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「――ちょっとあんた、うちの犬に何してんだい!」
がつりと全身に衝撃が走って、俺の身体は床に転がり落ちた。駅前の商店にいる俺の飼い主(公称)のおばちゃんが、駅の異変に気付いたらしい。五十代の小太りのおばちゃんが、北海道民の冬の必須アイテム・ツルハシを持って駅の入口で仁王立ちしている。
「シロ!大丈夫かい!怪我はないかい!」
おばちゃん、俺は駅の犬であって、あんたの家の犬ではないぞ。それにそのツルハシ、雪が溶けたらもう使わないのにまだ仕舞ってなかったのかよ。
いやそんなことより何より、おばちゃん、こいつは完全にいっちゃってる人間だ。立ち向かうより先に警察を呼んでくれ。
伝えたいことは色々あるのだが、忌々しいことに犬の声帯は人語を話すようにできていない。俺があわあわ言っているうちに、不審者が振り上げた鉄パイプがおばちゃんの肩を直撃した。
ツルハシが床に落ちる。太い丸太が倒れるように、おばちゃんの身体が横倒しになった。不審者がその上に馬乗りになって、犬の俺ではなく、今度はおばちゃんの首を締め上げ出した。
――これはまずい。本気でまずい。
助けを呼びに走らなければと立ち上がって、俺はギャンと呻いてその場にうずくまった。
そういや、足を折られていたんだっけか。犬の足は四本あるので一本折れただけなら走れるのだが、落下した時に後ろ足も捻ったらしい。前足一本と後ろ足一本では立ち上がって走ることができない。
こうなればもう背に腹は代えられない。仕方ないので開け放たれた駅の入口に向けて、俺は吠えた。本当に久しぶりに腹の底から吠えまくった。愚かな人間どもは、どうせ犬っころの無駄吠えだと思って無視することだろう。だけど誰か一人でいい。この町のたった一人でいいから、普段は吠えない駅長犬が狂ったように吠えている異常を察知してはくれないだろうか。
ずっと息継ぎしないで吠え続けたので、酸欠で頭が痛くなってきた。永遠とも思える時間、だが実際わずかの時間であったのかもしれない。気づいた時、駅前広場に複数の人の声がして、大勢の人が駅になだれ込んできた。
「無事か駅長!」
「おい、お前、俺たちの駅に何してるんだ!」
「みんな来い、駅を守るんだ!」
駅前で食堂を営んでいる大将は手に出刃包丁を持っていて、三軒隣のスナックのマスターは猟銃を構えている。おばちゃんに馬乗りになった不審者は彼らに引き剥がされて、駅裏の燃料店のおっちゃんに仰向けに押し倒されていた。誰かが警察を呼んだらしい。パトカーのサイレンの音が国道方面から近づいてくる。
――俺たちの駅と彼らは言った。
町民の多くはマイカーを自分の足として使っているので、普段、鉄道を利用していない。だけどそんな人達の心にも、この駅を自分たちの駅だと思う気持ちがあったのか。誰も乗らず誰も降りずの空気輸送であったとしても、そこの駅があり、鉄道が走っているというだけで、目に見えない何かを運んでいたのだろうか。
いつしか俺の中にも、そうであればすごく嬉しい……と感じる鉄道マンの魂が芽生えていたらしい。だけど目に見えない何かはやっぱり目には見えないので、できればもっとみんなに乗って欲しい。いつ潰れるか知れないローカル線ではあるけれど、かなうことなら犬生の最後まで、ずっとこの駅で駅長犬として生きて行きたい。
そんな思考を最後に、俺は意識を失っていた。
結局、犯人は無事に警察に掴まった。
バーバパパ運転士が教えてくれたところによると、俺を傷つけただけならただの器物破損で済んだのに、おばちゃんに手を出したことによって殺人未遂という立派な罪が加わった。威力業務妨害・器物破損・殺人未遂ともなれば、なかなか重たい罪になりそうとのことで、その件に関しては心の底からザマアミロと思う。
俺は遠軽町の動物クリニックに一カ月ほど入院した。おばちゃんは肩の骨を折る重傷だったが命に別状はなく、俺より二カ月遅れて中湧別に帰ってきて商店を再開している。
今回の駅長犬襲撃事件は全国紙でも取り上げられたし、ワイドショーや夕方情報番組の取材も受けた。オホーツク鉄道は俺の入院中に社をあげて駅長犬グッズを作成し、ネット販売した日には、即日売り切れだったとか。
本業の鉄道事業についてもこの夏、俺目当ての乗降客が格段に増えて、夏休みシーズンには何と臨時列車まで出た。このことのよってほんの少しくらいは、オホーツク鉄道の収支に改善の兆しがあって――くれることを切に願っている。
もっとも人の噂も七十五日というだけあって、襲撃騒動が過去のものとなり、北海道が再び秋の気配を感じる頃には、観光客もほとんどいなくなった。そして今、中湧別駅を発車していった十五時十九分発の紋別之普通列車は、いつものように誰も降りず誰も乗らない。
ぬくぬくと暖かい秋の陽射しを浴びながら、駅長犬である俺は今日もまた、この駅でオホーツク鉄道が空気輸送にいそしむ毎日を見守っている。
――いつの日か、この愛すべき地方ローカル鉄道が廃線となるその日まで。
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