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プロローグ 2030年
彼らだって人の子だ、人並み程度のモラルの持ち合わせは当然あった。アフリカの子どもたちのために心を痛めたり、たばこのポイ捨てに憤ったり、ますます広がる経済格差に不安を感じたりできるのだ。
彼らというのは山っ気のある染色体研究者が立ち上げたベンチャー企業である。そしてそこに勤務する誰もが上述の通り、目の前でたばこがポイ捨てされれば食ってかかるタイプの真人間だった。
したがってある日、研究チームの責任者である槇村啓一郎が自分たちの開発したしろものの潜在価値を計りかねて、経営者にこう言ったのも十分うなずける。「ボス、こいつを商業的にリリースするのは時期尚早だと思いますがね」
このボスという男、彼はちょっとした傑物だった。金の動かしかたしかわからず、部下の話す専門用語はミクロネシア圏の古語かなにかだと決めてかかるタイプではなかった。彼自身が一流の研究者だったのだ。科学用語の通じる経営者というのは稀有な存在である。
「なぜそう思う? 47番めの奇跡。新人類への切符。呼び名はなんでもいいが、人工染色体はあらゆるバイオテク系企業がチャレンジしてるホットな研究だろうが。こいつを知らないようなやつはモグリだ。ちがうか?」
「ちがいませんよ。ただぼくが思うのはね」研究チームの責任者は鳥の巣もかくやといった髪の毛をかきむしった。ふけが舞い落ちる。風呂に3日も入っていないのだ。「このしろものを受精卵にぶち込むのに、金がかかりすぎるのが心配なんです」
「で、それがどうした。黎明期の技術をふんだんに使った新商品が安くなきゃいけない法でもあるのか?」
「ないでしょうね、残念ながら」
「利益が出るようサービス価格に工賃を上乗せする。どの業界でも当たり前にやってる商売の常識だと思うがね」
「それだとこれを買える人間を選ぶことになりませんか」槇村研究医は食い下がった。
「特許権取得がうまくいきさえすれば、実費も多少は安くなる。そうなれば利幅を減らして購買層を下に広げられるだろう」ボスは研究者の肩を陽気に叩いた。「そう心配するな。最初は軌道に乗せるのに苦労するだろうが、そのうちヒット商品になるさ。億万長者も夢じゃない」
「ぼくが心配してるのはこの会社のゆく末なんかじゃありません」
「それ以外になにを心配するってんだ、槇村くん」
「遺伝子の構造が明らかになって1世紀近く経った昨今、理解はどんどん進んでます。技術進歩を予測して規制も緩和されつつある。にもかかわらずいまだに人間の遺伝子操作胚がまともに発生したという話を、ぼくは寡聞にして知りません」
ボスはいきなり始まった小学生向けの講義に不審を抱きつつも、付き合ってやることにした。
「単一の遺伝子によって制御されてる表現型、たとえばフェニルケトン尿症やら鎌状赤血球貧血やらはむしろ例外だからだろ」
「おっしゃる通りです。ある塩基配列のなかのアデニンをシトシンに変換させれば、それだけでチーターみたいに足の速い子どもが生まれてくるわけじゃない。遺伝子は相互作用していて、それは網の目のように複雑な回路になってます」
「したがって」ボスが訝りながらもあとを続けた。「仮に知能の多寡に関わる遺伝子を見つけたとしても、下手にいじるのは危険だ。知能をブーストさせようとして可能性のありそうな領域に手を出した結果、それが生存に関与する大事な遺伝子だった、ということになりかねない」
「そうです。いまあちこちのバイオテク企業で体外受精クリニックから出る余剰胚を使った遺伝子操作実験が、血眼になって実施されてますね」
体外受精クリニックでは、通常何個も受精卵を作っておくのが定石だ。長くても数十分しかかからず、しかも一人でできる男性の採精とちがって採卵は大掛かりな医療行為になる。救いは冷凍保存が可能な点だ。せっかく精子は売るほどあるのだから、できるなら採卵回数を減らすためにも卵子は大量にほしい。
それにどうせ、一度やそこらで受精卵はそう簡単に着床しない。つつがなく胎児へ発生するほうがまれなのだ。ならば夫婦の負担を減らすためにも(誰だってやたらにクリニックへ通いたくはない。その回数が減るに越したことはない。それがいまやコンビニ並みにあふれかえる同業他社との差別化につながるなら、なぜそうしていけないわけがある?)、なるべく受精卵を大量にストックしておくほうがよい。
もちろん手持ちの弾がなくなるまでにめでたく妊娠することもあるし、それを使い切らないうちに夫婦が治療を諦める場合もある。余剰胚というのはそうしたケースで生じてくる、いわば使うあてのなくなった受精卵である。
長らく余剰胚は燃えるごみといっしょくたに廃棄されているのが実情だったが、これの有効利用を目的として2030年に規制が緩和された。研究用に限り、余剰胚の利用が認められたのだ。
クリニックはバイオテク企業にそれを売却でき、長いこと音沙汰のない夫婦の受精卵を保管し続ける義務から解放され、バイオテク企業は遺伝子操作胚の研究を低コストで堂々とやれるようになる。おまけに20パーセントの売却マージンを夫婦は受け取る。誰もが得をするわけだ。
「でも成功の兆しは見えない。遺伝子の同時発現の網の目があんまり複雑すぎるからだな」
「一時期は遺伝子操作された怪物が生まれてくると騒がれてましたが、杞憂に終わりました。そもそもそんな操作胚を腹に宿してくれる代理母を見つけるのは困難ですし。まあどこか途上国にいけば1,000ドルかそこらでやる女もいるでしょうが、企業イメージに傷がつくのは避けられない」槇村は皮肉を込めた笑みを浮かべた。「もっとも、どの胚もまともに二細胞期にさえ卵割しなかったそうですが。これはたぶん、企業が欲張って遺伝子をいじくりすぎたんだと思いますけどね」
「生物工学の歴史講義、まことにありがたいがね。それときみらが開発にこぎつけた人工染色体の販売時期に対する懸念が、いったいどうつながるのかな」
「これを見てください」槇村は端末を白衣の懐から取り出した。「今朝の医療ニュースです」
ボスは気乗りしないながらも端末を受け取った。ニュースは孵化機の実用化をセンセーショナルに報じていた。
「ES細胞とiPS細胞が解禁されて久しいが、ようやく孵化機が世に出る。すばらしいじゃないか」
ES細胞にせよiPS細胞にせよ、それらは多能性幹細胞と呼ばれている。これは組織や器官へ成長していない未分化の細胞であり、任意の器官へ培養することが(原理的には)可能だ。
孵化機とは幹細胞から樹立した子宮を栄養補給用ユニットにはめ込んだ、生体と機械のハイブリッド装置である。これの登場により、女性はついに妊娠という長く苦しい苦役から解放されるとリベラル派のフェミニズム団体が盛んに喧伝するいっぽう、保守派の団体は女性性を奪う意図的な略奪であり、ますます女性が性的な面での評価しかされなくなると危惧を抱いていた。
ひとつ言えるのはこれからの時代、もはや自前の子宮で子どもをあえて育て、9か月の虜囚生活を選ぶ女性は激減するだろうということだ。仮に自然派を標榜する懐古的な人間がそうしたいと望んだとしても、社会がそれを容認しないだろう。
自然妊娠期間にかかる医療費の実費請求、妊娠を理由にした長期休暇取得システムの廃止、体外受精の推奨。なぜよそへ胎児を銀行預金かなにかみたいに預けておけるのに、そうしないやつをいつまでも助けなければならないのか? それはタンス預金をしているご仁の家が火事に遭ったようなケースをも、自業自得と切り捨てずに全額補償してやるのに等しい。それもみんなの税金でだ。
「確かにすばらしいですよ。でもボスはやっぱり見落としてる」
「聞こうか、わたしの目が節穴な理由をな」
「ぼくたちの人工染色体には、任意の遺伝子を付加できますね」
「身長を伸ばす遺伝子、かっこよくなる遺伝子、頭のよくなる遺伝子、なんでもお好きなのをご自由に」ボスは研究者特有の諦めたような表情で吐き捨てた。「そんなものがあればの話だがね」
「そういう極端なのはないにしても、たとえば足の横紋筋協調を促す遺伝子なんてのがないとは断言できませんよ」
「それがひいては俊足の子どもという結果になるかもしれん。そういうことかね」
「なにもわからないまま、遺伝子工学がこのまま停滞すると予測するのはあまりにも想像力に欠けてます。近い将来ニューロンの活動電位速度が向上する遺伝子なんてのが見つかるでしょう。グリア細胞のミエリン鞘の巻きつきが多くなるとか絶縁性がよくなるとか、そういう局所的な変化でもってね」
「おもしろい。次の開発はその路線でいくか?」
「ボス! まだわからないんですか。そういうオプションをぼくたちの染色体にしこたまぶち込んで、そいつを受精卵に組み込みたがる連中が必ず出てきます」槇村は絶叫した。「いままではそんな怪物胚を腹に宿そうと思う女性はいなかった。でもボス、いまや孵化機が実用化されたんですよ!」
研究室に静寂が訪れた。ボスはしばらく口を半開きにして呆けていたが、たっぷり30秒も経ったころ、だしぬけに理解の色が浮かんだ。
「受精卵は複製できる。四細胞期くらいまでの胚は独立に成長する全能性を持ってる。双子とか四つ子と同じ要領ってことか?」
研究者は重々しくうなずいた。「そうです。原理的にはたったひとつの受精卵から何十個もの胚を作り出せる。卵割するたびに分離して、またそれが卵割するのを分離するって寸法です」彼はじっとりと背中に汗をかいていた。「で、人工染色体での遺伝子挿入の強みはなんです、ボス」
「進化が30億年かけて描いてきたDNAのモザイクをいっさい汚すことなく、望みの特性を付加できる」ボスも滝のような汗をかいている。「でもそんなこと、誰でも知ってるはずだろう。いまさら騒ぎ立てるような話じゃないぞ。わたしらはそこに目をつけたからこそ、よそとちがう路線――つまり既製品のゲノムをいじくるのじゃなしに、オーダーメイド品をそいつにくっつけようと思ったわけだから」
「そう、少しでも遺伝子操作胚の発生率を上げるためにね。それでもひとつ作って腹に戻してたんじゃ、いつまで経っても強化人間は生まれてこなかったでしょうね」研究者の目が意味ありげに光った。
ついにボスはすべてを理解した。「孵化機か!」
「人工染色体をぶち込んだ受精卵を複製して、大量に孵化機で育てさせる。このシナリオなら遺伝子操作人間が――それも片輪でないのが生まれてくる可能性はぐっと高まります。まともに発生しなかった胚はそのまま廃棄すればいいし、運よく何個も発生しちまったら、サイコロでも振って間引くのを決めればいい。どうせ全部遺伝子的には同じなんだから」
「きみの言いたいことはわかった。でもそれならなんでうちの傑作を売り込む時期が悪いなんてことになる? むしろ孵化機とのシナジーでこれ以上ない商機になるんじゃないか」
「なるでしょうね」
「さっぱりわからんな、きみの抱いてる危惧が」
「人工染色体はまだ量産できる技術じゃありません」彼は辛抱強く続けた。「保険適用外の先進医療になるでしょうし、そうなればこのサービスを買えるのは一部の人間だけになりますね。この一部の人間というのはたぶん富裕層だと思いますが、ちがいますか?」
「そりゃ余分なところに金を回せるのは金持ちだけだろう」
「そうなるとこれを買える人間の子孫だけが恩恵を受けられるという構図ができあがってしまう。経済格差とはべつに遺伝子格差とも呼ぶべき社会現象が出来するんじゃないでしょうか」
「そうは言っても孵化機はリリースされるんだぞ。『そいつを販売しないでください』ってメーカーに土下座でもするのか?」
「孵化機は生殖に関わることですから、たぶん将来的に保険適用サービスになると思うんです。少子化への切り札にもなりえますから、政府もこれを見逃すはずはない。そのタイムラグを利用して十分に安くできるまで待つべきです。そうすればより多くの人びとが人工染色体を子どもに埋め込める。それが人道的研究者の姿ってもんでしょうが」
死のような沈黙が下りた。槇村はいつもの猫背をやめ、毅然とした態度でボスに向き合っている。ボスは渋面を作って彼の視線を避けている。
数世紀も経ったころ、ボスは固く目を閉じたまま決断を口にした。「いますぐ販促ルート開拓を始めよう」
「ボス! あなたって人は……」
「もし、うちだけが!」ボスの気迫は槇村を縮み上がらせた。「うちだけがこの技術開発に成功してて、今後どの研究室も開発に失敗し続けるなら、わたしだってきみの意見に賛成するにやぶさかじゃない。でも実際はどうだ。わたしらのすぐ後ろを同業者が猛烈な勢いで追走してるんじゃないのか。それも世界中の企業とか大学がだぞ」
ボスは歯ぎしりしている。何度もくり返すが、彼だって人並みのモラルは持ち合わせているのだ。
「将来の子どもたちがさらされるかもしれん遺伝子格差とやらにおもねるのは、むろん立派な志だ。で、孵化機がようやく保険適用されるまで待ってるあいだに、わたしらよりもっと性質の悪い連中がそいつをリリースしちまったらどうなる。めちゃくちゃに高額で販売する、特許権を悪用して参入業者を制限する。それこそ最悪のシナリオじゃないかね」
槇村は反論できなかった。
「わたしらはこいつをリリースする。いや、そうしなきゃならんのだ。その代わり適正な価格で売って、特許権は気前よく使わせよう。正当な商売をしよう」優しげにボスが研究医の肩を叩いた。「遺伝子格差とやらは生じるかもしれん。だがそれはわたしらが傲慢だからじゃない。全地球規模で進行するグローバル経済がそうさせるんだ。ちがうかね」
槇村は反論を1ダースは思いついた。
だがそのどれもがボスを論駁するに足る鋭さを持っていないことを、彼はしぶしぶながら認めざるをえなかった。
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