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2-3
病室を訪ねてみると、やつはいなかった。
「部屋、合ってますか」先輩に聞いてみた。
「303号室だろ。ええと、ほらこれ」指の先には〈根岸善幸〉のネームプレートが確かにある。
「どこいっちゃったのかな」なぜかついてきた香苗が首を傾げた。
「容態が急変してくたばったとか」わたしは期待を込めて言ってみた。
「考えてみりゃ、あの野郎が銃弾ごときで死ぬわけないんだよなあ」部下のために涙したのはすっかり黒歴史認定されているらしい。「たぶん寝てるのが退屈でそこらをぶらついてるんだろうよ」
先輩の予言は当たっていた。廊下の向こう、なにやら言い含められながら看護師に連行されている男が徐々に近づいてくる。あにはからんや、根岸だった。「あれ、みんなどうしたんです。がん首揃えて」ぱっと顔が輝いた。「これはこれは、香苗ちゃんまで!」
「見舞いだよ。思ったより元気そうじゃないか」
「おかげさまでね」
「いい根岸さん。リハビリはこっちで計画立てますから、くれぐれも勝手にやらないように」吊り目の美人看護師が、生返事をしている根岸の耳を引っ張った。「いいですね!」
「痛い痛い。わかったわかりました」
「ほんと安静にしててくださいね。約束ですよ」彼女はぱたぱたと足早に去っていった。
「ずいぶん入院生活をエンジョイしてるみたいだな、え? 大将」
「入院なんて滅多にできませんからね。看護師の女の子はみんなかわいいし。飯だけもうちょっと味の濃いのが出てくれば、ここは至れり尽くせりの天国です」
「立ち話もなんだし、お前の部屋で話そうや」と森下さん。「これ持ってるの疲れたし」
それは彼女からもっとも縁遠いもののひとつ――フルーツの詰め合わせバスケットだった。部下の目の色が変わった。「それはもしや甘い果物じゃ……?」
「あたり」
「でも困ったな。せっかく持ってきてもらったのに食べられないぞ」
「どういう意味ですかそれ」と才媛。
「いやだってさ、このなかにりんごの皮をナイフで剥くなんて芸当のできる人間がいるとは思えなくて」
わたしは吹き出した。「確かにな」
「言ったな根岸」先輩が不敵に笑った。
* * *
それはまったく信じがたい光景だった。
いったい誰が信じられる? あの女傑が――握力42をマークし、遠投では70メートルは朝飯前、胸が大きいのはもっぱら大胸筋の発達が大きく貢献しているというあの女傑が――果物ナイフを自在にあやつり、プロの料理人もはだしの皮むきをやってのけるなんて。
「そらよ」紙の小皿に切り分けられたりんごが乗せられた。「なにを驚いてんだ?」
「俺は信じないぞ。りんごを握りつぶすならともかく、こんな繊細なまね、姉さんにできっこない」
「いらんなら食べちまうぞ」
「いただきます」ひょいとつまんで口へ放り込む。「悔しいけどうまい」
「で、ケガは実際どうなんですか」若手研究者もりんごをつまんだ。「あ、森下さんいただきます」
「おう、食え食え」
「もうぜんぜん平気! ほらこの通り」寝巻をまくってみせた。腹には包帯がやたらに巻いてある。「貫通銃創だったから組織の破壊は最小限ですんだんだよ。どてっぱらに小さな穴が空いただけ。そいつもじきに塞がる」
幹細胞から望みのパーツを培養できる当節、損傷した組織は分化させた細胞を足すことによって大幅に回復期間を縮められる。〈アルカトラズ〉襲撃から3日しか経っていないにもかかわらず、やつが院内をうろつき回って看護師のみなさまがたのお手を煩わせているのはそれが理由だ。
「ま、ゆっくり休むこった」
「寝てる場合じゃないですよ。報告書は読みました」貴重なまじめモードの根岸になった。「死者3名、重傷者8名、軽症者17名。こないだの窃盗騒ぎはまだかわいいもんですけど、これはもう立派なテロ行為ですよ。PLFは完全に迷走してますね」
「設立当時の趣旨を忘れちまった感はある」女傑は残念そうにため息をついた。「〈カスタム〉一辺倒になりつつある現状に警鐘を鳴らす方法が、無差別に遺伝子ゲットーを襲撃するってのはなあ」
「確か6機はまんまと逃げおおせたそうですけど、そのテロリストたちは依然野放しなんですか?」才媛は手厳しい。
「もちろん本職に協力してもらって検問は敷いたし、高飛びを警戒して空港は厳戒態勢下にある。でもいまのところ手がかりはなし」
「下手人は割れてるんでしたっけ」病人とは思えない食欲だ。次から次へとりんごやら梨やらいちごやらを口へ放り込んでいる。
「公安のマークしてた連中でほぼまちがいないって話だ。だから見つかりさえすれば取り逃がす心配はない」
本職の警察官は(バイオテク屋やら不動産屋やらに権力を切り売りしたせいで)職掌範囲をどんどん狭められ、やることがなくなってしまって久しい。PLFのような反社会的勢力のメンバー表をシコシコ作るといった仕事は、彼らに残された最後の砦なのだ。暇だからといって日がな一日中、パソコンの前に陣取ってエロ動画漁りをしないあたり、本当に頭が下がる。
「にもかかわらず、まだ見つかってないと。ミステリーですねえ」
「セスナ機かなにかでもう逃げちまってるんじゃないですか」やつは自嘲気味に笑った。「俺が死ぬだの生きるだの騒いでるあいだに」
「小型のセスナなんかじゃPUを6機も積載するのはとても無理だ」先輩は足を組んで薄く目を閉じている。
「じゃ、乗り捨てたんでしょう」
「だったらそれが見つかってもよさそうなもんだ。影すら見られん。いったいどうなってやがる」
「国外逃亡は諦めて、日本中をとんずら行脚してるとか」と香苗。
「PUのバッテリーは省エネモードでも3時間が限度だ。充電パレットと組みで動かすにしても、外部電源をつねに確保しなけりゃとても連続稼働はおぼつかん。プロの整備士が水も漏らさぬフォローをしてくれるならともかく、ノウハウのない素人集団にゃ荷が重いだろうな」
「そうですか……」
「かなさん、最近よくこっちに顔出してくれてるけど、仕事ほっぽって大丈夫なのか」
「今日も有給取ってますから!」
有給申請の「取得事由」欄をどうやってごまかしてるのか今度聞いてみよう。鬼の木下に通用するのなら、悪魔の森下にも有効かもしれない。
「あたしはやっぱり最終的に高飛びするつもりと見たね。あれだけの騒ぎを起こしたんだ、もうこの国にはどうあってもいられんはずだ」
「一生指名手配犯として追い回される覚悟があるのかもしれませんよ」結局果物はほとんどこいつが食べてしまった。「時効狙いとか」
「いや、やっぱり高飛びだろう。下手人の立場になって考えてみろよ。派手にドンパチをやらかす代償がウン十年もの逃亡生活じゃ、割に合わんと思うがね」
「イスラム教の殉教戦士募集みたいなもんか」先輩はたまに言いえて妙の比喩を持ち出してくる。「破壊活動後は東南アジアで悠々自適の生活が待ってるぞ、とか言ってな。さすがに72人の処女は用意できなかったようだけど」
「検問にも引っかからず、空港にも姿を見せない。時間が経てば経つほど国外脱出は難しくなるいっぽうなのに、そんな兆しもない」根岸は肩をすくめた。「お手上げですな。悪いけど肉体労働が専門なんでね」
沈黙が下りた。議論は百出し、行き詰まった感がある。
「そういえば和泉くんが不思議がってたけど、あのロシア製のどん亀PU、ありゃいったいどっから引っ張ってきたんですかね。ライセンス品は輸入禁止なはずでしょ」
「そりゃお前、ロシアのウラジオストクあたりから輸入したんだろうさ」
森下さんの言ってるのはこういう意味だ。行政セクターがやたらに削られている昨今、税関の輸出入管理業務も決して例外ではなく、貨物審査の簡素化、関税フリー対象商品のさらなる推進、産官学を交えた物流コスト削減などがおっぱじまっている。
さてそもそも、個人の手荷物でない商業ベースの大容量貨物を輸出入する場合、どのような流れになるのか? 簡単だ。輸出ならコンテナに貨物を突っ込み、あとはコンテナヤードに放り込むだけ。これで物流のほうは終わりである。
それからは書類仕事になるが、こっちも難しいことなんかぜんぜんない。コンテナに放り込んだ貨物の品名と金額を書いた紙切れを、通関業者にメールで送りつける(昨今じゃ通関免許は実にさまざまな業種に膾炙している。たとえばうちみたいなバイオテク屋にさえ)。これだけだ。あとは勝手にこいつらが代行業務として、税関に申告してくれる。それが通れば無事に輸出は完了となる。輸入はこの逆をやるにすぎない。
細かい話で恐縮だが、税関の貨物審査には3種類のクラスがある。すなわち区分一、区分二、区分三がそれにあたる。通関屋が税関へ申告したその瞬間、これらのどれかが即座に決定し、区分に応じた審査内容が実施されるわけだ。逆から説明していこう。
区分三は現物検査、つまりコンテナの扉を開けて中身を検めるという、ある意味で税関本来の役割ともいえる審査である。目的は申告内容通りの貨物が入っているかとか、麻薬やら武器やらが入っていないかとか、まあそうしたいかにもお役所の好きそうなことを根掘り葉掘りやる。そんなもの入ってやしないのにだ。この区分はお高い検査料が発生するため、荷主には非常にいやがられる。
区分二は書類審査、つまり申告された内容を書類のみで判断し、許可の可否を決定するという流れである。本来であればすべて現物検査するのが水際の取り締まりのあるべき姿ではあるものの、1日あたり何千何万というコンテナが滑り込んでくる主要港で、そんなまねはとてもやっていられない。さりとてまったく審査をしないわけにもいかない。このジレンマを解消する妥協策といえよう。
そして問題の区分一。これは審査省略で即許可という想像を絶するしろものである。申告された貨物が(原子爆弾の製造に必要な遠心分離機とかのたぐいじゃない、通関上問題のない貨物という意味で)クリーン、かつ輸出入者が懲りずに何度も当該貨物を取り扱っているような場合には、いちいち書類審査するまでもないというわけだ。
なんといっても大手部品メーカーともなれば、毎週同じ貨物の入ったコンテナを何十本何百本と輸出していたりするので、そんなのいちいち見ていられないと思うのは人情だろう。
この区分が出た場合、事実上書類に目を通しているのは荷主と通関屋だけであり(コンテナの中身にいたっては荷主しか知らない!)、税関はいっさいノータッチといってよい。審査省略扱いになるほど信頼の厚い会社なら、そもそもいい加減な書類を作ったり妙なものをコンテナ内に紛れ込ませたりしないであろうという性善説が根拠になっている。
むかしは区分一の出る荷主というのはよほど信頼のおける大企業か、継続的に十年近くも実績をこつこつ積み上げてきたベテラン企業かのどちらかだった。ところが前述のように審査の簡素化が叫ばれる昨今とあって、この区分一をもっと広範囲に適用せよという要望が噴出している。
どういう基準で決められているのか不明だが、うちみたいな名の知れた企業はほぼ100パーセント区分一で許可は下りる。いっぽう最近起業したばかりの怪しげな輸入業者ですら、ごくまれに区分三になる程度だと知り合いの通関屋から聞いたことがある。北朝鮮あたりに濃縮ウラン235でも輸出しようとしない限りは、そうめったに現物検査になんかお目にかかることはないのが昨今の趨勢なのだ。
これにてようやく本題に入れるわけだが、PLFがロシアのどん亀PUをどうやって輸入したかというと、もちろん尋常の手続きでそうしたにすぎないのはもうおわかりだろう。ちょっぴり普通のインヴォイスとちがうのは、品名をバカ正直にPOWERED UNIT (MADE IN RUSSIA)と表記する代わりに、CARBURETOR PARTSとかSTAINLESS STEEL PIPEとかの無難な工業製品に差し替えてあるくらいのものだろう。
驚くべきことにそれだけで、輸入禁制品にもかかわらずほぼ確実に区分三を避けられる。そしてそれを避けられるならば、事実上コンテナのなかになにが入っていようとも税関は書類を信じて許可を下ろす。そういうものだ。
以上、実に退屈な話にはなったけれども、輸入通関の盲点はオゾンホールをはるかに凌ぐ勢いで拡大を続けているとだけご理解いただきたい。
「なるほど、審査省略ねえ」根岸は感慨深げに何度もうなずいている。「あんまりなんでもかんでも簡素化にするってのも考えものですなあ」
「それくらい知っててくれよ。仕事の一部のはずだぞ」
「言ったでしょ、俺はドンパチしたいがために入社したんです」
「その結果がこれじゃあな」森下さんが野次った。
ひとしきり笑ったあと、生意気な部下はせき払いをひとつやった。「捕まえた2機の中身はやっぱり黙秘ですか?」
「あいつらがさっさと口を割りさえすればねえ」女傑は嘆息を漏らした。「PPにばっかり任せとくのも悪いからあたしも聴取にいったんだけど、べらべらしゃべるのは動機だけさ」
日本が文明化されて久しい法治国家であるのが悔やまれる。そうでなければ拷問で吐かせることもできたのだが。よほど忠誠心が高いのか、自白した瞬間神経毒でも回るような近未来的スパイさながらの処置が施されているのか、そのあたりは詳らかでない。
ちなみにPPというのは、企業子飼いでない警察(PP:Public Police)、つまり従来から存在した公的組織のことである。最近は彼らの身売りも著しく、われわれのようなパブリックでない私兵もずいぶん増えたため、混同を避けるためにこう呼ぶならわしだ。
「すると結局、消息は不明ってことですね」才媛がいたずらっぽくほほえみかけてきた。「真琴さん、こないだみたいな冴えわたる名推理はないの?」
「ある」白状すると、たったいま思いついたのだが。
「え、ほんとに?」
「コンテナ輸出」次は自信を込めて、「区分一か二。これで筋が通りますよ!」
3人とも口を半開きにして間の抜けた表情をしている。代表して部門長が問いを発した。「説明してみろよ。どうもお前は話をはしょりすぎていかん」
「飛行機で高飛びするにはどうしたって空港にいかないとだめですけど、厳戒態勢下じゃノコノコ捕まえられにいくようなもんだ」
香苗が両手を胸の前で握りしめ、食いついてきた。「それで、それで?」
「PUを乗り捨てずに中身ごと日本からとんずらするのは一見、どう考えても不可能のように思える。あんな目立つ貨物と6人の人間ですよ。麻薬の密輸より難しい」
「ははあ、そこでコンテナ輸出か!」早くも先輩は理解したらしい。
「門外漢にもわかるようにお願いしたいですね」と病人。
「コンテナ通関で区分三にさえならなければ、税関はいちいち中身まで検査しない。40フィートコンテナならPU6機とパイロットを十分積載できるスペースがある」
「ちょっと待ってください。万が一区分三になったらどうするの? コンテナを開けられたら一発でわかっちゃいますよ」香苗の飲み込みの早さには驚くべきものがある。「区分一か二で審査省略になるような優良業者がPLFと手を結ぶなんてこと、ありえますかね」
「さあそこだ。PLFにはPUの輸入経験があるはずだから、通関のからくりは知り抜いてるものと推測できる。ダミーの輸入会社を設立してるのか外部委託してるのか知らないが、まあそれが区分一の恩恵を受けるようなもんじゃないことだけは確かだし、申告案件全部が区分一を叩き出す大手部品メーカーかなにかが『われわれはあなたがたを支持します。どうぞコンテナにお入りください』なんて気前のいいところを見せるとも思えん」
みんながいっせいにうなずいた。
「結局連中は自前の乏しい信頼度で通関するしかないわけだけど、たとえコンテナ検査になったとしても、扉を開けて中身を全部出しすなんてことはやらん。たいてい扉から見える範囲の貨物をふたつみっつ適当に見繕って調べて、これで許可になっちまう」
「扉付近にはまともな貨物を積んでおいて、奥のほうにPUを押し込めば……」
「その通り。PUを6機詰め込んだとしても、せいぜいコンテナの3分の2程度の占有率だろう。40フィートといえばおよそ12メートルだから、十分スペースはある」
「だが日下部、航路にもよるが海上コンテナの内部は蒸し焼きみたいになるっていうじゃないか。それに飯はどうするんだ。ご近所の中国でも4日はかかる。欧州とか北米ならゆうに1か月以上だぞ。飲まず食わずですごすにゃちょっとばかり長すぎると思うがな」
「食料と水がほしいなら、そいつもまとめてバン詰めしちまえばいいんですよ。対区分三用の防壁にもなる。最近は国産チーズとかミネラルウォーターなんかも競争力を持ってますから、決して不自然な貨物じゃない」女傑の顔は一本取られたといった風情だ。「おまけに蒸し焼き問題はリーファーコンテナを使えば解決します。食料品の輸出は鮮度が命ですから、これもまったく自然な選択に見えるでしょう」
リーファーコンテナというのは電源の供給によって内部温度を調節できる特殊な箱のことだ。生鮮品や湿気を嫌う不織布などに使われる。食料供給、対税関用の壁、さらにリーファーを使う口実にと、一石が何鳥にも化ける恐るべき方策だ。
「盛り上がってるところ悪いんですがね、そう都合よく〈アルカトラズ〉の近くに食料倉庫なんかがありますかね。ちょっとご都合主義すぎるきらいがあるように思います」
はやる気持ちを抑えながら端末で〈アルカトラズ〉近辺の地図を呼び出した。「見ろ根岸、でっかい冷凍倉庫があるぜ。順序が逆なんだよ。襲撃計画に適したゲットーがたまたま〈アルカトラズ〉だったのさ」
「ちょっと待て。まとめさせろ」と部門長。「つまりこういうことか? あらかじめ冷蔵倉庫から食料を買っておいて、出荷は直接バン詰めでやりたいと言っておく。襲撃の直前にコンテナを搬入しておき、部隊はひと仕事終えたあと、夜陰にまぎれて内部へ駆け込む。大急ぎで買いつけといた貨物を余ったスペースに詰め込んで封印し、あとはさもふつうの食料品輸出であるかのように通関をやって、まんまと国外脱出。これであってるか?」
「おそらくそのはずです」
森下さんが唐突に立ち上がった。「こうしちゃおれん。やつらが輸出される前に止めなきゃ!」
われわれ全員がうなずき、いっせいに病室をあとにした。辞去する瞬間、残された根岸がベッドに横たわったままこう言っているのが聞こえた。
「ちぇっ、こんなことなら俺もちゃんと通関事務を勉強しとけばよかった」
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