ココアの効力

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 どうしたんですか。  その一言が言えなかった。  見ず知らずの人だってそう問いかけるであろう、見るからに尋常ではない状況の彼女に、それでも。  彼女ははっとしたように私を見つめ、慌てた仕草で髪を整えた。  「いらっしゃい。」  彼女の声は、震えていた。  「どうも。」  私の声だって、多分震えていた。  「入って。」  彼女の華奢な腕が、私を部屋の中へ招き入れようとした。   私はそれを拒み、ドアを閉めようとした。せめて服をちゃんと着てほしくて。  けれど彼女は頑なで、私の腕をきつく掴んだ。  「帰らないで。」  その声もまだ、震えをはらんでいた。  「帰らないですけど、服を着てきてください。」  私は辛うじてそう言って、彼女の肩をそっと室内へ押し込んだ。  白いニットに包まれた痩せた肩は、これがあの伸びやかに力強く踊っていた女の肩か、と疑問に思うほど、頼りなく柔らかかった。  彼女はそこでようやく、自分が尋常ではない格好をしていると我に返ったらしい。  ごめんね、と彼女は焦った口ぶりでいい、くるりと背を向けて室内へ戻っていった。私は開けっ放しにされたドアを、音がならないようにそっと閉めて、彼女が着替えるのを待った。  部屋に引っこむ彼女の肩越しに見た室内では、パッチワークの布団がかかったベッドが、盛大に乱れていた。  私は、それがなにを意味するのか考えないように、思考をなんとか停止させた。  それでも、ついさっき見たきれいな女の尖った横顔が、どうしても頭を離れなかった。  愛理と呼ばれた女。全く振り返る素振りも見せずに去っていった女。  「ごめんね。入って。」  彼女がすぐにまたドアを開けた。半ば無意識に確認すると、ベッドの乱れは完全に直されていた。  だからこそ、余計に浮かび上がるのは、さっきの女の横顔だ。  誰ですか、さっきのひと。  問いかけられないまま、私は彼女の背中に続いて、青いアパートの一室に足を踏み入れる。  女の匂いがする。  そんなことを思った。   彼女は女で、私も女だ。だから部屋に女の匂いがあっても当たり前なのに、そうは思えなくて、この強い女の匂いは、彼女とさっきの女の匂いが撚り合わさったものとしか考えられなかった。  水色のしずくの形をしたクッションを私に勧めながら、彼女はほんの少しだけ眉根を寄せるようにして微笑んだ。  「ココア、淹れるわね。」  その微笑は、微笑には見えなかった。もっと、悲しくて優しい表情に見えた。だから私は、衝動的に彼女の腕を引いていた。  引かれるままに、素直に一歩私に近づいた彼女。少し背の高い彼女の唇に、軽く背伸びをして自分のそれを押し付けた。  
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