第二十八話 不器用な親子

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第二十八話 不器用な親子

 獣医によるとノブナガは足腰を骨折していて手術が必要だという。それから俺と親父は待合室で手術が終わるまで長い時間を過ごした。実際は一時間ちょっとだったが、時計の針が進むのがひどく遅いように感じた。  再び診察室に入った時、ノブナガはギプスやら包帯やらで下半身がグルグル巻きになっていた。包帯に巻かれたまま、ぐったりとして動かないノブナガを見て、さすがに親父もぎょっとしたのだろう。獣医に「どれくらいで治りますか。助かるんですか?」と尋ねた。  獣医は難しい顔で「猫ちゃん次第ですね」と答えた。 「意識が戻れば助かる見込みはあります。ただ……助かっても前のように歩けるようにはならないかもしれません」  親父も俺も絶句した。思わずノブナガを見つめるものの、ピクリとも動かない。交通事故に遭ったのだ。最悪の場合、ノブナガは死んでいたかもしれない。助かる見込みがあるだけマシだけど、それでもショックは拭えなかった。  しばらくノブナガを鴨川動物病院に預けることが決まり、ノブナガはケージへと運ばれていった。それを俺はただ茫然(ぼうぜん)と見送るしかなかった。ノブナガは何度も俺に体を貸してくれたのに、俺はいざという時、ノブナガに何もしてやれない。それが堪らなく歯痒かった。 (まさか、これで最後になるんじゃないよな……ノブナガ)  ゲージに運ばれていくノブナガを見つめながら、俺は心の中で話しかけた。早く戻って来いよ。お前がいない我が家なんて、大根の入っていないおでんみたいに味気がない。早く元気になって「にゃあご」とふてぶてしい鳴き声を聞かせてくれよ。  鴨川動物病院を出た俺と親父は、二人揃って家を目指した。といっても並んで歩くのは気恥ずかしいので、俺は親父の数歩後ろを歩いてゆく。  空を見るとすでに日が傾きはじめていた。冬のからっ風が冷やりと肌を撫でていく。俺は慌ててお袋のダウンジャケットを羽織った。女性モノというのがちょっと恥ずかしいけれど、そんなことは言っていられないほど寒い。  前を歩く親父は無言だった。俺も無言で歩き続ける。横断歩道で信号が青になるのを待っている時、俺は思い切って親父の背中に声をかけてみた。 「親父、どうして俺に教育学部を勧めたんだ?」  親父がこちらを振り返る。 「だって俺、子供の頃から教師に向いてるって感じじゃなかっただろ。なんで教師を勧めたんだ」  ずっと不思議だったのだ。俺は小中高とリーダーシップを発揮したこともなければ、大勢の友達に囲まれたこともない。親父もそれくらい察していただろう。安定職というだけで俺の進路を選んだのかと思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。  だから理由を知りたいと思った。何事も決めつけは良くないと、俺も学んだから。  親父は俺を見つめていたが、やがて口を開いた。 「……俺はお前は教師に向いていると思うよ。お前はリーダーというタイプじゃないが、そのぶん周りをよく見ているし、よく気がつくだろう。これからの時代、そういう奴のほうが教師に向いてるんじゃないかと思ったんだ」  親父は俺をそういう風に見ていたのか。否定ばかりしていたわけじゃないんだな、と初めて知った。「長男だろう、しっかりしろ!」と怒鳴られてばかりいた我が身としては、何だかくすぐったいような不思議な感覚だ。 「それにな……」と親父の言葉は続く。 「人は変わるもんだ。俺なんか若い頃、髪を伸ばして派手なTシャツを着て、会社勤めなんか死んでもごめんだと仲間に息巻いてたよ。信じられないだろ? 若い頃はこれが自分だと思っていても、歳を取れば変わってくる。いくらでも変わっていけるんだ」  俺はポカンとして親父を見た。ロン毛で派手なTシャツを着た親父の姿。想像して思わずブッと吹き出してしまった。親父はむすっとし、「洸一には言うなよ」と小さく付け加えた。  信号が青になって再び歩き出す。親父の背中を見つめながら、俺はもしかして親父は威張っていたわけじゃなく、単純に不器用なだけなんじゃないかと思いついた。  親父は本当はずっと俺と話がしたいと思っていたのかもしれない。しかし、二階の階段を上がって俺の部屋までくる勇気はなかったのだ。俺が一階に降りて親父と顔を合わせる勇気がなかったのと同じように。  動物病院の待合室で親父が話を切り出した時は、何でこんな時にと訝しんだけれど、親父にしてみれば、あの場でなければできない話だったのかもしれない。  そうだとしたら、とんでもなく不器用だ。そりゃそうだよな。俺の親父だもんな。俺は妙に納得してしまった。  二人で家に帰ると、お袋が飛び出してきた。弟の洸一も二階から降りてくる。 「どうだった? ノブちゃん、助かりそう?」  心配そうに尋ねてくるお袋に、親父が病院でのことを説明した。その話を、お袋は今にも泣きそうな顔をして聞いていた。 「当分は鳴川さんの動物病院に預けることになる」  そう締めくくった親父に、お袋は「そう」と弱々しく頷いた。 「ノブちゃんね、最後に鳴いたのよ。『にゃあご』って。今までありがとうって言ったのかもしれないわね」 「よしなさい。まだ助からないと決まったわけじゃない」  そう言って涙ぐむお袋を慰める親父も、難しい顔をしたままうつむいてしまう。家族全員が玄関先で灰色のベールを被せたように沈み込んでしまう。そんな重苦しい空気を振り払うように洸一が声を上げる。 「大丈夫だよ、母さん。あのノブナガだよ? このまま大人しく死ぬわけないよ、絶対」  その通りだと俺も思った。 「……ノブナガはそんなにヤワじゃない。こんなところで死ぬわけがない」  洸一と俺に励まされ、お袋も少し元気を取り戻したらしく、「そうよね、まだ諦めるのは早いわよね」と言ってかすかに笑った。  交通事故という不幸な出来事ではあったけれど、ノブナガのおかげでバラバラだった家族が一つになっている。みんなでノブナガを心配している。  やっぱりノブナガはうちに必要なんだ。  お袋はお茶を淹れるから一緒に飲もうと誘ってくれたけれど、疲れているからと言って断った。階段を上って自分の部屋に戻ると、飛び出した時のままになっていた。  高階を助けに岡橋へと向かった時も、ノブナガを動物病院に連れて行った時も、切羽詰ってそれどころではなかった。そういう時には胃痛も頭痛も出ないのだ。やはり精神性のものだったんだな、と改めて俺は思った。体のどこかに異常があったわけではない。ただ、心が疲れきっていたのかもしれない。  お袋はノブナガの最後の一声を「今までありがとう」と言っているように受け取ったのかもしれないが、俺は違った。あの時、俺とノブナガの眼は一瞬だが合った。気のせいではない。確かにノブナガは俺の顔を見たのだ。そして「にゃあご」と鳴いた。  俺はノブナガが「しっかりしろ」と言っているように感じた。 『――しっかりしろよ、蒼太。しっかり前を向け』  そう言われているように思われてならなかった。  そうだ。前を向こう。すぐには外に出られなくても、外に出る努力をしよう。ここから一歩踏み出さなければ永久に何も変わらない。  俺は窓のところまで行くと、カーテンを思い切り引いた。外の光がさっと部屋の中に飛び込んでくる。  実に一年と半年ぶりの日の光だった。
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