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 仕事のことで相談したい。これなら断られるおそれは少ないという結論に最終的に達した。そして実際に了承されたのだ、2人きりの夕飯が!  とはいえこっちだけデートのつもりで格式高い店を選び、結果的に香苗が罠にはめられたと感じては元も子もない。かといって牛丼屋が最適解かといえばたぶんちがう。悩みに悩みぬいたあげく、大衆的であるもののちょっぴりお高いステーキ店にした。 「真琴さんと2人きりでごはんなんて、あたし嬉しくって」白衣でない私服の香苗はほとんど神々しいほどだ。「ほら見て、がんばってオシャレしちゃった」  夏らしい白の袖なしブラウスの上に薄手のカーディガンを羽織り、下は短めのスカート。ステーキの油がはねないのを祈るばかりだ。 「新鮮だなあ。いつも凛とした研究者って感じだもんな」 「あたしだって一応妙齢の女の子なんだから。もっとほめてくれなきゃすねますよ」  わたしはメニューを眺めているふりをした。「かわいいと思うよ、すごく」 「えへへ、嬉しい」  気恥ずかしい雰囲気のなか端末で注文をし終え、あとは料理を待つばかりだ。 「めずらしいですね、真琴さんから誘ってくれるなんて」  本当はもっと頻繁に誘いたいのだが。「そうかな。最近どうだい、調子は」 「火星人遺伝子って知ってますか、真琴さん」 「あれの担当なのか、もしかして」にわかに湧き起こる興奮。 「実はそうなんです。ちょっと浮世離れしてますよね。もうなにから手をつけていいものやらさっぱりで」 「ぼくは俄然応援するけどな。火星に適応した人間を作り出す。夢があるよ。確かうちの営業がNASAとの契約を入札で落としてきたんだろ。金ばっかりかかるしょうもない計画だって本国でも猛烈にバッシングされるなか、それでも予算を勝ち取り続ける職員たちの情熱と技術者魂。まったく恐れ入るね」 「ええと、真琴さん」これは聞こえなかったらしい。わたしは恍惚とした表情で続ける。 「わかるよ、火星になんていまさら有人飛行してどうなるんだって話だろ。そうじゃないんだよ! どいつもこいつも二言めには金と実際的な応用のことばっかりだ。そういうやつに限って知的好奇心なんざはなから持ち合わせちゃいないゾンビ野郎だって相場は決まってる。そうでしょうが?」 「あ、あたしもそう思います」 「そりゃ確かに地球にはまだ人間を受け入れる余地はあるし、無理して火星くんだりまでいく必要はないよ。でもよその天体にたとえ少数であれ、人類が恒久的に住みつく。この事実そのものが記念すべき偉業なんじゃないかね。この計画は1世紀前の冷戦時代みたいに、軍事的な理由でなされるんじゃない。純粋な知的好奇心が発端なんだ」 「真琴さん、もしかして――」 「合衆国でこの計画を頓挫させるべく、一部の州で反対運動が起きてるらしいけど、ぼくはそいつら全員の息の根を止めてやろうってひそかに画策してる。こういうラッダイトじみたことをする連中は無条件で極刑に処すべきなんだよ。そうでしょうが?」  焼きたて熱々のステーキが暴走を止めてくれた。「油がはねますのでご注意ください」  慌てて紙ナプキンで障壁を作った。つり目できつそうなウエイトレスが手際よく仕上げをし、一礼して去っていく。それを眺めているうちに頭が冷えてきて、先ほどまでの管巻きがありありと脳裏に反芻される。やっちまったのだ。 「真琴さん、もしかして宇宙のこと好きなの?」  観念するよりあるまい。目を閉じて鼻から大きく息を吐き出す。「まあね」  肉の焼ける香ばしい匂いが鼻腔を刺激する。おまけに腹が鳴った。わたしのじゃない。いっぽう香苗は顔を真っ赤にしてうつむいている。「あ、あたしじゃないもん」 「わかってるさ」首をめぐらせて食いしん坊そうなやつを物色する。いた。少し離れた席に関取みたいなおっさんがでんと居座っている。「きっとあいつの腹の虫だろうな」 「そうに決まってますよ。とにかく食べましょ」  各自サラダバーから大量に葉物やらトマトやら豆腐やらを仕入れてきて(これくらいの歳になると、200グラム程度の肉を食べるのにその倍は野菜がないと胃が受けつけないのだ)、ようやく準備完了である。 「貴重なお時間を割いてもらって本当にありがとう。本来なら勤務中にそっちへ聞きにいくべきなんだけど」 「木下部門長がいるもんね。わかってますよ」微笑みながら人差し指と親指で環を作ってみせた。 「実は〈カスタム〉証明について聞きたいんだけどね」  ごまドレッシングのかかったレタスを頬張りながら、「いいですよ」 「あれが発行されるまでの手順と、ついでに保管規則を教えてもらえるかね」 「ほかでもない保管規則のせいで教えられないんです。たとえ同じ会社の人でもね。ごめんなさい真琴さん」 「そうか」やはり正門――木下部門長――からいかねばならないのか。「悪かったね、無茶言って」 「なあんてね!」ぺろりと舌を出した。「真琴さんとあたしの仲じゃないですか。固いことは抜きですよ」  固いものを抜くだって? ええい黙れ。「かなさんの立場が悪くなったりしないか」 「しますね、たぶん」 「じゃ、やめよう」 「いいの。あたしが真琴さんの役に立ちたいだけなんだから」 「前から聞きたかったんだけど、なんでそうぼくに便宜を図ってくれるのかな」 「なんででしょうね。一人っ子だからお兄ちゃんに憧れてるのかも」 「なるほどね」いまのはまぎれもない脈なし宣言である。代替お兄ちゃんかよ……。「よき兄貴でいられるよう、鋭意努力する所存であります」  ひとしきり笑ったあと、肉が固くならないうちにお互いやっつけ始めた。たったの200グラムぽっちをぺろりと平らげられなくなっているのには閉口した。すぐに野菜がほしくなる。レタスがこんなにもありがたいなんて夢にも思わなかった。 「さて、お言葉に甘えてもいいかなお嬢さん」 「〈カスタム〉証明についてでしたね」  この書類の正式名称は付加遺伝子組み込み証明書というのだが、それでは全部言い終わるあいだに3回は舌を噛む可能性があるので、前述のように略すのが通例である。この書類は出生証明書の親戚みたいなもので、当該の新生児が確かにM型染色体とそれに付随する付加遺伝子を組み込まれていることを証明する――要するに〈カスタム〉であるとメーカーが責任を持って保証する書類なのだ。  当初はのちに禍根を残さないため(子どもが大きくなったあとに、組み込まれている遺伝子の効果が一向に表れないのはおまえらがその処置をしてなかったからだ! というようなトンデモ訴訟の芽を摘む目的だった)、自衛手段として発行されていたのだが、時代が下るにつれて書類の存在意義が能動的になってきた。  というのは、こないだ訪問した〈アルカトラズ〉や対攻囲戦想定小学校に入るために、いまじゃ第三者による公式の書類を提出するのが習わしになっているからだ。  高級住宅地は少なくとも家族の1人以上が〈プレーン〉であることを販売条件にしている(たいていは子どもがその1人に勘定される)。そしてもちろん、それこそが本来であれば二束三文のはずの土地をバブル期なみの値段にまで高騰させている要因なのだ。不動産業者としてはまちがっても〈プレーン〉を紛れ込ませるわけにはいかない。客の「俺は/あたしは〈カスタム〉だ!」だけを信じるのはリスキーすぎる。客観的な保証がほしい。  小学校のほうも事情は同じだ。古くから名門私立は入学試験によって児童を選別していた。まったくかわいげのないエリート坊主どもが揃っているからこそ、名門は名門たりえたわけだ。ならばその条件を「〈カスタム〉であること」にすり替えてどうしていけないわけがある? とはいえ例によって「ぼくは/あたしは〈カスタム〉です!」は信用ならん。客観的な保証がほしい。  もうおわかりだろう、両者の切迫した嘆きを解決したのがほかでもない〈カスタム〉証明である。 「最近じゃ用途が広がっちゃって、軍事機密書類みたいな扱いになってます。これがないだけで居住地の選択肢がいくつか削られたりしますから」 「言わんとしてる意味はわかってるつもりだ」 「そういう事情もあって発行については厳密な決まりがあるのね。①当該新生児出生から72時間以内に発行、②書類はデータでの電子証明書は禁止とし、ハードに印刷したものを一部だけ発行する、③細胞採取の結果をもとに詳細まで明記。こんなところです」  こめかみをもんで頭を働かせる。こういう格式ばった文言はすこぶる苦手だ。「書式のサンプルはあるかな」 「ありますよ。どうぞ」端末を貸してくれた。  しばしのあいだ、端末とにらめっこした。やたらに文字が小さいので間もなく目が痛くなってきた。目をこすってからしばたき、大げさに見開いてみる。「この技術詳細は別添ってやつが気になるな。どんなあんばいなんだい」 「画面を横へスライドさせてみて」  わたしはそうした。「うへ。興味を持ったぼくが愚かでした」  画面にはシトシン、グアニン、アデニン、チミンの化学構造式から始まり(ベンゼン環が悪夢のように連なっている例のあれだ)、それらがリンを主軸とした二本の鎖をどのように水素結合させているかが述べられている。  むろんそれは序章にすぎない。お次はM型染色体の簡易構造が(本文によれば詳細は割愛して)記載されているのだが、そのせいで画面は構造式と数式の海と化している。そしてここからが本番になる。  いよいよ愛するわが子に組み込まれた付加遺伝子の塩基配列が、ひとつの塩基も省かれることなく長々と続く。これらを駆け足でやりすごしてもまだ終わらない。今度は〈ジーニアス〉やら〈ヘルメス〉やら〈アフロディテ〉やらが、どのような根拠で宣伝文句のような奇跡を起こすのかが詳細に記述されている。  ここでは〈ジーニアス〉の効能を一部抜粋するだけにとどめよう(どうしてもというのなら全文掲載するにやぶさかじゃないが、たぶん睡眠導入の一助になるだけだろう)。 ①海馬に含まれる神経細胞の増量  長期記憶の貯蔵庫である海馬の容量を増やすことにより、学習の効率化、対暗記科目特化などが副次的に期待できる。記憶力の強化はたんにもの覚えがよくなるだけでなく、勉強した内容を容易に保持できることから総合的な学習効率の改善につながるであろう。 ②ミエリン鞘の増設による神経パルスの高速化  ニューロンをつなぐ軸索および樹状突起には、ミエリン鞘(髄鞘)と呼ばれる特殊な細胞が付随している。当該細胞はニューロンへの栄養補給を受け持つだけでなく、それに巻きつくことにより神経パルスの高速化に寄与してもいる。  神経パルスはカリウムイオンとカルシウムイオンの流入調整による電位差によって生じ、この流れが次々にニューロンを活性化し、最終的な思考となる。ミエリン鞘がそれを補助するのであれば、それが多ければ多いほど思考速度も増加すると類推できる。それはアドリブや明敏な判断をより正確かつすばやく下す一助になるはずである。 (中略) ※今後の〈ジーニアス〉について  当商品は黎明期よりヴァージョンアップをくり返し、その都度確かな実績を残してきた弊社のメイン商品である。まだ研究段階ではあるものの、シナプス間を渡る化学物質のコントロール、交感・副交感神経の任意切り替え、レム睡眠時間の延長による情報処理の効率化などを目下、研究中である。  第二子、第三子をお考えの際にはぜひ、さらなるヴァージョンアップを遂げた〈ジーニアス〉の組み込みをご検討いただきたい。 「これ誰が書いてんの」顔を上げて目を閉じ、こめかみをもむ。「ユーモアのかけらもないぜ」 「研究部のみんなが持ち回りでやってます。あたしのときはもうちょっと噛み砕いて書いてるよ。見ます?」 「またの機会にとっとくよ」 「残念。で、なんで急に〈カスタム〉証明が気になりだしたの」香苗はサラダバーからくすねてきた山盛りのトマトを機械的に口へ運んでいる。 「ちょっと仕事でね」本当に野菜がうまい。どちらかというとステーキのほうがおまけみたいな扱いだ。「それはともかく、見たところこいつを偽造するのは骨が折れそうだな」 「骨が折れる? 真琴さん、考えが甘いですよ――ちょっと待ってて」呆れたことにこれでサラダバー三度めのおかわりだ。葉物で皿を埋め尽くして戻ってきた。「この書類の表紙がなにでできてるか知らないでしょ」 「ご教示願おうかね」 「実はあたしも知らないんです」ぺろりと舌を出した。 「一応真剣な相談なんだがね」 「だから本当に知らないんです。ひとつ言えるのは、まちがってもA4のコピー用紙じゃないってことくらいかな」 「説明してくれ」わたしは匙を投げた。  彼女は無言で端末を差し出した。訝しみながらも受け取る。画面には古代エジプトの遺跡から出土したとおぼしき石版がでんと写っていた。「どこの博物館で撮ったんだい」 「それが表紙なんです。材質は超ウラン元素とも門外不出の有機化合物とも言われてるのね。聞いた話だと耐火性に優れてて、五千度くらいまでは焦げ跡ひとつつかないとか」 「それが本当なら重化学工業に革命をもたらす大発見だと思うんだがなあ」 「ところがですよ」彼女はわざとらしく秘密めかして、「製法を秘匿するためにあえて――いい、あえて特許すら取ってないんだって。いちばんの謎は、この向かうところ敵なしのアルティメット樹脂にどうやって文字を蒸着させてるかって点。あたしのお気に入りはずばり、念写ですね」 「いったいどうして表紙をそんな大げさにしなきゃならんのだ」言ったそばから自分で気づいた。「もしかして偽造防止目的ってことかね」 「さっすが真琴さん!」  ようやくうちのパッケージ遺伝子が断トツで人気な理由がわかった気がする。  いくら特許を取っているとはいえ、その請求項目に引っかからないように類似商品をこしらえて販売することは決して不可能じゃない。  そもそも特許権保護されているからといって、特許庁の職員が日々、それが侵害されていないか市場を絶えず監視してくれるわけでもない。それは権者に一任されている。バッタモンを見つけるのも権者、特許権侵害か否かを争うのも権者の判断いかんにかかっている。魔法みたいに侵害者から特許料やら損害賠償金やらを徴収できるのではぜんぜんない。  にもかかわらずなぜ、ジーン・デベロップメントの付加遺伝子はロングヒットしているのか? その秘密はおそらく〈カスタム〉証明の偽造不可能性なのだろう。うちにさえ頼めば確実に高級住宅地や要塞私立学校にわが子を潜り込ませられる。  よそで発行されるすぐにでもなくしそうなA4コピー用紙や、悪意ある第三者によって数億部も複製されるおそれのある電子証明じゃなしに、10キログラムはあろうかというリトグラフは遺伝子教信者にとってこたえられない魅力になるはずだ。 「ありがとう、納得したよ。〈カスタム〉証明の偽造は不可能。そういうわけだな」 「そんなとこです。あたし、お役に立てました?」  人差し指と親指で環を作る。「大助かりだよ」 「えへへ、嬉しい。で、真琴さんの仕事を手伝った報酬はなんになるのかな」 「ここの会計はぼくに任せてくれ。それで足りるかな」  反応は芳しくなかった。 「わかった、なんでもほしいものを言ってくれ。常識的な範囲内で即日お届けするよ」  みるみる笑みが広がった。「いまの言葉、忘れないでね」  ここでわたしはささやかな予防線――常識的な範囲内という姑息なやつ――がまったくの張りぼてなことに気づいた。消費人材たる保安部門の給料と、主力たる研究部門のそれがなぜおっつかっつなどと思ったのか? その差は歴然だと考えるのが妥当だ。であるならば、彼女の金銭感覚とわたしのそれに顕著な開きがあってもおかしくない。  血の気が音を立てて引いていった。だが前言撤回はあまりにもダサい。初志貫徹するしかない。たとえ今夏のボーナスが宇宙のかなたへすっ飛んでいくにしてもだ。 「じゃ、ほしいもの言いますよ」  息を呑む。18金ネックレスか? なんとかカラットのダイヤか? 「真琴さんの個人情報」 「ぼくのなんだって?」 「だから、個人情報。あたしもっと真琴さんのこと知りたいんです」      *     *     *  レトロな喫茶店に場所を変えたのち、わたしは洗いざらい自分の生い立ちを語らされる破目に陥った。  それは高価な宝石を買わされるよりもある意味でつらい経験だった。わたしは一応〈カスタム〉ではあるものの、埋め込まれたのは当時隆盛を極めていた細菌の環状プラスミドである(制限酵素で切断したプラスミドに好みの塩基配列を組み込み、染色体へ直接挿入する方法。20世紀に確立された技術の応用だったので、人びとの安全性に対す信頼を即座に勝ち取ることができた)。  ちなみにわたしが授かったありがたい付加遺伝子は〈ジャックポット〉である。わたしの生まれた2040年といえばバイオテクバブル全盛期、ちまたには実に独創的な商品が雨後の筍のごとく乱造された時節である。そのころからジーン・デベロップメントの主力商品は販売されていたものの、それらが埋めきれない隙間を狙って効果の疑わしい詐欺商品があふれだしたのである。  予知能力を付与する〈オラクル〉、金持ちになる〈ミリオネア〉、死後の天国いきが保証される〈ヘヴン〉、来世も高確率で人間に転生できる〈リザレクション〉、そして生まれつき宝くじやら福引やらをバンバン当てる強運を持たせる〈ジャックポット〉。  むろんこれらがうたい文句通りの効果を発揮したはずはない。とはいえこのうちのふたつは死んでみないことには効果を確かめる方法はないし、そのほかのクズも客観的な検証は不可能である。金持ちになれるかどうかは死ぬまでわからないし(晩年になにかどえらい商売を思いつく可能性だってある)、長い人生のうちに一回くらいは正夢を見るだろうし、クラスのアイドルが席替えで連続三回、となりにくることだってあるだろう。  詐欺側からすれば、効果のほどをいまいち実感しづらい機能であればあるほどよい。大々的に売り出してがっつり稼いだあと、どこかよそへ高飛びしちまえばすむ。消費者が一本取られたのに気づいてクレームだ訴訟だと喚き始めたころには、連中の影もかたちもないという寸法である。  さて、プラスミド方式は主流商品よりはるかに安かったために一時期トップシェアを誇ったものの、のちに活性酸素感受性が高かったりウイルスによる遺伝子変異に弱いという致命的な弱点が露呈したため、瞬く間に市場から姿を消した。そのあまりに短命なさまをあざけって〈月下美人染色体〉などとのたまう向きもある。  そのあとを襲うかたちで人工染色体の決定版であるM型染色体が人口に膾炙した。いまでもこの流れは覆されていない。精力的に輸出もされており、いまや全世界に広がる勢いなのだ。  こうした流れを鑑みて、満を持して2052年にワトソン・クリック条約が発効し、一部の頑固者を除くほぼすべての国が批准した。それによって人工染色体の規格はM型のそれだけに統一され、その他の規格は事実上の廃業を余儀なくされた。  生殖工学市場の強硬な反対を押し切って採択がなされた背景には、M型がヒット商品だという理由以上のものがあった。異型の人工染色体同士が結合したときの受精率のちがいがテストされた結果、対照群と比べて有意にそれが低いという衝撃的な事実が露呈したからだ。この研究結果を大胆に要約すると次のようになる。 プラスミド式(およびその他の有象無象)とM型が結婚しても子どもはまず生まれない  これは即座にM型染色体を埋め込まれなかった連中を、事実上の不妊だと断定する根拠にはぜんぜんならない。体外受精で当該の精子もしくは卵子にあらかじめM型染色体を埋め込み、それを使って受精させればよいだけの話なのだ。したがって哀れなプラスミド保持者であるわたしが、由緒正しいM型染色体保持者の異性に引けめを感じる必要はどこにもない。ひと手間かければ受精は可能なのだから。  だがそれはプラスミド側の主張にすぎない。向こうがわれわれをどう思うかはまったくの別問題なのだ。これが被害妄想でない証拠に、わたしはいままでさんざんな目に遭ってきた。非正統染色体保持者に対する的外れな嫌悪感というかたちで。  純正〈カスタム〉たる彼女らは両親から徹底的に洗脳されている。いわく、「M型以外の人間とは付き合うな。〈プレーン〉なんかは問題外。同族とだけおまえはすごしてればいい。結婚を考える相手が現れたときには、必ず〈カスタム〉証明を提出させろ。大事なことだからくり返すぞ。純正〈カスタム〉以外の人間は野猿だ!」  人並みに思春期を迎え、人並みに好きな女の子をこしらえたわたしの末路がどうなったかは、いまさら語るまでもないだろう。初恋の相手が〈カスタム〉だったのが返す返すも悔やまれる。小学校6年生という容赦を知らない年齢もまずかった。彼女はこう言った。 「あのね日下部くん、あたしママとパパに遊んじゃだめだって言われてるから」  その後も試練は続いた。好きになるすべての娘が〈カスタム〉だったわけではもちろんない。なかには〈プレーン〉の女の子だっているにはいた。  最悪なのはプラスミド式の天下が2年弱で終わったため、わたしの同類は限りなく少ないという点である。〈カスタム〉×プラスミドは当然だめだが、〈プレーン〉×プラスミドも受精卵にいたらないことがのちに判明した。われわれは生殖ゲームから隔離されたも同然だった。 〈カスタム〉が相手なら、子どもを作る際にちょいと精子へM型染色体を組み込めばよい。 〈プレーン〉が相手なら、子どもを作る際に精子からプラスミドを除去すればよい。  その他の人工染色体同士なら、子どもを作る際に双方の人工染色体を除去すればよい。  たったこれだけのことを誰もが理解しようとしなかった。そして恋愛ゲームに参加することすら困難な男女が、塩田から精製される食塩みたいに現出したのである。  これは誓って本音なのだが、わたしは両親を恨んだことは一度もない(もちろん多感な思春期のときに夜を徹してつぶやいた呪詛はべつにしてだ)。自分たちのできる範囲で子どもにささやかなプレゼントをしたいと願った両親の想いを、どうして酌んでやっていけないわけがある? わたしが生まれた当時、プラスミド式はいかしてた。それだけの話だ。  それにワトソン・クリック条約をぶち上げた国連のお偉方も立派だったと(いまでは)思う。彼らはM型染色体保持者以外の人間を無価値にしたかもしれないが、将来の遺伝的混乱を未然に防いだ功績は評価できる。痛みをともなう決断だったにちがいない。なにかを犠牲にしなければならないとしたら、もっとも絶対数の少ない集団を生け贄にするというのは理に適っている。  そうは言っても両親の善意とか国連のお偉方の将来的ヴィジョンとかがなにかの慰めになるわけじゃ、もちろんない。わたしは現に迫害されてきたし、そのたびに絶望を深めていった。  当然の帰結として、いつしか自分の出自を明かすのはやむをえない場合に限るという鉄の掟を作っていた(最初は〈カスタム〉だと主張していたのだが、のちに純正でない〈カスタム〉だとばれたときの詐欺師扱いに閉口し、以後はまったく黙っているかすっかり白状するかの二択にしている)。  香苗との短い付き合いにおいて、いままでそのやむをえないケースは出来してこなかった。でも今度はちがう。彼女は仕事に対する対価を求めているのだ。だから正直に白状した。差別されてきたという黒歴史もだ。  むろん挽回の物語も嫌味にならない程度に添えさせてはもらった。辛酸をなめさせられた中学時代を乗り越え、日下部真琴は反骨心を抱く。スローガンはこうだ。「傲岸な〈カスタム〉どもをだしぬけ!」。 〈ジーニアス〉を埋め込まれて学習効率の上がった同学年の生徒と張り合うのは、もちろん分のよい勝負とは言いがたい。だからこそやりがいがあった。猛勉強の日々が始まった。幸い健全な男子高校生の気を散らす女の子たちは問題にならなかった。ありがたいプラスミド式染色体が障壁を作ってくれたからだ。 〈ジーニアス〉を埋め込まれた生徒の難関校合格率が有意に偏っているという統計が世間を騒がせていた折り、ひっそりとわたしは悪くない偏差値の大学に合格していた。ちなみにその年の合格者のなかに〈プレーン〉は一人もおらず、すべて〈ジーニアス〉だったらしい。  それのなにが問題かというと、〈ジーニアス〉保持者のなかには明らかにほかの生徒よりテストの成績が劣っていたり、面接でまずい受け答えをしたやつがいたのにもかかわらず、最終的にはちゃっかり合格しているという点である。  遺伝子の恩恵だろうがなんだろうが、彼らがまぎれもなく優秀だったのならまだ文句はなかった。大学側は明らかに、テスト結果と面接の感触以外のパラメータを合格基準として考慮していたふしがある。  にもかかわらずわたしは合格した。〈ジーニアス〉だ〈プレーン〉だとかいうくだらない区別を、連中に忘れさせるほどの結果を叩き出したのだ。むろんそれで終わりじゃなかった。大学に入ってからも苦労は絶えなかった。つねに〈カスタム〉のやつらがえこひいきされたし、中高時代ほどじゃないにせよ、依然として少数派に対する根強い差別は残っていた。よく中退しなかったと自分でも思う。  大学入学ですら特段の理由もなく〈カスタム〉が優先されたことからも想像がつくと思うが、きたるべき就職活動でそうした傾向が過熱したのは当然の流れだった。彼らは二重の意味で有利だった。バイアスのかかった入試で難関校に合格でき、そしてまたぞろ同じバイアスのかかった就活が訪れるのだから。  入試ほどはっきり数字が出ないぶん、企業側はいくらでも言い抜けできたし、現にたいていの人事担当者は次のようにそらとぼけたものだ。「え、採用された学生に〈カスタム〉が多すぎる? やだなあ、そいつは偶然ですよ。優秀な学生を選んでいたら、彼らが残った。それだけのことですからね」。  ところが彼らのなかから裏切り者が現れた。さる大企業の採用担当者が書いたとされる〈企業のホンネ〉という書籍が鳴り物入りで出版されたのである。そこには身の毛もよだつ差別意識が恥ずかしげもなく暴露されていた。この本は古今東西のあらゆる痛罵を独占したが、もっとも手ひどくこきおろされた部分だけをここでは引用するにとどめる。 〈プレーン〉サイドからの反論でよく聞くのが、「良質な遺伝子を持ってようがそうでなかろうが、結局は実力がすべてではないのか。それを基準にして入試なり採用なりを行うべきだ」というものです。  でも考えてみてください。あなたは〈カスタム〉のみで固められた有能そうな取引先と、〈プレーン〉だけが集まる貧民窟みたいな会社があったとしたら、どちらとお付き合いしたいと思いますか? 実際に彼らが優秀かどうかは二の次で、ブランド力を持つ遺伝子を持っているかどうか。これこそ企業の求めている人材なんです!  これを書いた粗忽者が実際に大企業の採用担当者だったのかは大いに疑問だが、重要なのはこんなしろものがバカ売れしたのだという点だ。思えばこの本がきっかけとなって、〈カスタム〉と〈プレーン〉の対立が先鋭化していったのかもしれない。そしていまや〈遺伝子泥棒〉などという穏やかじゃない輩が、こうしてわたしを煩わせている……。  脱線してしまった。そういう事情のなか、わたしはまたもや世間の常識を覆してみせた。大企業には〈カスタム〉しか入れないという例の不文律を。そりゃジーン・デベロップメントは吹けば飛ぶような中堅企業かもしれない。にもかかわらず入社希望者はひっきりなしにやってくる。なぜか?  この会社こそM型染色体を生み出した槇村研究員を擁し、世界的な規格統一の礎になった商品のシェアをほぼ独占している企業だからだ。リース使用料やら製造援助のアドバイス料やらだけで実質、この会社は向こう数世紀ほども存続することができる見通しだ。まず倒産するおそれはない。にもかかわらず不断の努力を持って、ジーン・デベロップメントは付加遺伝子の研究にも余念がない。意識の高い学生に人気なのはこの点だろう。  たとえ保安部門というもっとも野蛮で脳を働かせる必要のほとんどない部署だとはいえ、ここに入社できた理由は涙ぐましいがり勉の結果だ……と言いたいのは山々だが、たぶんそうじゃない。きっと採用担当者は世間体を慮ったのだ。 〈企業のホンネ〉が描いてみせた倫理に悖る方針を露骨に掲げるのは、短期的な効果こそ見込めるものの必ずしもお上品とは言いがたい。ここは〈カスタム〉軍団を編成したい気持ちをぐっとこらえて、クズ人材も多少は雇ってバランスを整えるとしよう。おやおや、プラスミド染色体持ちとは飛び切りのマイノリティがやってきたぞ。こいつを雇っておけば誰からも文句は言われまい――。  自分のみじめな半生を語るのは最上級の悪夢にも匹敵した。適当にお茶を濁してウィットに富んだ小噺にすることもできたはずだ。だが結局、そうしなかった。彼女に知ってほしかったのかもしれない。マイノリティの苦悩をじゃない。  わたしは畏れ多くも彼女を試したのだと思う。お兄ちゃんみたいだとか言って表向き懐いているふりを続ける偽善者の化けの皮を剥いでやろうと。よそよそしい態度を隠し切れていないひきつった笑顔で、「たいへんでしたね。あたしはそんなこと気にしませんよ」と言わせて悦に浸りたかったのだと。お前も結局あいつらと同じだと。  残念なことにわたしの歪んだ意図は達成されなかった。期待したどの反応も香苗は示さなかった。ただ満面の笑みを浮かべてぺこりと頭を下げた。 「話してくれてありがとうございました。これで〈カスタム〉証明の件はチャラですね」  わたしは待った。ところが一向にわざとらしい慰めの言葉が降ってこない。彼女は続けた。 「またなにかお手伝いできることがあったら声かけてくださいね。真琴さんとゆっくりお話しできるから」  タクシーに乗って遠ざかっていく彼女を見送りながら、わたしは必死に自分へ言い聞かせなければならなかった。  いいかよく聞け、日下部真琴。彼女は〈カスタム〉で、お前はそのバッタモンだ。
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