼女が、私に白いマグカップを渡す。
私はそれに静かに従い、両手で暖かなカップを包み込んだ。
「飲んで……飲んで、そしたら帰ってね。今日は。」
自分の分のマグカップを持って立ったまま、彼女が言った。右の頬に、音もなく涙のしずくが伝った。
その涙を見て、私は首を横に振った。それは、辛うじての行為だった。彼女が泣いていなければ、私はすごすご家に帰るしかなかっただろう。
「帰って。」
「帰れない。」
「どうして。」
「あなたが泣いてるから。」
「泣いてなんか、ない。」
「嘘つき。」
「嘘じゃないわ。」
短い言葉の応酬の後、折れたのは彼女だった。熱いココアをすいと一息で飲み干した彼女は、マグカップを床に置き、空いた両手で私を抱いた。
私は、ココアがこぼれないように慎重にマグカップを支えながら、じっとしていた。
首筋に、彼女の熱い息がかかった。そして、一拍おいて暖かな涙が私の肩にぽつぽつと落ちる。
私は、愛理という女の白く尖った横顔を思い浮かべていた。
砂浜で伸びやかに踊っていた彼女を、こんなに小さく寂しくさせたひと。
怒りでも恨みでもなく、私が思ったのはただ嫉妬だった。その醜い感情が、私に彼女の肩を抱かせなかった。
ココアがすっかり冷めるまで、私はただ彼女の腕に抱かれ、その涙を肩口で受け止めていた。
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