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「――このクソ犬が!」
呂律の回らない口調。手には鉄パイプのような金属製の棒。最終列車が行った後の中湧別駅にやってきた人間は、どこからどう見ても立派な不審者だった。
「何が駅長犬だ!犬のくせに人間様より目立ってんじゃねぇよ!」
ベロンベロンに酔っている口調だが、酒の匂いは発していない。ものすごい勢いで鉄パイプを振り回したので、駅のベンチが跳ね飛ばされて床の上に転がった。素面でやっているのだとしたら、感心するほどの暴れようだ。
中湧別駅はこれでも一応駅なので、無人券売機の近くに防犯カメラは設置してある。だが都会のように二十四時間誰かが見ていて、異常があれば警備員が飛んでくるシステムなどあろうはずもない。
俺はいつでも不審者に跳びかかれるように、身体を低くして牙を剥きだしにした。
人間はすっかり忘れているようだが、もともと身体能力において、人間ごときが我々犬に勝てるはずはない。老犬の領域に片足を突っ込んだ俺の牙は今でも鹿の骨を噛み砕けるし、本気で走れば人間よりずっと速い。まずはあの腕をヒトカミして鉄パイプを取り落させるか――それともいっそ喉元に食らいついて息の根を止めてやろうか。
昔、山奥を一匹で放浪していた野犬時代を思い出し、久しぶりに全身の血が沸き立つ。時にヒグマと戦う北海道犬の本気の唸りを目の当たりにした瞬間、不審者はにやりと口の端を持ち上げた。
「へえっ、やる気かよお前。いいぞ、俺に噛みついてみろ。駅長犬は人間を襲う猛犬だってネットに書きこんでやる。爆弾に置石に猛犬――こんなクソ田舎の鉄道なんか終わりだろうな」
俺も駅長犬として人間にちやほやされて、随分やきが回っていたらしい。それともこのおんぼろ駅に愛着でも沸いたのか。ほんの一瞬――だが確かにひるんだ隙を敵は見逃さなかった。振り下ろされた鉄の棒を寸前で避けきれず、前脚を強かに打ち据えられる。脚の骨が折れたのかもしれない。身の内で何かがごきっ割れる音がして、喉からキャンと甲高い音が漏れた。
「犬ごときが生意気なんだよ。何だってお前みたいな雑種がテレビに出てるんだ。謝れ、犬なら犬らしく這いつくばって、腹でも見せろ」
首輪を掴んで力ずくで持ち上げられる。人であれ犬であれ、首が急所であることには違いがない。このまま絞め殺すつもりなのだろうか。呼吸ができずに頭に霞がかかってくる。すぐ間近にある男の顔はまだ二十代か三十代くらいと若いのに、随分と醜く歪んでいた。顔かたちの問題ではなく澱んで歪んだ魂の質が、表情になって浮かび上がっているのだ。
「――潰れちまえ、こんな駅。死んでしまえ、駅長犬!」
そうか。この男がここ最近、オホーツク鉄道に対する嫌がらせを行っていた犯人なのか。
俺も最近、人間達の間で列車内に火を放ったり、無差別に刃物を振り回したりすることが流行していることは把握していた。しかしその流行が、まさかこんなど田舎ローカル鉄道にまでやってくるは思っていなかった。
しかもその動機が――犬の俺に対する嫉妬なのか。
俺もそれなりに長く生きてきたので、人間が道端に落ちている石ころにも嫉妬する生物であることは知っている。きっといつか、この前頭葉だけ異様に発達した猿の末裔は、肥大し過ぎた己の自尊心に食われて絶滅するのだろう。
人間は死の間際に、それまでの人生を走馬燈のように振り返るという。俺は断じて人間ではないが、この時俺の脳裏にも、思い出したくもないこれまでの犬生すべてが甦っていた。
道北の北海道犬ブリーダーの家に生まれた俺は生後二か月の時、人間様のご家庭に引き取られた。
その家には父親と母親と小学生の少年の三人が暮らしていて、俺の役割は少年の弟になることだった。
――ほら、お前の弟だ。うちの次男坊だぞ。
――うん、ぼくお兄ちゃんになる!
――可愛いわね。これから、あたなはうちの子どもよ。よろしくね。
少年が小学校の野球チームに所属していたので、俺も一緒に陽が暮れるまで、公園や空き地でキャッチボールを楽しんだ。彼の身体がどんどん大きくなるにつれて、ボールを投げる距離もどんどん遠くなって行く。そのことを我が事のように嬉しくも誇らしくも感じていた。
忘れもしない。あれは一緒に暮らしだして八年目の秋のことだ。父親の転勤が決まって、一家が揃って住んでいた家を引っ越すことになった。今度の家は都会のマンションとやらで、高層階なのでとても眺めがいいらしい。嬉しそうに荷造りをする人達が俺の寝床や食器をゴミ袋に入れているのを見た時、俺は向こうについたら、新しいものを買ってくれるのだと思った。俺も一緒にその都会のマンションとやらで暮らすのだと信じて疑っていなかったのだから――おめでたいものだった。
引っ越しの当日、俺を乗せた一家の車は山道のはずれで不意に停車した。
中学生となって随分体の大きくなった少年は、道の向こうに向けて思い切りボールを投げた。彼が「取って来い」と言ったので俺はその方角に向けて全速力で駆け出した。ボールを遊びは俺達の大切なコミュニケーションだ。ボールを持って帰ってきたら、家族はいつも満面の笑みで頭を撫でてくれるから、俺はその遊びが大好きだった。
坂道を転がるボールに追いついて、俺が道を引き返した時、エンジンの音がした。
いつの間にか、車から出ていたはずの人間達が全員、車の中に乗り込んでいる。俺以外の家族全員を乗せて、車は無情にも山道を発車していた。
ボールを口にくわえたまま、俺は全速力で追いかけた。この時はまだ、停まってくれると信じていた。きっと都会に着いたら俺が運動不足になるだろうと思って、最後に思い切り走らせてくれたのだ。きっとあともう少し走ればあの車は停まって、「いっぱい走ったね、楽しかったかい」と言って頭を撫でてくれるとのだと信じていた。
だけど走っても走っても、家族が乗った車は停まってくれることはなかった。
捨てられたのだと悟った時、俺の口から少年が投げた野球のボールがぽとりと落ちて、そのままコロコロ転がって見えなくなった。
――家族だって言ったのに。
――兄弟だって言っていたのに。
結局、そう思っていたのは俺だけだったのだと思い知ってから、俺は人間をまったく信用しなくなった。しばらく野犬をした後で保健所入りした俺は「無駄吠えしない」特性を飼われて中湧別駅の駅長犬となった。無駄吠えしないのではなく、単に人間に期待していないだけだったのだが、犬生、何が幸いするか知れたものではない。
しかしまさかその駅長犬生を人間様に疎まれて、絞められ殺される羽目になろうとは――
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