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〈プレーン〉解放戦線とやらが関与してるのか、そもそもそうした輩が本当に存在するのかどうかも不明ではあるが、ひとつ確実なことがある。それは現に遺伝子ゲットーがコソ泥に入られたという事実である。  したがって誰が犯人であるにせよ、現場を視察するのは無駄にはなるまい。われわれ保安部門の面々は早速当該エリアに馳せ参じた。 「話には聞いてたけど、こりゃどえらいしろものですね」  わたしはその区画を目の当たりにして、呆気にとられるばかりだった。オートロックのマンションを、ドアから窓まで全部の鍵を閉め忘れた空き巣の楽園のように感じさせるほどのものものしさである。見渡す限り3メートルはあろうかと思われる有刺鉄線つきの柵で囲われ、おまけに銃眼がところどころにのぞいてるじゃないか! たぶんモデルガンだとは思うのだが、その穴からは冷徹な銃口が突き出ている。柵はさらに上へ上へと拡張工事中であり、いずれはドーム型の小都市になるだろう。 「おまえ、ゲットーにくるのは初めてか」と森下さん。  男勝りの言動とは対照的に、彼女は美人の部類に入るであろう。猫目に高い鼻、機能性の面からという理由で一定水準以上に髪は伸ばさない。それがまた活動的な彼女によく似合っている。  肌もきめ細かく、顔からはとても36歳には見えないし、やたらに山ばかり登っているせいでスタイルもまったく崩れる兆しはない。保安部門を統括する167センチメートルの女帝だ。ひとつ朗報。もちろん彼氏はいない。こさえてもらっては困る。なぜなら先輩に彼氏ができた日から1か月以内に、近所のドブ川へ飛び込む契約になっているからだ。  彼氏とダイビングの因果関係はこうだ。数年前の飲み会の際、酔った勢いで先輩の女らしさの欠如をさんざんっぱらあげつらったのち、売り言葉に買い言葉でそう約束してしまったのだ、こんな具合に。「よおし、万一あたしに彼氏ができたらおまえ、どうするよ」、「絶対にできっこありませんよ。もしできたらなんでもやってやりまさあ」、「言ったなてめえ。生活排水でいい感じに濁った堀川がおまえを待ってるぜ」、「飛び込んでやろうじゃありませんか」。  酒は飲んでも飲まれるな。至極の一言であろう。 「どうせぼくが住んでるのはスラムですからね。こんなお上品なエリアに用はありませんよ」 「腐るな腐るな」背中を思い切りどやしつけられた。「あたしら全員スラム住まい。それでいいじゃないか」  むろんスラムというのは字義通りの意味ではない。遺伝子ゲットーの対義語――すなわち〈プレーン〉の人びとが集中的に暮らす地域をそう呼ぶ。とはいえ〈プレーン〉のなかにも裕福な人間は当然いるし、貧困線を割るような生活をしているのはごく一部だけだ。この言葉は〈カスタム〉から頂戴した不名誉極まるスラングであり、多分に恣意的で誤解を招く欠陥用語にほかならない。もっとも最近では、被差別側が自嘲気味に使うケースもままある。たとえばついさっきのように。 「ちょっと待ってください。連帯感を醸成してるところ悪いけど、俺は遺伝子ゲットー出身ですからね。一緒くたにしないでほしいな」と根岸。 「そうだったな」森下さんが青二才の髪の毛をくしゃくしゃに散らす。「悪かったよ、〈カスタム〉のぼっちゃん」 「あんたがたと同じにされちゃ、俺の沽券に関わるんですよ。以後気をつけるように」  この生意気なガキは部下の根岸善幸(ねぎしよしゆき)だ。御年27歳、爽やかイケメン、香苗と同様純正付加遺伝子埋め込み型の畏れ多い〈カスタム〉さまである。にもかかわらず保安部門なんかにいるのは、たぶんパッケージされているのが〈ヘルメス〉だからだろう。  これは運動能力を増強するとうたっている定番商品だが、あいにく文明化された日本でそうした特質が活きるのはせいぜい中学生までだ。運動会のリレー走者に選ばれて、物見高い女子連中から黄色い声援をもらえるとか、部活で中体連選手に抜擢されるとか、恩恵はその程度である(プロスポーツ選手になるための橋頭保になりうるという強引な意見をいまだに聞くが、多少初期値の土台を高くした程度でそうなれるなら誰も苦労はしない)。哀れ根岸、合掌。 「一応ぼくも〈カスタム〉なんだけどな」わたしは言ってみた。 「日下部さんのはあれでしょ。非正規品の海賊版」 「誤解があるようだな。ぼくのは細菌の環状プラスミド式だ。正当な発明品だし、特許だって取ってあったんだぜ」 「そんなの取るまでもなく、誰もまねなんかしなかったと思いますけど」 「あ、こいつ!」 「おい、時間だ。バカやってないでいくぞ」  われわれはほとんど同時に一分の隙もない敬礼をやってのけた。「イエス・サー」      *     *     *  遺伝子ゲットーの成り立ちは大意、次の通りである。  むかしから金持ちは金持ち、貧乏人は貧乏人同士集まりたがる傾向は確かにあった。しかしそれはなにも大富豪アソシエーツだとか困窮者コンソーシアムだとかを意図的に作りたいという意志が先行したわけじゃなく、人びとがたんに収入に見合った居住地を選んだ結果にすぎなかった。  そういう意味で各地に出現した〈旅順要塞〉やら〈九龍要塞〉やらは趣を異にするといってよいだろう(蛇足になるが、〈旅順要塞〉の周辺居住区は〈二〇三高地〉と呼ばれている。いつまでも戦禍を忘れない平和志向、あっぱれ!)。  バイオテク元年に遺伝子工学技術が解禁されてからこちら、これに真っ先に飛びついたのは誰あろう、富裕層だった。これは想像に難くない。日々の生活ですら青息吐息の貧乏人に、得体の知れない47番めの染色体などというしろものを子どもに植えつけようとする余裕も発想もなかろう。彼らにとっては南米の通貨並みに変動する野菜の金額が、最安値でいかに長く安定するかのほうが死活問題なのだ。  そうなると自然発生的に、いままで費用対効果や緑豊かなのを理由に土地の安い地域に居残っていた富裕層までもが脱出を企てはじめる。この点について誰が彼らを責められよう? 連中の言い分はこうだ。 〈プレーン〉の大人たちとの避けられない交流は、まあこの際目をつむってもよろしい。だが子どもは! 子どもたちだけはあいつらから可能な限り隔離しておかねばならない。だってそうだろう、そこらにたむろする〈プレーン〉のガキどもと仲よくなってしまい、将来的にまかりまちがってうちの子とあいつらの子がセ、セ……セックスして(考えるだに貧血を起こしそうだ!)、あろうことか子どもができでもしたら――。(卒倒、けたたましい救急車のサイレンがドップラー効果とともにやってくる)  あとは目ざとい不動産業者たちが、このトレンドの背中をそっと一押ししさえすればよかった。つまりこういうことだ。  むむ、なにやら〈カスタム〉の子どもを持つ夫婦がお高い土地に集まってるぞ。なるほど、連中は薄汚い〈プレーン〉の遺伝子を締め出したいんだな。それならそういう不動産を――〈プレーン〉禁制の高級住宅地を造成すれば、売れ残りのあのあたりを一気にさばけるのでは? そこに駅に近いとか駐車場が広いとかの現実的な付加価値があるかどうかはこの際問題じゃない。〈プレーン〉さえいなけりゃいいのさ。けけけ、この伝でいけばあそこも、あっちも、ちょっと待ってくれ! あんなところまで相場の数十倍で売れるかもしれんぞ。いったい粗利はいくらになるんだ――。(電卓を叩いて計算ののち卒倒、けたたましい救急車のサイレンがドップラー効果とともにやってくる)  それらはさばけたし、単にさばけたどころかこの思惑はまれに見るブロックバスターを叩き出し、まったく買い手のつかないしょうもない区画が飛ぶように売れた。こうした宅地はほどなく遺伝子ゲットーと呼ばれるようになり、いつしか四方を重厚な柵で囲った要塞にまで発展したのである。  それでも足りないと言わんばかりに、警察権の一部を買い取った不動産業者所属の警察官がまったく合法的に武装したおっかないかっこうで警備する、という仕儀と相成った(これはむろんだめ押し的な意味合いが強い。監視カメラや指紋認証システムで完全にガードされた遺伝子ゲットーの電子警備システムからすれば、人間の目なんかは盲人のそれに等しいのだから)。  そしてそれらは畏怖を込めて、歴史的な戦争に名を残す要塞や牢獄の名前で呼ばれるようになった。参考までに記しておけば、根岸の出身地は〈バスティーユ〉だし、いまから現場検証するのは〈アルカトラズ〉である。      *     *     * 「どうもお疲れさまです。ジーン・デベロップメント保安部ですけど」  わたしたちは億劫そうに手帳を見せた。いまでは警察手帳も細分化され、われわれのやつには右下に小さく「ジーン・デベロップメント所属」とある。デザインも思い切って刷新されており、徽章は旭日章じゃなく会社のロゴだ(これが果たして警察手帳と呼べるのかという哲学的な問題に興味のある向きは、2060年の最高裁判例を参照されたい)。 「現場検証のお約束ですね。うかがってますよ」〈アルカトラズ〉の武装警察官も面倒そうに手帳を見せた。向こうのは大手不動産業者のロゴだった。「森下かすみさん、日下部真琴さん、根岸善幸さんの3名ですね」 「いかにも。すまんがちょっとお邪魔するよ」先輩が入り口――120ミリ戦車砲の集中砲火にも耐えられそうな鉄扉――に近づこうとすると、やんわりと押しとどめられた。 「その前にまずはこちらへどうぞ」  案内されたのは詰所で、内部は狭苦しかった。安物のデスクに壁紙すら張られていないむき出しの白い壁。もう一部屋あるらしく、奥に続く扉がひとつあった。たぶん仮眠室だろう。この間取りから次のような厳然たる事実が演繹できる。『不動産業者がサービスするのはゲットー内部にまします富裕層であって、雇われの警備員にではない』。 「すいませんが、外部のかたにはエックス線検査を受けてもらってまして」 「おいおい、国際便に乗ろうってんじゃないんだぜ」先輩は苦笑混じりに、「あんたんとこのゲットーをちょいとのぞかせてほしい。そう言ってるだけなんだがね」 「規則なんですよ」 「あたしらは民間に払い下げられたとはいえ、れっきとした警察で、あんたもそうだ。そのあたりの融通は利きそうなもんだと思うけど」 「規則なんですよ」警備員はすまなさそうにくり返した。 「ボス、おとなしくしたがいましょうよ」根岸が女傑の肩をぽん、と叩いた。「俺の実家もこんなあんばいですよ。うっかり身分証を忘れて里帰りしようとしたが最後、〈バスティーユ〉じゃYG性格検査まで受けさせられるんだから。ここはまだまし」 「そうかい。ま、気のすむまでやってくれ」 「すいません、ほんとに」  われわれはエックス線走査を受け、武器をすべて預け、入退室記録をつけ、部外者の行動心得といった趣の動画(12分)を視聴させられ、あげくに簡易型滅菌処置までついてきた(これらのすべては詰所に併設された多目的検査室とやらで実施された。所要時間はぎりぎり1時間におさまったが、それは慣れている根岸が要領を心得ていていちいち指示してくれたからで、そうでなければ日をまたぎすらしただろう)。 「どうもお疲れさまでした。ではなかへどうぞ」  鉄扉の横に据えつけられたコンソールボックスを鍵で開き、警備員が軽快にパスコードを入力していく。始まった当初は8桁くらいだと高を括っていたのが、いつまで経っても終わりそうにない。やつは大まじめな顔をして、目にも止まらぬ速さでカタカタやっている。 「ちょっと待ってください。なにを遊んでるんですか」  彼は無言でくちびるに人差し指を当てた。黙れということらしい。  わたしは釈然としないままそうした。腕を組んでこの喜劇を見守る。依然入力は続いているが、これはいったいなんのまねなんだ? お茶目な警備員さんを演じてわれわれをからかってるのか? だとしたらちっともおもしろくない。  数世紀ほども経ったころ、警備員が額の汗を拭って大きく息を吐いた。「ふう、毎度骨が折れますよまったく」 「もしかして」わたしは息を呑んだ。「いまのが全部パスコードなんですか」 「そうですよ。さっきはすいませんでした。横から茶々を入れられると語呂合わせが飛んじゃうんです。3回まちがえると外部からの入力を受けつけなくなって、それを解除するのにメーカーへ連絡する破目になる」 「メーカーへの通報1回につき減給のペナルティですよね、確か」と訳知り顔で根岸。 「よくご存じで。コードを覚えてられなくなったときが退職日になるので必死です。世間じゃ8桁程度のパスワードを忘れて大騒ぎしたあげく、結局思い出せずに変更をくり返す連中がいるようですけど、そいつらは実におめでたいと思いますね」  わたしは非常に言いづらいことを指摘した。「いまのをメモしておけば定年まで勤められるんじゃないですかね」 「保安上の規則で、いかなるかたちであれパスコードを書き残しちゃいけないことになってるんですよ」彼は得意げに自分の頭をつついた。「このなか以外にはね」 「そいつは、あー」適当な言葉が見つからない。「ご苦労さまです」  コンソールボックスのライトがレッドからグリーンに点灯した。「ようこそ〈アルカトラズ〉へ」 「こいつはちょっとしたもんでしょう」警備員(和泉という名前らしい)は誇らしげにあたりを指し示した。「ここら一帯、全部が〈アルカトラズ〉内部なんですよ」  遺伝子ゲットーといってもしょせんは高級住宅地にすぎない。たんにおっかない柵の張り巡らされた内か外か。それだけのちがいだ――などと早合点するのは大きなまちがいである。なかは完全に別世界だった。 「ここは以前、郊外のベットタウン用地建設場としてうちが買い上げてたんですが、緑地化でうまい空気を吸い放題! の誘い文句がむなしく響くほど不便な場所だったのが災いして、派手に広告を打てば打つほど費用だけがかさむというあんばいでして。まったくといっていいほど土地が売れなかった」  われわれは和泉氏の後ろにくっついて、蟻の行列のごとくぞろぞろと練り歩いている。無計画に建て増しされて美観を損なう都市部とちがい、なんと整然としていることか。郊外という土地柄を生かした自然一体型の見事な区画整備である。  車道はなく、絵本から飛び出してきたような歩道だけの風景(車は原則乗り入れ禁止なのだ)。自転車と歩行者がのびのびとそぞろ歩き、公園では誰憚ることなく野球をやる少年たちの姿が見受けられる。薄汚い〈プレーン〉のガキどもと触れ合わなくてよいのもさることながら、ここでは事実上交通死亡事故がゼロなのだ。 「そこに遺伝子ゲットーというマーケットが鳴り物入りで舞い込んできた。うちの用地買い入れ担当者は涙を流して喜んだそうです。固定資産税で会社の利益を食いつぶすだけの土地が、見込み価格の数十倍で飛ぶように売れたんですからね」 「なるほど。その金で想像上の囲いだなんてけちくさいのはやめて、本物をこうして建設できたわけだ。遺伝子という言葉が一人歩きしてる昨今、放っておいても集客はできるから、おたくらは需要に合わせて土地を買い入れ、柵を伸ばしてくだけでいい。こいつはぼろい商売ですな」 「このマーケットに目をつけた当時の担当者は、きっと悪魔に魂を売った代償にアイデアを授けられたんでしょうよ」  われわれは儀礼的に笑った。 「柵はご覧の通り、並みの人間じゃとても越えられない高さです。直立してるばかりかとっかかりもほとんどないので、この壁を乗り越えるのはまず不可能でしょう。腕の立つクライマーでない限りはね」  われわれはがん首揃えてそびえたつ障壁を見上げた。ゆうに3メートルはある。だめ押しに有刺鉄線まで張り巡らされている。〈アルカトラズ〉とはよく言ったものだ。 「あの棘にはなにか仕掛けがあるのかい」と先輩。 「嘘みたいに聞こえるかもしれませんが、高圧電流が通してあります。触れれば最悪命に関わるレベルのね」 「いよいよデスマッチのプロレスみたくなってきましたなあ」根岸は苦笑している。「うちの〈バスティーユ〉もここまではやってなかったぜ」 「あっちはすでに開発の進んでた居住地を無理やり改造したエリアですからね。うちはさっきも言ったように始めから遺伝子ゲットーとして設計してある。そこに強みがある」 「こりゃ外からの侵入はまず無理でしょうなあ」わたしは嘆息した。「そういえば住人も入るのにあんな苦労をするんですかね、和泉さん」 「まさか。指紋認証と網膜認証をパスするだけで入れますよ。あなたがたが潜ってきた鉄扉の横に小さな通用門があったでしょう。ふつうはあれを通ってますね」 「わかったぞ!」森下さんは手を叩いて叫び出さんばかりだ。「住人が四苦八苦して指紋やら光彩やらを調べられてる隙に、例の泥棒は影送りでもするふりをしながら近寄って、そいつが入るのに合わせて滑り込んじまえばいい。電車の無賃乗車(キセル)と同じ要領でさ」 「残念でした」とまたもや訳知り顔で根岸。「たいていのゲットーには住民を認識できる監視カメラがほとんど無限といっていいくらい大量に据えつけられてます。もちろん入り口にもね。住民以外の人間がある一定のラインを越えて近づこうものなら、空襲警報並みのアラームが鳴り響きますよ」 「ひとつ補足。うちの場合は攻撃警告が発せられ、規定時間内に防衛ラインから退去しない場合には銃撃されますよ」和泉氏は親指で銃眼を指さした。「といっても犯人にとって幸いなことに、出てくるのはアーク放電ですけどね。そいつで行動の自由を奪っておいて、あとはぼくたち人間の警備員がしょっぴくと」  沈黙が訪れた。やがておずおずと先輩が、「外部から正攻法で忍び込もうとするのは無理。これでいいかな」 「〈アルカトラズ〉が建設されてからこのかた、外部からの侵入を許したのは今度の事件が初めてですよ」 「地面を掘ってトンネルをこさえたとか」わたしは言ってみた。 「地中にもたっぷり3メートルの障壁が設けてあります。それだけ深い穴をぼくらに気づかれずに掘りきるのはまず無理でしょうね。仮に内部へ浸入できたとしても、どっちみち監視カメラがあるわけだし」 「らちが明かんな。とにかく空き巣に入られた家へ案内してくれ」  和泉氏はさんざんっぱら上司に怒鳴られながらも、なんとかアポを取ってくれた(くどいようだが彼らは不動産業者所属で、かつ限定的警察権しか与えられていない。古きよき時代みたいに裁判所をせっついて手に入れた紙切れ一枚ぽっちだけで、ずかずか土足でよそさまの家へ踏み込んでよいはずがない。それが自分たちの顧客であればなおさらだ)。 「このゴタゴタで首になったら恨みますよ」案内しいしい、彼は渋面を作った。 「そんときはうちにこい。ここよか待遇はましなはずだと思うよ」  森下さんは思いつきを無責任にしゃべる悪癖がある。新卒も中途もいまは採用を控えているという事実は伏せておいた。あんなにはしゃいでいる青年を地獄へ叩き落す権利なんか誰にもありゃしない。 「着きました。ここです」  3階建ての現代風なたたずまい。派手さこそないがまさに上流階級が住むべき家屋といった風情だった。なにより庭に力が入っている。夏野菜の家庭菜園まであるのだ。わたしの実家のそれと比べてみるがよい。雑草のはびこった猫の額。完敗だ。 「これはどうも」サンダルをつっかけた30代くらいの女性が出てきた。不機嫌そうに眉根を寄せている。「あの、捜査にはすでに協力したと思いますけど」 「われわれはこういう者ですが」根岸が得意げに手帳を見せびらかしたが、特段の反応はなかった。警察の威信は地に堕ちたのだ……。 「失礼しました」根岸を体当たりで退場させつつ、「実はお宅が空き巣に入られたと聞きましてね。確か被害はお子さんの帽子だったとか」 「だから、全部管理会社の警察に話したんですけど。あなたたちはなんの権限があってあたしの代休を台なしにしてるわけ?」 「すぐすみますので、なにとぞ」平身低頭作戦でいくことにした。こういうのは性格上苦にならない。得意でさえある。「この通り」  下等生物を憐れんでいるかのようなため息。「うちは共働きで、子どもはあたしか夫が迎えにいくまで学校で預かってもらってる。だから遅くまで家には誰もいないのね」  孵化機によって確かに子どもは格段に作りやすくなったものの、そのあともケアしてやらねば結局元の木阿弥である。したがって私立学校は補助金を国庫からぶんどって、忙しいパパとママの代わりに放課後もガキどもの面倒を見てやっているのだ。両親のライフスタイルを侵害しない子育て。これが当世風である。 「鍵をかけてなかったと聞きましたが、ずいぶん不用心に思えますね」 「日下部さん」根岸がそっと耳打ちしてくれた。「遺伝子ゲットーじゃ鍵なんかかけないのがふつうなんですよ。住民は不動産業者の万全な警備体勢込みでこの土地を買ってるんだから」 「それにしてもだな――」 「鍵をかけるとご近所との信頼関係にも響くんです。俺たちを信用できんってのか? とまあ、こういうわけで」  さすが〈バスティーユ〉に実家があるだけあって内部事情に詳しい。どうも世人には理解不能なわけのわからない規則があるようだ。 「家に帰ると部屋が荒らされてました。ほかにも盗まれたものがあるかもしれないけど、とにかくうちの子の帽子がなくなったのだけは確かね」じろりと和泉氏を睨みつける。「ねえ、なんでアラームが鳴らなかったわけ? もう故障してたってのは聞き飽きた」 「それがなんとも不可解でして。なにかわかり次第ご連絡します」  先輩が驚いたように目を見開いた。「個々の家にも警報装置がついてるのか?」 「ええ。外周に張り巡らされてるのより性能は劣りますけど、住民以外の人間は捕捉され次第、けたたましい轟音のなかを逃げ惑う破目になります」家のあるじの刺すような視線に、青年は2インチも飛び上がった。「すいません、逃げ惑う破目に」 「どうもおかしいな。すると空き巣は魔法みたいによそからやってきて、これまた魔法みたいにお宅へ浸入し、帽子をかっぱらってったことになる」  バイオテク企業にお勤めでない善男善女にとって、シラミのたかったガキの帽子のどこに命を賭ける価値があるのか理解に苦しむかと思う。ところがちゃんと理由があるのだ。それは以下の通りである。  帽子には高確率で抜け毛が付着している。いっぽう髪の毛から細胞を抽出し、それの染色体からうちの商品を失敬できる。〈アルカトラズ〉はジーン・デベロップメントと提携しているゲットーなので、内部の人間はうちのパッケージ遺伝子をお得意さま価格で購入できる。したがって事実上、このエリアの子どもたちはみんなうちの商品のなんれかを埋め込まれているはずだ。  結論:抜け毛(帽子)はお宝である。 「われわれも頭痛の種なんですよ、今回の事件は」和泉氏はこめかみをもみながら、「なんらかの不具合があって警報装置が作動しないのなら一大事だ。〈アルカトラズ〉の資産価値が下落しちまう」 「いちばん困ってるのは空き巣に入られたうちなんだけど。こんなにぞろぞろ連れてきて、結局なんにも解決しそうにないじゃない」 「事情はだいたいわかりました。ご協力感謝します」嫌味になるくらい深々と頭を下げた。 「で、解決できそうなの」 「どうでしょうね。鋭意努力はしますが」  わたしと彼女とのあいだで火花が散った。もしあいだに鉄板があれば、おっかないこの女から発せられるビームによって光電効果が観測されたであろう。やがて騒々しい足音を立てて家へ引っ込んだ――と思いきや、玄関口からひょっこり顔だけ出した。われわれを右から左へ順繰りに睨みつけたのち、乱暴に扉を閉めて今度こそご退場あそばせた。  額の汗を拭い、その場にくずおれそうになるのをなんとかこらえた。「ああおっかなかった」 「あたしはこういうつじつまの合わない話が大嫌いでね」保安部門長は大きく伸びをして、首のこりをほぐした。「お手上げだね、和泉くんには悪いけど」 「そんなあ」彼は子犬のような瞳で根岸に無言で訴えかけたが、やつは肩をすくめただけだった。「日下部さん、俺の首がかかってます。なんとかしてくださいよ」 「とにかく、私立小学校のほうも訪ねてみましょう。なにかわかるかもしれない」
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