第二十九話 春の足音

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第二十九話 春の足音

 あっという間に年末がやって来た。ノブナガはまだ回復しないものの、幸運にも意識は戻ったそうだ。交通事故にあった日から、お袋は毎日のように鳴川(かもがわ)動物病院へと通っているらしく、二階に弁当を運んでくれる時に俺にも近況を報告してくれる。 「後遺症が残らないといいんだけどね。ノブちゃん、ただでさえ太ってたのに歩けなくなったら余計に太っちゃう」  ノブナガが意識を取り戻したことで、お袋もたいぶ元気を取り戻したらしく、そう言って嬉しそうに笑っていた。ノブナガの容体が回復してきたことで、家の中も少しだけ明るさを取り戻したような気がする。  そして迎えた大晦日(おおみそか)の夜。俺の部屋をノックする音がして、扉の向こうからお袋の声がした。 「蒼太、ドア開けてくれる?」  少し迷ったものの、俺はドアを開けた。以前はドアノブすら回せなかったけれど、ノブナガを病院に連れて行った日以来、ドアを開けることがそれほど苦痛ではなくなっていた。  お袋は丼を乗せたお盆を俺に差し出した。 「はい、年越しそば。熱いから気をつけてね」 「………。ありがと」  小さく感謝を伝える俺に、お袋は笑顔で「良いお年を」と言うと、一階に降りていった。  俺は机に座って年越しそばを食べた。熱いそばを(すす)っているうちに、ふと風呂に入ろうと思った。別に清い体で新年をとか、殊勝(しゅしょう)なことを考えたわけではない。熱いものを食べていると汗をかいて気持ち悪くなったのだ。  除夜の鐘が鳴り響き、家がすっかり静かになった頃を見計らって、俺は一階に降りた。シャワーを浴びて、石鹸(せっけん)をこれでもかと泡立てる。何だか溜まりに溜まったものが一気に洗い流されていくような爽快感があった。  風呂から出て鏡の前で髭を剃っていると、突然、洗面所のドアが開く。驚いて振り返ると、洸一(こういち)がそこに立っていた。洸一もまさか俺がいるとは思わなかったらしく、ぎょっとした顔をしている。どうやら洸一もひとっ風呂浴びようというのか着替えを抱えていた。  何だか気まずさを感じた俺は、そそくさと洗面所から出ようとする。すると、すれ違いざまに洸一が「髪、切っちまえよ」と声をかけてきた。「それ、似合ってねーぞ」と。  俺は「うるせえ」と短く返事をすると洗面所をあとにした。  洸一と交わした会話は素っ気ないものだったけど、洸一のほうから声をかけてきたことが堪らなく嬉しかった。洸一は俺のことを許したわけではないだろう。俺に言いたいことも山のようにあるだろう。でも、それを口にしない洸一のやさしさが、俺はありがたかった。  部屋に戻ると体がさっぱりしたせいか、急に部屋の掃除がしたくなった。ずっと締め切っているから空気がこもって埃っぽいし、洗濯物やゴミも溜まっている。深夜だから大きな物音を立てないよう、ビニール袋にゴミを集めていった。いざ片づけを始めると、止まらなくなった。よくもまあこんな汚い部屋に、一年以上も引きこもっていられたものだと我ながら呆れる。  こうやって少しづつ変わっていけばいいんだ、と俺は思った。胸を張って語れる夢が見つかったわけじゃない。今でも教師になりたいと聞かれれば、答えは分からない。目標ができたわけでも何でもないけど、とりあえず焦るのはやめた。親父も人はいくらでも変わるんだと言っていたではないか。  地道に歩いていけば、いつかこれが夢だと言えるものが見つかるかもしれない。いつか目標もできて、再び頑張ろうという気になるかもしれない。いろんな経験を積み上げていけば、自分に自信が持てるようになるかもしれない。  俺は一歩、踏み出すことを決めた。  親に言われたからじゃない。家族に迷惑をかけるからでもない。俺がそうしたいからそうするんだ。  年が明けて一月に入ると、洸一はラストスパートをかけるべく朝早くから夜遅くまで猛勉強をしており、お袋が毎晩、心配そうに夜食を運んでいるようだった。  一月を一週間ほど過ぎた頃、俺は久しぶりに外出着に袖を通した。チェックのシャツに無地のニットとスラックス。その上から押入れの奥から引っ張り出してきたコートを羽織る。そして財布の中に千円札が七枚入っているのを確かめると、それをコートのポケットに突っ込んだ。  部屋を出て一階へと降り、下駄箱からスニーカーを取り出すと、後ろでドアの開く音がした。 「蒼太……?」  振り向くと、お袋がリビングから顔を出していた。息子が出て来たのを見てほっとしたのが半分、心配が半分といった顔だ。大きな物音を立てたつもりは無かったのに気づかれてしまった。さすが、お袋にはかなわない。 「どこか行くの?」 「ちょっと髪を切りに行ってくる」  それを聞き、お袋は嬉しそうな顔をした。 「そう、気をつけて行ってらっしゃいね」  俺は徒歩で駅前の横町商店街へ行くと、行きつけの床屋に入った。主人は俺の長い髪を目にして眉を上げたが、それ以上は何も言わず、俺を椅子へと促した。おまかせで散髪を頼むと若干、短めの髪型にされた。何だか洸一とお揃いみたいだな――そう思い、顔が似ているからだと気づいた。そりゃそうか、兄弟だもんな。  すぐに伸びるだろうと楽観的に考え、支払いを済ませて店を後にした。 「お帰り。さっぱりしたわね」  家に戻ると、お袋は髪を切った俺を目にして朗らかに笑った。 「洸一(こういち)にそっくり」  そう言われると思った。俺は「気のせいだろ」とぶっきらぼうに答えて二階に上がった。  その日の夜、親父が家に戻ってきたのを見計らって俺は一階に降りた。リビングのドアを開けると、帰って来たばかりの親父と料理を温めるお袋、二人の視線が一斉に俺に注がれる。  俺は二人に「今まで心配をかけてごめん……四月から大学に行かせて下さい」。そう言って頭を下げた。  正直、今でも教師になりたいか分からない。そんな中途半端(ちゅうとはんぱ)な気持ちで大学に行かせてくれだなんて図々しいと自覚している。だけど、このまま逃げたら本当にダメになってしまう気がする。俺はまだ大学で何もしてない。ろくに勉強もしていないし、友人もいない。しっかり学ばなければ、自分に教師なれるかどうかも分からないのだから。  ひとつひとつ目の前のことを着実にクリアしていくこと。それを積み重ねること―――それが自分で考え、導き出した俺の答えだった。  親父は多くは口にしなかった。「分かった」とだけ言うと、「頑張れよ」と小さくつけ加えた。  春になると洸一の大学受験の結果が出た。洸一はめでたく第一志望の大学に合格した。俺と同じ大学かと思いきや、洸一が合格したのは隣県の大学の建築科だった。 「そんなに国立にこだわらなくても良かったのに……」  お袋は洸一を遠方に出すのが不安であるらしく、しきりと心配していたが、洸一は笑って言った。 「別にこだわったわけじゃない。その大学の建築科に有名な先生がいるんだ。だから、そこで勉強したいって思ったんだよ」  お袋は最後まで渋っていたが、洸一の入学手続きを無事済ませると、それからはあれよあれよという間に三月の中旬には洸一の引っ越しが決まった。その前日の夜、便所から部屋に戻る時に、俺は洸一とばったり出くわした。 「明日、家を出るんだろ? 大学合格おめでとう」  俺がそう声をかけると洸一はびっくりしたような顔をした。俺から話しかけて来るとは思わなかったのだろう。洸一は俺をじっと見つめていたが、不意に口を開いた。 「もう引きこもんなよ」  俺が「引きこもらねーよ」と答えると洸一は笑顔になった。 「やっぱ頭、そっちのがいいよ」  俺は「うるせえ」と言ってドアノブに手を回した。そして最後に「頑張れよ、洸一」と声をかけた。「兄貴もな」と洸一も答えた。  次の日、洸一は俺とお袋に見送られて家を後にした。  そして、とうとう四月がやって来た。
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