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更々と砂時計の砂の落ちる音が聞こえた様な気がして、彼は目を醒ました。
狭い部屋の内は昏くて、酷く寒い……薄い煎餅蒲団だけでは寒さは防げず、搔き集めた着替や外套までも蒲団に重ねて漸く寝入ったと云うのに、目を醒まして仕舞えば遣りようが無くごろりと寝返りを打った。
視線の先に在る文机に置いた砂時計が眼に入る。
其れは母が娘時代に買ったと云う舶来品で、細かな細工をあしらった木工に支えられた、玻璃の漏斗が美しい品だ。
漏斗の中の白い砂は月灯りを受けて綺羅綺羅と輝いて居る。
徴兵された父の訃報が届いて、母の勤めていた工場が爆撃され、天涯孤独の身になったのは十に成る頃の事だ。
父と母は所謂身分違いと云うやつで、大店の箱入り娘であった母と丁稚の父が駈落ちしたため、頼れる縁者を知らなかった。
戦災孤児と成った自分が生き延びられたのは、偶々だ。
父の友人だと云う男、後藤がこの仕事を薦めてくれたお蔭でどうにか6年間息を繋いで居る。
生まれついて左脚が跛なので兵役にも仕事にも就けず、盗みを働こうにも逃げる脚を持たぬ。
母が隠して置いてくれた貯えと実家の畑でどうにか暫くは食い繋いでいたが、空襲で家すら焼けてしまった為に二進も三進もいかなくなった。
愈々駄目かと覚悟を決めた時、後藤が現れた。
父に友人が居たなどと聞いた事も無かったが、付いて行くより他にアテが無い。
連れて来られたのは陸軍の施設だった。
何かの研究所だと云うが、詳しくは誰も教えてくれぬ。
後藤は白衣姿の陰気な男達に自分を引き渡すと、何処かへ居なくなって仕舞った。
それ以来彼とは会っていない。
どうにも寝付けず寝返りばかり打って、到頭眠る事を諦めた。
文机に向かい砂時計を引っ繰り返すと、白く綺羅綺羅とした砂が更々と落ちる。
ゆっくりと時間を掛けて降り積もる姿は雪の様でもあり、幼い頃に連れて行かれた海辺の砂浜を思い出させるものでも有った。
胸の狭くなる思いがして、数少ない手回り品の帳面を開く。
表紙の裏側に書いた自らの署名は、達筆とは程遠い。
十の子供が書いた文字は『阿南 時雨』と辛うじて読めるものの、蚯蚓ののたくった様な引き攣れた文字だ。
この帳面は此処に来て即に支給された。
日記がてら記録をせよと渡されたのだ。
此処には彼女との全てが記録されている。
初めて遭った日の事、名前を呼んだ日の思い出、そして………はらはらと捲る手を止め、その侭帳面を閉じた。
独房にも似たこの部屋に有る小さな窓から見上げれば、月はやや欠けて居るが直に満ちる具合だ。
白々とした月灯りに彼の人の面影を見出し、少なからず胸が高鳴った。
明日は給餌の日だ。
週に一度だけの逢瀬の時……時雨は女子のように繊細な白い面を僅かに紅色に染めて、長い睫毛を伏せた。
十六の男子にしては華奢な首筋に手を遣り、何度も付けられた疵に触れる。
嗚呼 此処に又、疵が増える。
あの象牙の様な滑らかな牙が刺さり、甘やかな痛みと衝動が襲うのだ。
それを思うと、背筋をぞくりと何かが駆け上がる気がした。
更々、更々……砂時計の砂が落ちる。
時間が流れる、胸に想いが降り積もる。
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