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愛理という女と私がはじめて会話をしたのは、桜も満開の春の盛りだった。
そのとき、私は困っていた。砂浜への道すがら、家の鍵を人差し指に引っ掛けてくるくる回しながら歩いていたら、鍵が飛んでいってしまったのだ。銀色の薄っぺらい鍵は、どこに行ってしまったのか見当もつかなかった。
なんて馬鹿なことをしたのだろうか。実質一人暮らしの家だ。鍵をなくしては家へ入ることができない。
自分の愚かさに閉口しながら、真下を向いて鍵を探しながらそのへんを歩いていると、前から歩いてきた人にぶつかりそうになった。白いブラウスのその人からは、うっとりするような甘い香りがした。
「すみません。」
一瞬その香りに気を取られていた私が焦って謝ると、目の前の女の人は、どうしたの? と問いかけてきた。
ごく親しい知り合いに対するみたいな口調だったので、驚いて顔をあげると、そこには愛理が立っていた。黒髪ボブと、漂白したみたいに白い肌。鋭利な外見に反して、その声は匂いと同じく甘かった。
「鈴花の友達だよね。なにか落としたの?」
鈴花の友達。
彼女の名前を初めて知った。そして、自分が愛理に存在を認識されていたことも。
私は鈴花さんの友達では多分なかった。恋人でもないし、そういうなにか特別な名前がつくような関係性を、そもそも築けてはいなかった。それでも私は、ぎこちなく頷いた。この甘い声で喋るきれいな女と、もう少し話してみたかったのだ。確かにこの女はうつくしい。けれど、それだけで鈴花さんがあそこまで恋に落ちるとは思えなかった。
「……家の鍵を……、」
「落としたのね?」
「……はい。」
「一人暮らしなの?」
「……はい。」
「探しましょう。」
「え?」
「探しましょう。」
ないと困るんでしょう? と、当たり前のことみたいに愛理は軽く首を傾げた。陽の光が彼女の黒い髪の上で、水晶の破片みたいにちらちらと踊る。
確かに、鍵がないと困る。
私はまた真下を向いて、鍵を探し始めた。その隣で、愛理も同じように下を向いた。
しばらく二人してあちらこちらを探し回っていたのだが、不意に愛理が声を上げた。
「あったわ。」
私は大急ぎで愛理の傍らへ駆け寄った。すると、彼女が指差す道の側溝の中に、鈍い銀色に光る鍵が横たわっているのが見えた。
よかった、と安堵するのは一瞬。側溝には銀色の網目状の蓋がされており、その隙間から指を突っ込んだくらいで、鍵に手は届きそうになかった。
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