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 午前十一時〇三分、遠軽行の上り普通列車はいつも通り、誰も降りず誰も乗らなかった。ローカル鉄道名物、空気輸送のお時間である。  しかし十一時二十六分、紋別行の下り列車には、めずらしく乗降客があった。  一応、駅長犬として飯をもらっている身なので、乗降客があれば出迎えたり見送ったり頭を撫でられたりする仕事がある。夏休み期間や連休中には、たまに俺目当ての観光客もやって来る。  俺がホームに出てもその客は俺には見向きもしなかった。JR北海道からお下がりのキハ40乗降口で、運転士のバーバパパ(JRからの出向・四十代バツイチ・犬好き酒好きメタボ体系・あだ名の由来がわからん奴は検索してくれ)と何やらもめている。どうやら遠軽駅でオホーツク鉄道の切符を買っておらず、途中駅で整理券も取っておらず、小銭の持ち合わせもなく、運賃が支払えないらしい。  おいおいおい。  俺は内心だけではなく実際に小首を傾げた。  ワンマン列車の乗り降りの仕方を知らないだと?  誰も乗らず誰も降りず、他に乗客がいなくとも鉄道には時間通りに運行する義務がある。結局、バーバパパ運転士が自身の財布から万札を両替して事なきを得たらしい。すったもんだ五分遅れで、ようやく運賃を支払った客がキハ40から中湧別駅のホームに降り立った。  黒いスカート。黒いジャケット。黒い靴に黒いカバンに今時珍しいほど真っ黒な髪をひっつめ髪にした若い女性。  ――葬式かいな。  内心で思いっきり突っ込んだが、俺もかれこれ十年以上生きてきて、人間様の葬式ルックの見分け方は知っている。葬式ならストッキングの色も黒いはずだが、彼女のストッキングはベージュだ。つまりこれは面接仕立て――就活ルックというやつですな。  犬の俺だってこうして日々働いているのだから、人間達が日々労働に精を出すのはわかる。職を――食を得る為には、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ必要があることも想像がつく。  だがどうしてその職をもらいに行く時が黒装束なのかね?と思うのは俺が生まれた時から毛皮を着ている所為なのだろうか。  その黒装束の女忍者――ではなかった女性はホームに降り立って、不安そうに辺りを一瞥した。ワンマン列車の折り方を知らなかったくらいだから、都会の人間、多分、札幌や旭川辺りから就職活動の為にやって来たのだろう。  どんな人間であれ運賃を支払ってくれたのだから、大事なお客様に違いない。ようこそ中湧別へ。遠軽や紋別に行く時には車ではなくぜひ鉄道を使ってくれ。  そこまで考えて、はた、と思考が行き詰った。  この町に、都会から就職活動にやって来るような会社なんかあったっけか?  あるわけがない。考えるまでもなく一秒で答が出た。そんなものがあったら一応は本線でJRになった後も数年は生き残っていたのに、部分廃止されて第三セクターに下げ渡されるわけがない。  案の定、若い女就活生は駅構内を見渡した後、ちらりと俺の顔を見て、それからがくりと項垂れた。犬の俺に興味がない――というよりは自分自身の心配ごとで頭がいっぱいになっているのだろう。黒いカバンから黒いスマホを取り出した後、途方に暮れた顔をして誰もいない改札口を通り抜ける。こんな駅でも駅は駅なので壁には紋別方面(下り)・遠軽方面(上り)の時刻表がある。壁の時刻表とスマホの画面を交互に見やって、しみじみと嘆息する。まるで魂の芯まで吐き出そうと言わんばかりの深い深いため息だった。  ワンマン列車の乗り降りの仕方を知らない、全身黒装束の就活女。疑うまでもない。彼女は乗るべき列車と降りるべき駅を間違えたのだ。彼女が向かうべき――職を得るべく向かう先はこの場所ではなかった。  客が俺に興味を示さない場合、俺は無理に深追いをせず、さっさと寝床に戻ることに決めている。  だからこの時も尻尾も振らなければわんともいわず、寝床と定められた待合室の一角に戻ってベンチと壁の間に隠してあるブツを引っ張りだした。ブツのタイトルは「交通新聞社の北海道時刻表」定価税込み五百十四円。ありがたいことにJR北海道の時刻だけではなく、我らがオホーツク鉄道とちほく高原鉄道と道南いさりび鉄道の時刻も掲載されている。  先ほど三分遅れで発車した紋別行普通列車は、十時五十六分に遠軽駅の四番線を発車している。その十分前の十時四十六分に旭川発網走行の特急大雪一号が遠軽駅に到着する為、乗り換え客を見越して作成されたダイヤだ。しかし俺はこれまで平日の日中に、この普通列車に乗り換えて紋別方面を目指す乗客に出会ったことはない(盆暮れの帰省シーズンには多少いる)  ぺらぺらの紙を鼻先と鼻息でふんふんとめくりながら(なかなか高度な熟練の技だ。鼻息だけで目的のページを開けるようになるまで半月はかかった)、俺は女就活生の決定的な間違いを悟った。オホーツク鉄道と同じようの特急客の乗り換えの為なのだろう。奇しくもまったく同じ時刻、十時五十六分にJR石北本線の北見行普通列車が遠軽駅の二番線を発車している。  間違いない。彼女が乗りたかったのはこの列車だ。そして同時に誤ってこの駅に降りたった彼女の幸運を悟る。日中のダイヤが超閑散としているオホーツク鉄道ではあるが、十一時台にはもう一本、十一時四十一分発中湧別発遠軽行の上り普通列車が運行しており、この列車は十二時七分遠軽発のJR北海道石北本線快速きたみに接続している。彼女の目的地がどこなのかはわからないが、一時間遅れで北見方面に向かうことはできるわけだ。  俺が「交通新聞社の北海道時刻表」定価税込み五百十四円と共に足元にやって来るまで、女就活生は俺の存在をしかと認識していなかったようだ。就活には不要ではないと言いたいくらいばっちりマスカラを決めた目で俺を見た後、床に置いた時刻表を見つめてさらに目を見開く。取り立てて美人でも可愛い子ちゃんでもないが、その仕草は純朴で可愛らしかった。 「えっ……?」  見つめ合うこと数分、十一時四十一分発の遠軽行きが、汽笛を鳴らして滑り込んで来る。その三分後には彼女の姿は乗客として普通列車の中にあった。もちろん、彼女の他に乗客は一人もいない。  午前十一時四十一分、遠軽行の普通列車が定刻通りに発車する。十一時台、乗降客一名。鉄路を去って行くキハ40を見送りながら、俺は俺の頭の中の駅長日記に今日の乗降客数をカウントする。  しかし、たまたま同時刻に別方面に向かう列車が存在していたとはいえ(遠軽駅ではこの一本だけしかない)東京や札幌のように幾多にも鉄道会社が乗り合わせているわけでも、複雑怪奇なダイヤが組まれているわけでもない。こんな初歩的な乗り換えさえミスする若者が生き馬の目を抜く(らしい)人間社会でこの先やって行けるのかね?  もちろん、犬の俺の他に誰もいない駅に答えてくれる相手はいない。そしてこの後、俺がこの女就活生に出会うことは二度となかった。    この話には後日談がある。  謎の女忍者――もとい女就活生が中湧別駅の乗降客となって数か月後、オホーツク鉄道中湧別駅あてに鹿肉ジャーキーのお届けものが届いたのだ。  中湧別駅は駅員も売店もないが厳密にいうと無人駅ではない。  駅前の商店の女主人に冬場の暖房管理や駅舎清掃を委託している為、鉄道用語では簡易委託駅というのだそうだ。六十代前半くらいの小太りのおばちゃんで、一応、俺は彼女の飼い犬として畜犬登録されている。もっとも、日に一回、ドックフードをもらって散歩に連れ出されるだけの関係で俺は彼女に服従していないし、彼女も俺に情を持ってはいないだろう。  駅があるから彼女の商店(わずかばかりの飲食物や文具を売っている)は成り立ち、俺はその駅の存続に少なからず貢献している。  おばちゃんにはかつては夫も子どももあったらしいが、今現在は一人暮らしだ。この中湧別駅の管理人に収まるまでの間に彼女の身に何があったのか、俺は興味もないし知りたいとも思わない。  何はともあれ、中湧別駅あての郵便物は彼女が受け取ることになる。そして一人暮らして夫も子どもも犬もないおばちゃんは届いた鹿肉ジャーキーをすぐに俺のところに持ってきた。  封を開けた鹿肉ジャーキーを貪る俺を眺めながら、おばちゃんは首を傾げる。 「駅長のおかげで無事に就職が決まりましたって、お礼状もついていたんだよ。シロ、あんた何をしたの?」  ――駅長の務めを果たしただけさ。  無論、俺の返答はおばちゃんには届かない。鹿肉ジャーキーはとてもとても美味だった。
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