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ココアを飲み終わった私は、もう帰ります、と言葉を絞り出した。
これ以上彼女のそばにいるのが、怖かった。自分でも思いもしないところに感情と行動が動いていってしまいそうで。
「もう帰っちゃうの?」
彼女は、まだ半分くらい中身の入ったマグカップを両手でくるむように持ったまま、残念そうに言った。
私は素直に嬉しかった。まだ帰らないで、と言われているみたいで。
だから、言葉は自然に出てきた。
「また来てもいいですか?」
すると彼女は、ぱあっと表情を明るくした。それは、端から見てもあからさまな表情の変化で、私はもっと嬉しくなる。
けれども、その自分の嬉しさが不安だった。このきれいな女の人に、私はどんな感情を寄せているのだろうかと。
恋だと、本当は分かっていた。けれど、認めるのが怖かった。
「いつでも来て。」
彼女はにこにこ笑いながらそう言ってくれた。
「砂浜にいないときは、いつでもここにいるから。」
ありがとうございます、と、私は頭を下げた。そして、そのまま立ち上がる。
玄関まで、彼女は私を見送ってくれた。
「また来てね。」
屈託のない彼女の言葉を訊くと、罪悪感が芽生えた。
下心を持っているのは、私だけだ。
彼女の視線を振り切るように、足早に私は住宅街を進んだ。彼女の家から私の家までは、歩いてほんの三分だ。
その短い時間では頭が冷えないから、私は住宅街をぐるぐると無意味に遠回りして歩いた。
家には誰もいない。私を待っている人はいない。だからいくら遠回りして歩いていたって、誰が心配してくれるわけでもない。
有に三十分は住宅街をうろつきまわったと思う。体中の熱がすっかり冷めた頃、私はようやく自分の家のドアを開けた。
ただいま。
唇だけで呟いてみる。
単身赴任の父親も、男に狂った母親も、すっかりグレた妹も、誰もいない暗い家。
玄関の鍵をかけ、正面の階段を上る。右手が私の部屋で、左手が妹の部屋だ。妹は中学生の頃からグレはじめ、今では滅多に家に帰ってこない。
父親は単身赴任で全国を飛び回っているし、母親は男を作って家を出ていってしまい、妹以上にこの家には寄り付かない。父親と母親の間でどんな話し合いが持たれたのか、それとも持たれていないのか知らないが、少なくとも離婚には至っていないらしい。もしかしたら、私の知らないうちに離婚まで話が進んでいるのかもしれないけれど。
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