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「もうこの家には来てはだめ。」
ひとしきり泣いた後、囁くように彼女が言った。耳に彼女の吐息がかかり、私はぴくりと身体が反応するのをなんとか抑えようとした。
「どうしてですか?」
問い返す声は、多分震えていた。
あっさり家を教えてくれた彼女。いつでも来ていいと言ってくれた彼女。それが、どうして。
しばらく無言の間があった。彼女はきっと、私を傷つけない言葉を探してくれていたのだと思う。どんな言葉であれ、私は彼女からの拒絶には耐えられないというのに。
いつからこんなに、このひとを好きになったのだろうか。
自分でも分からず、頭を抱えたい気分だった。これまで好きになった人も、交際した人も、みんな男だった。自分が女のひとを好きになるだなんて、考えたこともなかったのだ。
「……きっと、悲しい思いをすることになるわ。」
彼女がぽつんと言った。
私は彼女を見つめていた。
「砂浜で、会いましょう。この部屋では、もう会ってはいけない。」
次の言葉を口にするには、長い逡巡が必要だった。私は、あの女の名前を口にしたくはなかったのだ。
「あの、愛理っていうひとのことがあるからですか。」
問いかければ、彼女は強く瞼を閉じた。それは、随分と苦しげな表情だった。
彼女を苦しめたいわけではない。私があの愛理という女の代わりになれなことだって分かっている。それでも、嗜虐的な気分が止められなかった。
分かっている。この感情は、醜い嫉妬だ。
「……そうよ。」
彼女が喉の奥から掠れた声を引っ張り出す。
「愛理がこの部屋に来ることは、多分もうないけど、それでも、少しでも可能性があるなら、あなたをここに来させるべきじゃない。」
「それは、私が子供だからですか?」
私の声には絶望的な響きが含まれていたと思う。年齢のことはどうにもできない。私は彼女とあの女に比べて、どうしたって子供だ。
けれど、彼女は静かに首を横に振った。
「そうじゃない。」
なら、どうして。
問い返そうとした私の唇を、彼女の白くて長い指がそっと塞いだ。
彼女の目は、凪いだ海のように静かだった。
だから私は自覚せずにはいられなかった。
彼女が私を受け入れないのは、私が子供だからではない。もっと単純に、私が彼女に恋をしているからだ。
ココアが冷めたわね。
彼女が独り言のように呟いた。
「温め直してくるわ。だからね、それを飲んだら今日のことは忘れてね。」
無理だ、と思った。ココアにそんな勿忘草みたいな効果なんかない。それでも私は頷いた。そうしなくては、もう砂浜でも彼女に会えなくなってしまう気がして。
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