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 白くて大きな月が、驚くほど低い位置にぽっかりと浮かんでいる。  中湧別はかつての国鉄の分岐点であり、寒印乳業の大きな工場もあった為、かなり栄えた町であったと聞いている。  その二つを失くした今、町は緩やかな滅びの道を突き進んでいる。それはこの町だけの話ではない。北海道――いや、日本全国の多くの自治体が同じような滅びの道を転がっていると言っても過言ではないのだろう。  佐竹さんの家は駅からそう遠くない住宅街の一角にある。中湧別の最終列車もとうに行ってしまい、人間様の多くが寝静まった夜更け、それほど大きくもなければ小さくもない北海道の典型的な一軒家の前で、俺は四本の足を止めた。  ――え?何故、俺が夜に一人(一匹)で出歩いているのかって?  それは無論、昼に歩けば通報されてしまうからに決まっている。人間は猫や鹿や狐が道を歩いていてもまったく何にも言わないくせに、犬にだけは頑なに自由に道を歩く権利を認めない。札幌では陽のある日中時間帯に熊が住宅街を歩くこともあるらしいので、時代は変わりつつあるのかもしれないが、いらぬ騒ぎを起こさない為にも、俺は駅を抜け出して町を歩くのは夜中だけと決めている。  俺が佐竹家を訪れたところで、インターホンを押して中に入れてもらって、少年の位牌に線香をあげることなどできはしない。だがどうしてもあの少年の死だけは、近くで悼みたいような気がしたのだ。彼の家の前で冥福を祈って帰るつもりだった俺は、佐竹家の庭先に乱雑に積み上げられた数々の物品を見て、思わず歩みを止めた。  遠軽青凌の文字が入った青いスポーツバック。スパイクに金属バッドに外野手用の革のグラブ。  そういえば悠平少年の父は息子の死に憤って、野球部を潰してやると騒いでいるのだったか。どうやら彼は今、野球にまつわる何かを見るのも嫌なほど、乱心しているらしい。  ――人間は我が身に振りかかった悲劇をいつも誰かの所為にしたがる。  少年の死は純然たる悲劇だが、硬式野球というスポーツを行う以上、誰の身にも起こりうる事故である。大会期間中に紅白戦を行った野球部にも、ピッチャーライナーを打ったチームメイトにも、すぐに救急車を呼んだ監督にも顧問にも罪はない。  あまり大きな声で語られることはないが、この世には、誰もが最善を尽くしても結果が最悪になることがある。誰が悪いわけでも何が悪い訳でもない。ただ純然なる運によって運命が決まる。猿から進化する過程において、人間は生き物誰もが本能的に知っている自然の摂理を忘れてしまったのだろう。  少年は野球を――自分の所属する野球部を大切にしていた。それこそ、犬の俺相手に背番号を見せびらかして喜びを爆発させるほどに。そして今、少年を大切に想っていたのだろう彼の親は、彼の大切にしていたものを踏み躙ろうとしている。  いや、世の中とはそういうものなのか。人が――いや、人に限らず生き物が死ぬということは、その者が大切にしていた物が、誰からも見むきされなくなるということなのだろうか。  柄にもない物思いに浸っていた俺は、踵を返してその場を後にした。その俺の足元に何かが転がってくる。風のイタズラかそれとも何かに導かれたのか。コロコロと転がってきたその物体を口にくわえてしまったのは――俺の中にある犬としての本能であったのかもしれない。  数日後、通学生も有閑マダムもやってこない午後三時台の中湧別駅に、一人のご婦人がやってきた。大きなカバンを手に持っているところを見ると、十五時十九分の遠軽行に乗るつもりらしい。この列車は遠軽駅で特急オホーツクと接続しているから、行く先は旭川か札幌だろう。  湧別町の現役世代において、交通手段とは自動車である。一家に一台――いや、一人に一台が当たり前で、大口顧客の高校生も受験や就活が終わると同時に自動車学校に通う。だからとても犬好きらしいそのご婦人が駅を利用するところを、俺はこれまで見たことがなかった。 「シロ、いつも悠平と仲良くしてくれてありがとうね。あの子、犬を飼いたがってたんだけど、お父さんが許してくれなくて。……せめて甲子園の夢だけは応援してあげたかったんだけどねぇ」  四十代と思しきご婦人は、亡くなった悠平少年と非常によく似た顔立ちをしていた。恐らく母親なのだろう。駅に入るなり俺の許に駆け寄って、俺の頭や喉を撫でまわす手つきには明らかに血のつながりが感じられた。  多分、きちんと髪を整えて化粧をしたならば、とても高校生の息子がいるとは見えない……と言われたのではないだろうか。今、化粧気のない頬は毛羽立ったように荒れていて、ひっつめた髪には白髪が目立つ。昨日まで元気に野球をしていた息子が突然帰らぬ人となってしまったのだから無理もない。人生も犬生もある日突然、何の前触れもなく壊れるものであることは、俺自身が、経験としてよく知っている。  ひとしきり俺を撫でまわした後、彼女は狭い駅をぐるりと見回した。 「懐かしい。わたしも高校生の頃はこの駅から学校に通ってたのよ。……この駅に来るのも今日が最後かしらねね」  そういえば有閑マダム達が、少年の父は学校と野球部を訴えると息巻いていて、母親は必死で止めていると言っていた。少年の死が夫婦仲にも影を落として――母親が家を出ようとしているといったところか。  突然俺がその場にすっくと立ちあがったので、ご婦人は俺を撫でる手を止めた。ご婦人の脇をすり抜けて、寝床の毛布の下からあるものをくわえて持ってくる。その物体を鼻先で押しやると、彼女の目がとても大きく見開かれた。 「それは……」  あの日、俺の足元に転がってきたもの。それは薄汚れた硬式野球のボールだった。野球部で処分する練習球を一つもらってきたのかもしれない。恐らく少年の直筆なのだろう、黒いマジックで――  ――行くぞ!甲子園!  少年の願いが刻まれていた。
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