おかえりなさい

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おかえりなさい

音がする。 地面に叩きつける水の音。 ポタポタ雫が垂れる音。 めぐみの音だ。 水は流れ、溜まり、趣くままに。 跳ね、飛び散り、ワルツのように。 それはまるで、私たちの哀しみを洗い流すように。 優雅に、それでいて軽やかに。 空が泣いている。 雨だ。 俺は雨の日が好きだ。 ずっと昔から。 自由に流れる雫。 湿った地面の匂い。 傘を叩く音。 自分の体を優しく叩き、包み込む。 そんな雨が好きだった。 …雨の時期に訪れるものが好きだった。 それは梅雨になると現れる。 雨の訪れとともに現れる。 流れる水のように滑らかな髪。 雫のように澄んだ瞳。 乳白色の肌は、透けてしまいそうで。 純白のワンピースを纏うそれは、お伽話にでてくる姫のように美しく、可憐に。 それの名はーーー 5月末。 今日も世界は平和である。 いつもとなんら変わりなく、俺はどこにでもいる中学生で、平凡な日常を過ごすのだ。 ただ一つ違うのは。 今日は雨である。 俺はいつも通り、トーストしたパンにバターをたっぷり塗って、先ほど焼いた目玉焼きを乗せる。そんな手抜き朝ごはんをそそくさとすませ、着替えやらなんやら支度をして、玄関で傘を引っ張り出し、俺以外には誰も住んでいないこの家を出る。 アパートの階段を降りて、傘をさす。 ーー傘を叩く音がする。 俺の好きな音。 雨の日は、いろんなことを考える。 昔のこと、今のこと。 …梅雨に現れるあいつのこと。 「そういえばそろそろか」 きっともうすぐやってくる。 学校に着き、授業が始まる。俺はずっと窓の外、濡れる世界を見ていた。 俺は勉強が特別好きなわけではないし、できるわけでもない。 友達は好きだけど、ずっと一緒だとかは思わないし、 一応グループに入ってはいても、みんなの話に適当に相槌をうつだけなら、 自分がいる必要はないんじゃないか、と思ってしまう。 昔から、「人当たりがいい奴」としてやってきたけど、そういう奴はそれ以上にもそれ以下にもなれないらしい。 俺はずっと、人付き合いが上手いように見えるだけで、実際は、嫌われるのが嫌だし、必要以上に近寄りたくなくて、人と距離をとってしまう。 あの輪に入りたいと思いながらも、自ら遠ざかってしまう。 捨てられるのは、怖いことだ。 俺は、ずっと一緒にいてくれる人が欲しかったんだ。 放課後。 これから帰る人、部活に行く人、友達と遊び行く人。 いろんな人が混ざり合って、規律正しく授業を受けていたのが、ぐちゃぐちゃと崩れていく。 賑やかな声がそこらじゅうで響く。 「なんだよ雨じゃん」 隣で、窓を覗きながら、佐藤というありきたりな名字を持つ友人Aが言った。 佐藤は俺のいるグループのムードメーカーで、なんというか、子犬のような奴だ。 遊んで欲しそうに目を輝かせるところとか、尻尾を振る子犬に似ている。 にもかかわらず背は高い方で、いつもいい感じにはねた茶髪がチャラさをかもしだしてる。でも実際は一途なやつだ。 「これじゃあ遊べねえっ」 とふてくされる佐藤を 「まあまあ、また今度にしようぜ」 となだめる。 「そうそう、今日は潔く帰りましょー」 と椅子の背もたれを前にして座っている、黒髪で右目側の前髪がやたら長い友人Bこと柏木は、いつも通りゆるく開けた目と間延びした声で言った。 めんどくさがりの柏木は、背も、平均身長くらいの俺よりも低い。 子犬に似てる佐藤とは反対に、自由気ままな猫って感じだ。 佐藤と並ぶといろんな意味で凸凹コンビだ。 「お前は早く帰ってゲームしたいだけだろ〜!」 と、佐藤が柏木の両頬を恨めしそうに引っ張るのを見て、俺は2人の仲の良さを羨ましく感じ、その中に俺を入れてくれる2人を、友人ABとしか見れない自分が心底疎ましく感じた。 「じゃーなー!」 2人に笑顔で手を振り、帰路につく。 あの3人の中で家の方向が違うのは俺だけなので、軽口を叩きながら帰るあの凸凹コンビを見て、いつも、あの中に自分がいるのが嬉しい自分と、自分がいない方があのコンビにとってはいいんじゃないかと考える自分で葛藤している。 それは、はたからみたらものすごいくだらない事かもしれないが、自分にとっては重大で。 俺はその“くだらない”と思える人が羨ましい。 このなんともいえない苦痛を、雨が流してくればいいのに。 雨の音を聞きながら、そんなことを思った。 自分の家である、このボロアパートの前で、傘をたたみ、鍵を開ける。 ガチャッ 濡れた傘とともに、扉を開け、中に入ると、本来ならば聞こえないはずの言葉が帰って来た。 「おかえり」 部屋の奥から、懐かしい、澄んだ水のような声が聞こえる。 そこで俺は理解する。 ああ、今年もこの季節がやってきたのか、と。 そして、俺はその声に、優しい本当の笑顔で応えるのだ。 「ただいま。水無月」 すると彼女はふっと俺の前に現れ、可憐な微笑みを返してくれた。
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